2002年5月5日『神の恵み−ぶどう園にて』マタイ20;1-16
フリップ・ヤンシ−という人が『だれも知らなかった恵み』という本を著している。彼は、「アマデウス」という芝居を引用して、恵みのことについて次のように書いている。
−神の思いを理解しようとする17世紀の野心的作曲家アントニオ・サリエリを描いた芝居「アマデウス」を見た。敬虔なサリエリには神をたたえる不朽の音楽を創作したいという真摯な願望があったものの、その才能がなかった。代わりに神が、前代未聞の音楽の天才という最も偉大な贈り物を思春期前半のいたずらな少年ウォルフガング・アマデウス・モーッアルトに惜しみなく与えたことにサリエリは激しく憤った。
「アマデウス」の作者は、神はなぜ、神からの賜物を受けるに値しない悪ガキなんぞに「報いる」のだろうと考え込んだ。・・義務を果たすエサウより、陰謀を企てるヤコブを神はなぜ選ぶのか。なぜサムソンというモーツアルト的不良に超自然的な強い力を授けるのか。なぜ小さな羊飼いの少年ダビデをイスラエルの王に仕立てるのか。そしてまぜ、そのダビデ王の密通の実であるソロモンに知恵という最高の贈り物を与えるのか。全く、これら旧約聖書のどの話をとっても、恵みの引き起こすひんしゅくが表面下で重々しく音を立てており、最終的にはイエスのたとえ話しにおいて劇的な大変動を起こして噴出し、モラルの地形を作り変えるのである。−
これは、わたしたちの気持ちの中にもあるものである。神の恵み、それは一方的な神からのプレゼントである。これを明確に自分の信仰の中心に置くことはとても大事なことである。これを理解することがなければ、私たちの救いは
常に条件を満たさねば実現しない、という信仰に変質して行く恐れがある。今月は、「神の恵み−はかり知れない恵み」というテーマでお話をする。共に、すべてが神の恵みであるという、神のメッセージを学びたい。
@ぶどう園に雇われた人々
マタイの20章でイエス・キリストが語った、「神の国とはこういうもの」=恵みの世界のたとえは、ぶどう園で働く労務者を雇った農場の主人の話である。
ぶどう園の主人が労務者を雇い始めたのは、1節「朝早く出かけた主人」とあるように、日が昇ってすぐにということがわかる。当時の市場は相当早く開かれていたようである。9時ごろ出かけてみると、何もしないでただ立っている労務者たちがいた。主人は彼らに声をかけた。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから』。労務者はぶどう園に向かったのである。12時、3時と労務者は雇われた。そして最後に雇われたのは、5時の労務者である。6〜7節を見てみよう。主人は『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか』と話しかける。労務者たちは『だれも雇ってくれないからです』。すると主人は『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』と言い、彼らを雇ったのである。つまり、朝早く、おそらく日の出と同時に仕事にかかった者もいれば、午前の一息入れる時刻、昼休み、午後の3時のお茶の時間、そして終業時間の1時間ほど前に始めた者もいたのである。
A主人の賃金払い
皆、それぞれが働き、満足している様子で仕事場から引き上げてきた。いよいよその日の労賃をもらう段になった。主人は監督に命じて、最後に来た者たちから順に賃金を払わせた。終わりに賃金をもらった労務者、つまり、焼け付くような日差しの下で12時間働いた、いわゆる頑丈で屈強な男たちが知ったのは、せいぜい1時間ほどしか働かなかったであろう、それも汗もあまりかいていない新参者までが自分たちと全く同額の賃金を受け取るという場面であった。おそらく、5時から来て働いた男たちが「わあ、やった。1デナリもらったぞ。1デナリだ」と騒いだのであろう。朝早くに来た男たちは、我々は12時間も働いたのだからきっと多く貰えると期待したが、やはり同じ1デナリであったのである。主人の行為は、働く側のやる気や賃金は公平に払われなければならないという、常識に真っ向から対立するものであった。これは、単純明快、不愉快きまわりないものと言える。別な表現をするならば、自分の信頼をしているレギュラー陣と同額の給与を新入りに支払う雇い主がいるのか、となる。ある人が言った。<恵みは確かに、甲高く「不公平」という音をたてる>のである。屈強な男たちは、不公平と感じ、12節にあるごとく強く強く主人に詰め寄ったが、約束どおり1デナリであった。この話をこうにも解釈できる。5時から雇われた労務者たちはとても一所懸命働いたので、感心した主人は丸一日分を嬉しくなって支払ってしまったのだと。しかし、これは当たっていない。なぜなら、5時から雇われた労務者たちは、何もしないで一日中市場に立っていたと書かれていることから分かるように、収穫期なのにただのんびりと立っていたわけだから、一所懸命働いたとは推測できないからである。
B主イエスの御思いと恵み
では、主イエスのこのたとえ話の真意は何か。主のお考えはどのようなものなのであろうか。
まず、第一に、<恵みは神の一方的な約束である>。13節『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と1デナリの約束をしたではありませんか』とある。神の恵みは、最後に終えるか、最初に終えるかは問題ではない。早く救われたか遅く救われたかで、恵みが多いか少ないかが決まるのではない。
早かろうが遅かろうが、救われたものの恵みは同じなのである。主イエスは私たちに、恵みは神からの贈り物として受け取るのだよと教えるのである。苦労を重ねて得るものではない。救いの恵みも、その後の喜びも感謝も、あるいはその人にとって苦しみと思われる試練という恵みも、すべての人に約束されているのである。恵みは自分の功績によって受けられるものではない。なぜならもし神がそのような功績という条件を満たさなければ恵まないとするなら、その条件を満たすことのできる人は誰一人いないからである。
第二に、<恵みは神の愛から出ている>ということである。主イエスが語られたたとえの主人は、丸一日働いた人を騙したわけではない。1時間だけの賃金を払ったのではない。きちんと約束されたものを彼らは得たのである。朝早く雇われた者も愛され、また遅く雇われた者も愛されたのである。14節『私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。』という愛から恵みは下されるのである。パリサイ人を筆頭とするユダヤ人たちは、われこそ神の選民と言い、一番神から愛されていると自負していた。しかし、イエスは異邦人をも愛し仕えられた。異邦人にも同じ恵みを施したのである。私たちは、
自分を誰と重ね合わせるであろうか。その日の終わり頃に加わった労務者より、丸一日働く者に、ではなかろうか。私たちは責任感ある労務者だと考えたがるのではなかろうか。神は私たちに賃金ではなく、愛の贈り物を、それもお返しのいらない贈り物を与えるつもりなのである。
第三に、<恵みを壊してはならない>ということである。妬むことほど、恵みを壊すものはない。むやみな欲望、私にくださらないと恨みますという思い、それは私たちの罪である。これだけやっているのだから恵みを受けて当然だという自己中心は私たちのうちに根強い。主の十字架による罪の赦し、その恵みをないがしろにしてはならない。それを確信する者の集まりこそ、キリストの集いである。それが神の国なのである。常に恵みの信仰に立って主を仰いで歩んで行きたい。