2001年5月6日「恵みと行い」エペソ2:1−10
序.エペソ書の1章は、全体の序文として、神様が計画された救いの素晴らしさを語っています。あんまりスケールが大きいので、ピンと来ない部分があったかもしれません。今日は、救いということを、もうすこし身近な面から考えたいと思います。

1.罪の中の死(1−3節)
 教会に初めて入った人が、いきなり「あなたは罪人だ」と言われたら、おそらく憤慨するでしょう。もちろん、それは聖書の中の「罪」ということがどんな意味か知らないからで、それが理解できたら多くの人は「そう言われればそうだ」と思うでしょう。パウロは言っているのは同じように誤解を受けやすいことです。パウロ曰く、人間は罪の中で死んでいる。つまり「あなたは死んでいる」。いったいどんな意味でそんなことを言っているのでしょうか。
 罪の中に死んでいる状態を、パウロは2節から説明しています。それは「この世の流れに従」うことだと最初に言っています。生きている存在は、流れの中で自由自在に動くことができます。死んだもの、命のないものは流れの通りに流されていきます。もちろん、あまり動かない動物もいます。クラゲ(私はクラゲが自分の力で動き回るかよく知りませんが)のように流れに身を任せ漂っていますが、死んではいないものもいます。でも、クラゲのことを「生き生きしている」とは言いませんね。命のない状態、罪の中で死んだ状態とは、この世の罪の流れに従って歩んでいる姿です。
 クリスチャンは敢えて争いを起こそうとはしないかもしれません。しかし、もし神様の御旨に反することなら、流れに逆らわなくてはならないことがあります。もちろん神様から知恵を戴いて無用な争いは避けるかもしれませんが、罪に対してノーと言うことができないのではいけません。世の中が罪に満ちている社会にあって何の波風も立たないとするなら、もしかしたら私たちの信仰は半分死にかけているのかも知れない、と注意が必要です。
 流されるというのは受動的なイメージです。世の中がこんな状態なんだから、自分の力ではどうしようもない、と責任転嫁をしがちですが、パウロは、実はもっと事態は深刻だ、と教えます。罪の中に死に、罪の中を歩んでいる者は、実は悪魔に従っている、と言っています。「空中の権威」とはちょっとよく分からない言葉です。悪魔が持っている権威は決して絶対的なものではなく、神様の方が上ですし、この世の終わりにはうち破られるものです。しかし、今の現実の中で、悪魔という存在は権威を振るっているかの様に思うときがよくあります。この悪魔に知らず知らずに、いえ、もしかしたら半分気がつきながら言いなりになっているのを良しとするのは、神様との関係では死んだ状態なのです。
 こういったことは、決して読者や世の中の人を批判するために書かれているのではありません。3節。「私たちもそうだった」とパウロは自分を含めて語っています。罪の問題は、聖書の中にはっきりと書かれていますが、それは他者を裁くためにあるのではなく、自分の真の姿を知るためです。罪なんてものがあるから仕方がない、あるいは「罪が存在するようになったのも神様の所為じゃないか」なんて言う人もいる。しかし、パウロはそうじゃない、と言います。実は、私たちは「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行な」っている。ですから言い逃れはしてはいけない。自分の欲することを行うのが罪だからです。そんな私たちは神の怒りを受けるのが当たり前です。
 3節の最後は、直訳すると「生まれながらの怒りの子」と書かれています。生まれたときから「怒りの子」。自分の子を見ていると実感することがあります。赤ん坊の頃から怒ることを知っている。なんでか分からないけど、怒る。でも、ここで書かれているのはそう言う意味ではありません。新改訳のように、神の怒りを受けるべき存在、と理解するのが正しい。罪の中を歩み、悪魔に従い、自分の欲のままを行っているのだとすると、神の怒りを受けて当たり前です。
 確かに私たちは十字架によってその罪を赦して戴き、救われた。でも、それは当たり前のことではないのです。むしろ、神の怒りを受けるのほうが当然の存在、それが私たちなのです。誰でも、罪の問題はあまり見たくない。でも、自分の罪がよく分かってきたとき初めて、救いの素晴らしさがもっとよく理解できるのです。

2.恵みによる救い(4−9節)
 4節の始めの「しかし」は、とても大切な「しかし」です。怒りを受けて当然の私たちです。それにもかかわらず、神様は憐れみ、愛してくださった。これが神の愛です。そんなにも大きな愛によって私たちは救われたのです。その救いは一言で言うと恵みです。
 恵みによる救いは二つの側面があります。一つ目はキリストによる救いだということです。神様は罪の中で死んでいた私たちを生かしてくださった。それはキリストとともに生かしてくださったのです。5節6節に三回「ともに」という言葉が出てきます。罪に汚れた私たちを救うためにキリストが私たちと一緒になってくださった。罪のために神様に近づけない私たちを救おうと、神様の方から近寄ってくださり、しかも汚れているから少し離れたところから救う、のではなく、一体となってくださったのです。
 新約の時代に、十字架と並んで最も厳しい処刑とされたものに、こんな刑があったと聞いたことがあります。死刑を受けるべき犯罪者がいます。その彼に他の死体をくっつけて動けないように縛る。そうすると、死体が腐っていき、それが生きている方にもやがて及んでいき、体がだんだんと腐っていって死んでしまう。詳しいことは分かりませんが、十字架とはまた違う残忍な刑です。私たちは罪の中で死んでいる存在です。その私たちとキリストは縛り付けられ、一体のなってくださった。私たちの罪の故に一緒に死んでくださった。そして、三日目によみがえられたとき、私たちも一緒によみがえらせてくださったのです。それだけではない、キリストは天に昇られ、父なる神の右の座につかれたのですが、そのとき私たちも一緒に天上の座に座らせてくださったのです。怒りを受けて滅びるべき存在を、そこまで引き上げてくださったのです。これが恵みです。神様が私たちに一方的に与えてくださった恵みなのです。
 この「ともに」というキリストとの一体化による救いを表すのが聖餐式であり、キリストの体である教会なのです。ですから、キリストとともに生かされている私たちは、決してキリストから離れてはいけない。教会を通してキリストにしっかりとつながって行かなければなりません。このことはまた他のところでお話ししますので、置いておきます。
 さて、恵みによる救いの一面はキリストによる救いですが、もう一面があります。それは、行いではなく信仰によって救われる、ということです。行いによる救いとは、私たちが何か良いことをしたので、その対価として救いを受け取ることです。私たちも自分の支払いをしたのだから救いを受け取るのは当然だ。だから、まるでおこぼれをもらったように自分を卑下することはない。自分のプライドは保たれる訳です。しかし、本当は人間のちっぽけな行いで罪が赦されるのではありません。ただ賜物として救いが与えられる。与えてくださるという神様の言葉を信頼して救いを受けるのが信仰です。信仰による救いは、信じた「から」救われるのではない。それだとまるで、信じたという行為を支払った代わりに救いを受け取ることになります。そうではなく、神様が与えてくださるという事を、そのまま信じ、神様を信頼することです。私たちのなすべき事は、何もしないことです。心配で何かしないと不安だ、というのは神様を信頼していないことです。救いは、神様からの一方的なギフト、それを
受け入れるのが信仰です。
 私たちが救われたのは、ただ恵みによるのです。

3.救いと行い(9ー10節)
 救いは行いによるのではなく、信仰による、というのは聖書が教える真理です。でもそれは、行いはどうでもよいと言っているのではない。そこいらへんが難しいところです。
 行いによる救いとは、自分の良い行いを対価として支払うことで、自分の力で救いを手に入れようとすることです。それは神の恵みを無にすることになります。では、救われた「から」良い行いをする、というのはどうでしょう。救われたことを感謝して何かをしたいというのはまだ良いのですが、それが救われたのだから何かをしなければならない、となったときに義務感に変わってしまいます。強いられてするときにそれは重荷になってしまう。そして、義務を果たすことで、神に認められたい、あるいは満足したい、となるときに、結局、その行いは対価を支払うことになってしまうのです。ただ、支払いが先か後か、の違いがあるだけです。
 では救われたものは良い行いをしてはならないのか。そんなはずはありません。でも、自分の力で何とかしようとしがちなのが、人間です。義務感に陥りやすいのが私たちです。どうしたら、神様の恵みを無にすることなく、良い行いが可能でしょうか。最後の10節でパウロは、「私たちは、良い行いをするために造られた、神の作品」だと言っています。だから良い行いをしなければ、と言っているのではありません。神様が私たちを造ってくださったのです。しかも、「良い行いをもあらかじめ備えてくださった」。ですからただ私たちは神様の言葉を聞き、それに従うときに、自然と良い行いをする者となるのです。もしかしたら、自分では良い行いをしていると感じないかも知れません。ただ、神様の恵みに感謝し、神様の御心に耳を傾けるとき、私たちを用いて神様が働いてくださり、神の作品として神様の栄光を表すことができるのです。そこには、「この行いによって何かを受け取ろう」というような取引は無いのです。
 イエス様が話されたことのなかに、私たちは葡萄の枝だ、という話があります。もし、枝が幹につながっているなら、自然と実を結ぶのです。いつもキリストにつながっているなら、私たちは新しく造られた存在です。与えていただいた恵みをたっぷりと受けて、神様の御言葉の栄養をいっぱい戴いて、キリストの体なる教会の交わりに生きるなら、必ず、良い実を結ぶことができる。それは自分の力ではなく、神様がキリストによってしてくださるのです。

まとめ.

 私たちはいつのまにか努力によって良い行いをしようとしていないでしょうか。そうではなく、神様の恵みをしっかりと見つめること、それが大切です。御言葉によって内側から変えられていくならば、必ず神様の御心を行うことがでくるのです。私たちは神様の作品です。造ってくださった方に目を向けて生きましょう。