4月30日 黙示録21-22章 「主のみもとで」
序.先週はイースターでした。弟子たちは復活されたキリストにイースターの日曜日にお会いした、そしてその次の日曜日に再びイエス様は彼らの前に姿を表された。おそらく、このようにしてユダヤ教では土曜日が安息日だったのがクリスチャン達は日曜日に礼拝をするようになったのでしょう。ですから復活がなければ日曜日の礼拝も、いえキリスト教自身も存在しなかったのです。
よく復活なんて非科学的だと言われます。科学というのは本来、何回も起こりうることを対象とする学問です。ですから歴史上たったの一度だけしか起こらなかった出来事について考えるのには科学では限界があります。このような場合には他の歴史的証拠に基づいて考察をします。物的証拠としての遺品や遺跡、また目撃者たちの証言といったものが大切な証拠となります。日曜日に礼拝をするようになったことも一つの歴史的証拠と言えると思います。初めのクリスチャン達はユダヤ教徒でした。彼らにとって土曜日に礼拝をすることは命がけで守るべきことでした。それを日曜日に変更するようになるというのはよほどのことがなければあり得ません。復活の主に会った、という衝撃的な出来事でもなければ今でも日曜日に礼拝が守られていたかも知れません。
今日は、復活の証明をするのが目的ではありませんから、詳しいことについては色々な本などをお読み下さい。牧師や神学生に質問されてもようと思います。今日お話ししようと思うのは、キリストの復活によってクリスチャン、すなわちキリストの復活を信じる者達に与えられる希望についてです。キリストは十字架上で罪の贖いを果たして下さっただけでなく、復活によって死の呪いを打ち破って下さった。ですからクリスチャンは死を恐れる必要はなくなった。死んでも、世の終わりによみがえり天国に入れていただける希望があるのです。その希望の根拠となるのがキリストの復活なのです。この天国の希望について教えているのが黙示録の最後の部分です。いったい私達に与えられている天国の希望とはどのようなものでしょうか。今朝は3つの側面から天国の希望について考えてみたいと思います。
1 天国の場景
2 天国の住民
3 天国の主なるキリスト
1.天国の場景 (21:921)
天国って一体どんなところでしょう。それをかいま見せているのがこの箇所です。ここでは「新しいエルサレム」と呼ばれています。その都の城壁の土台石は宝石で飾られていると21節からのところに書かれています。この宝石のリストが上げられていますが、あまり聞いたことのない宝石もありますし、よく知っているものでここには上げられていないものもあります。「あら、ダイヤモンドがないわ」と心配する人もいるかも知れません。実は、このリストに出てくる宝石のなかには本当は何であるのか分からない言葉もあり、ですから翻訳によっては違った言葉で書かれているものもあります。「あらゆる宝石」と21節に書いてありますから、きっとダイヤもあるのでしょう。その中で黙示録が書かれた当時の人々に知られていた宝石の名前を遣ってリストを書いたのでしょう。何であろうと、この新しいエルサレムは純金と宝石によって光り輝く姿であるということです。
皆さんはきっと映画の予告編というものをご覧になったことがあると思います。映画館で映画の始まる前にもうすぐ封切られる映画の宣伝が流れる訳です。テレビでも流しますが、映画館のスクリーンで見るともっと迫力があります。あの予告編では映画のハイライトとも言える画面を短い時間の間で数多く見せてくれます。しかし絶対に肝心な所は見せません。このストーリーの結末はどうなるのだろう、とか、犯人は誰か、といったことは分かりません。知りたいと思うことが全て予告編に出てくるわけではありませんが、その映画を見てみたくなるのには十分な情報を流している訳です。この黙示録で描かれている天国の場景は、丁度その予告編のようなものかもしれません。私達の好奇心に対する回答が全て出てくるのではありませんが、行きたい気持ちを沸き立たせるのに十分な描き方をしています。
ここに使われている言葉は、黙示録の他の部分と同じように象徴的な用語を含んでいます。12の土台というのはその完全生を示す数字であり、イスラエルの12部族の名前と12弟子の名前というのは、旧約時代と新約時代の全ての信仰者のすべてを代表しているのでしょう。都の形は立方体で、その一辺が1万2千スタディオンと書かれていますが、これは100マイル以上と考えられています。でも、この数字も、物理的な大きさよりもむしろ天国の完全性をしめすものと思われます。人間の想像をはるかに超えたものであることは間違いありません。そしてその美しさを表現しているのが様々な宝石の名前です。天国の素晴らしさは人間の言葉によっては表すことができないほどです。でも、その限られた表現でもなお私達にそこに行きたい気持ちを起こさせます。
ここまでは天国、黙示録の言葉では新しいエルサレム、聖なる都のいわば外見を描いています。22節から徐々に内部に移っていきます。
2 天国の住民 (21:2222:5)
内部と言っても最初は外から中を覗いているようです。現在のエルサレムに行きますと、オリブ山の頂上から旧市街と呼ばれている城壁で囲まれた町を見ることができます。現在ではもうありませんが、紀元70年に破壊されるより前ならば、外からでもエルサレム神殿が見えた事でしょう。この新しいエルサレムではその神殿はない、いやいらないと書いてます。それは神とキリストご自身が目に見える姿でそこにおられるので、目に見えない神を礼拝するための神殿はもはや必要でなくなったからです。そして、昔のエルサレム神殿に、ユダヤ人だけでなく世界中からさまざまな人が礼拝に来たように、24節では諸国の民が礼拝に来ると書かれています。しかし、ここに難しい問題があります。天国の外側にすんでいる人がいるのか、ということです。天国の外側、それは地獄では無い様です。しかし、天国に入れない人々がいるのだろうか、あるいは中に入ることは許可されても住むのは外だという人もいるのか、そういった疑問です。一体自分は天国に入れるのだろうか。
おそらく、この24節から26節の言葉というのは、旧約聖書の表現の影響を受けているものと考えられます。旧約聖書の時代には救いを受けることができるのはユダヤ人で、異邦人はいわばお情けでその恵みにあずかることができる。丁度地上のエルサレム神殿に外国人も礼拝のために入ることを赦されていたが、エルサレムの町はユダヤ人のものであったように、世の終わりの新しいエルサレムもユダヤ人が住むためのものであり、異邦人はその外に住んで礼拝をささげるために中に入ることを許される、と旧約時代の人々は理解していました。そういったやや民族的な理解というものが旧約聖書の表現に見られますし、この黙示録もそういった言葉の影響を受けている。他の様々なシンボルと同じく、天国の場景を表す言葉にも旧約の預言書の影響が現れているようです。実は城壁で囲まれた都というもの自体が当時の世界の町に対するイメージから来ているのかも知れません。1世紀に生きていた著者のヨハネや読者たちが理解できるように神様が示して下さったのか、あるいは見たものを自分の理解に基づいて表現したのかは分かりません。
何にしても、問題は、誰が天国に入れるか、です。27節には汚れたものは入れない、また22:3には呪われるものは何もない、と書かれています。そんなところに自分の様なものが入れるのだろうか。いえ、誰が「私はこの天国に入るに相応しい人間である」と言えるでしょうか。
以前に奉仕していた教会で、あるお嫁さんがお姑さんと話しているのを録音したテープの事を聞いたことがあります。どうやらそのお姑さんが夢を見た、その夢について話しているのを録音したようです。その夢の中でお姑さんは天国をみたそうです。天国の中に入っていって、イエス様のみもとに行ったそうです。その話に相づちを打ちながら、お嫁さんが「お義母さん、お義父さんは?」と訪ねました。「ああ、あの人は門番ですわ」。先に亡くなられたお舅さんは少し難しい人だったのでしょうか。私は、その話を聞いて、門番でも良いから天国に入れていただきたいな、と思ったことを覚えています。
一体誰が天国に相応しいのでしょうか。もちろん、世の終わりに復活させられるときには新しい姿に変えられているからそんな心配はいらないのかも知れません。でも、この地上で生きている今、私達のどこに天国に入れて頂けるに相応しいものがあるのでしょう。誰も相応しい人間であるから天国に入れるのではありません。むしろ相応しくない罪人であるにもかかわらず、十字架に基づく赦しと神の憐れみによって入れていただける。ですから、私は救われているから大丈夫、と言いながら罪を犯しているような私達が天国に入れていただけるのはただ神の恵みなのです。
ですから誰も誇ったり、人を裁いたりすることは出来ません。それでもなお、私は天国に入れていただけるという確信を持つことができるのは、聖霊がそのように信仰を与えて下さっているからです。
では、私達は自分が天国に入れるか分からないということでしょうか。さっきお話ししましたように、ここには天国の全てが書かれているのではなく、疑問に対する答えが全て書いてあるわけではありません。でも、神様が私達に伝えようとなさっていることは全て告げられています。私たちが天国に入れていただけるか、その疑問に対するカギは、キリストなのです。
3.天国の主なるキリスト (22:621)
天国の問題をキリスト抜きに考えるのは間違いのもとです。キリストのいない天国なんて、OOOOのないOOOO(クリープのないコーヒー?、あんこの入っていないあんパン?)です。クリスチャンは、そしてその集まりである教会は、黙示録では花嫁に例えられています。そして花婿に当たるのがキリストです。天国にキリストがおられなかったら、そこは天国ではありません。
ところで、9節以降にはちょっと難しい部分があります。ここまでの天国の幻を示したのは一人の天使なのですが、その天使が「見よ、私はすぐに来る」と行ったときに、著者のヨハネはその天使の足下にひれ伏しました。それに対して、その天使は自分を拝んではいけない、神だけを拝みなさいと戒めます。そして、その後を続けて呼んでいくと、12節に再び「見よ、私はすぐに来る」、13節に「私はアルファでありオメガである」、これはキリストを指す言葉です。そして16節には「わたし、イエスは」と書いてある。ではあの天使はイエスだったのか、そしてイエスは自分は神ではないから拝んではいけない、と言っているのだろうか。でも、もしそのように言うならば、これは異端です。三位一体を否定することになりかねません。そこで、多くの翻訳は、カギ括弧(英語ならばクウォーテーションマーク)を適当な場所に着けて天使の言葉とキリストの言葉を区別できるようにしています。
おそらく、これは、著者のヨハネや当時の読者たちにとっては疑問にも思わなかったことと考えられます。初代の教会にとってはキリストが神の子であり、礼拝の対象であることは疑い用の無いことでした。しかし、後に、ギリシャ哲学などの思想から生まれる疑問によって論争が生じ、それが三位一体の教理が構築されることに繋がっていくことになります。ですから、ここで著者が言おうとしていることは別の事なのです。
旧約聖書の時代もそうでしたが、天使が語ることはそれは神ご自身が語ることと等しかったのです。時には預言者の言葉も神の言葉として受け入れられました。そのため、時々、ちょっと行きすぎて、その天使や預言者を拝むような人もいました。実際、黙示録の時代のユダヤ教のなかには天使崇拝のようなこともあったようです。それにたいしてはヨハネはこの書を通してはっきりとノーと言っています。しかし、天使はあくまで天使にすぎないし、ヨハネを含めて預言者も人間に過ぎないけれども、その言葉の出所はキリストご自身であることを伝えているのだと思われます。これらの天国の予告編はキリストからの言葉であり、権威はキリストにあるのです。だから、信ずべき言葉であり、自分勝手に書き換えてはいけないと、最後の部分で戒めているのです。
私達は、このキリストを抜きにして天国の事を論ずるならば、それは神話や作り事のようになってしまったり、自分勝手な判断をしてしまうかも知れません。大切なことは、この素ばらし天国の希望を与えて下さるお方ご自身です。私達の救い主であられる方が、もう一度来られる、しかも、花婿として、花嫁である教会を迎えるために来て下さる。このキリストに目を向けることが大切なのです。救い主に目を向けて離れないならば、天国に入れるだろうかなどという不安は生まれません。そして、一日も早く、このお方にお会いしたい、と思うのです。丁度、花嫁が花婿を待つように。
初代のクリスチャン達の挨拶に「マラナサ」という言葉があります。これは「主よ、どうぞ来て下さい」ということを意味します。私のために十字架にかかって下さり、そして復活されたキリストとお会いできる、その日を待ちながら生涯を送るならば、例え周りの状況は困難に満ちていても、天国の喜びを心にいただくことが出来るのです。私達も「主よ、来たりませ」と祈りましょう。