2001年4月29日 「教会のための祈り」エペソ書1:15−23
序.先週からエペソ書を学び始めました。エペソ書のテーマは「キリストの体である教会」だ、といわれます。教会とは何なのか。それに対する答えがここにあります。私たち、このグレンビュー教会が、神様の御心に適った教会として成長するためにも、エペソ書を学ぶことは大切だと思います。さて、先週は1章の14節までを通して、「神の計画された救い」ということをお話ししました。私たちが与った救いというものがどれほど素晴らしいものであるか、ということでした。救いの素晴らしさを知るときにクリスチャンは生き生きとしてきます。教会は感謝と喜びにあふれてきます。もうそれだけでも良い、と思ったら、この手紙を書いたパウロは、さらに神様に求めています。救われた者たちにとって何がこの人生の目的なのか。それが今朝お話ししようとしていることです。
1.神を知る人生(15−19)
パウロが書いた手紙がいくつか新約聖書のなかにありますが、多くの場合、その宛先の教会で何かの問題があって、それに対する解決が書かれています。ところが、このエペソ書には特に大きな問題は見受けられない。もちろん人間の集まりですから完全では無かったでしょう。でも、おそらくほかの教会と比べたら、エペソの教会は大変に良い教会であったと思います。ところがそのエペソの教会のためにパウロが祈りの中で求めていることがありました。彼らの様子を聞いて、16節ではパウロはいつも感謝をささげています。そのうえで、17節から彼がさらに求めていることが記されています。
一言で言いますと、それは「神様をもっと知るように」ということです。神を知る、というのは勉強したら分かる、というものではありません。聖書を通して、また日常生活における体験を通じて、私たちは神を知るのですが、自分の力で知ることはできません。神様が助けてくださるときに初めて、私たちは神様を知ることができるのです。ですからパウロは「知恵と啓示の御霊」を与えてください、と祈っているのです。
神を知ること、これがクリスチャン人生の目的です。どんなに世の中の基準では成功したとしても、神様と無関係に生きることは滅びに向かうことです。いつかは終わりがくるこの地上での人生で、最も素晴らしいこと、それは永遠の神様と共に生きることです。この神様を知ること、それが救われた者の人生の目的です。なぜでしょう。
神様を知る、ということによって私たちが知らされることをパウロは18節、19節であげています。18節。御霊が私たちの心の目を開いてくださるときに、私たちは神様からの望みと私たちの受け継ぐべきものが分かってきます。この二つは、どちらも天国を指しています。召された者、救いに与った者に神様は天国を約束してくださいました。神の子としていただいた私たちは、御子とともに天国を受け継ぎます。19節。未来のことから今の私たちのことを述べています。私たちの中に神様が働いてくださっている。神様の力がどれほど強いかを知るのです。これら二種類のことが何を意味するか。それは私たちの人生をマラソンにたとえてみるとわかりやすいと思います。天国、それはゴールでまっているものです。走り抜いた後で、どんなに素晴らしいものが与えられるかを知っているなら苦しいレースも走り続けることができます。でも、自分には走る力がないと思ったら辛くなったときに走れなくなる。でも、自分の内にある力を知っているなら、そんなときでも走ることができるのです。
本当のマラソンなら、選手の自信は練習やコーチの指導が裏付けているでしょうし、ゴールには栄誉と賞品と、そして休息が待っています。私たちが天国でいただくことができるものはもっと素晴らしいものです。その素晴らしさを知れば知るほど、地上での人生でも希望を持って生きることができます。また、どんな苦難も乗り越えることができるように、神様ご自身が私たちの人生に、いえ私たち自身の内側で働いていてくださる。神様が支えていてくださるのですから、それを知るなら辛い道のりも力が与えられます。
神様を知るときに、私たちの人生が変わってきます。ゴールが見えるようになり、力が与えられる。それだけでなく、走り方まで変わってきます。それが2番目に考えたいことです。
2.頭なるキリスト(20−21)
パウロは19節で神様の力について語った後で、その力というのがどれほどに強いものであるかを述べています。20節。まず、神の力はキリストの復活において表されました。死をもうち破る、どんな敵よりも強い力、それが復活の力です。そして、キリストが神の右の座についたこと。復活とともに弟子たちが宣べ伝えたことに、もちろん十字架がありますが、そのほかにキリストの昇天があります。彼らが目撃したことです。またステパノという最初の殉教者は、その、天に帰られたキリストが神の右に座しておられる、と証言しました。パウロもその言葉を聞いたと考えられます。
さて、この「神の右の座」というのは一体何かといいますと、それは父なる神様に次ぐ位だということです。神様より上の存在はいない。漫画だと神様の上に何とか様がいるなんていうのがありましたが、聖書が伝える本当の神様はすべてのものの上に立っておられる。その神様に次ぐ位ということは、父なる神様以外のいっさいのものよりも上だということです。それを述べているのが21節です。ここに出てくる「支配」などは、ユダヤ教で考えられていた天使たちの位を示すと説明する人もいます。また、当時のローマ皇帝は自分を神としましたが、そのローマ帝国のあらゆる権威よりも遙かにキリストは上におられる。だから当時のクリスチャンは皇帝礼拝の圧力にも屈しなかったのです。
実は、キリストが上におられるということを知るとき、私たちの価値観が変えられます。世の中で価値があると考えられているものよりも素晴らしいものを私たちは知っているのです。地位や力、財産、健康、命、そういったものが最高のものと考えるとき、それにとらわれて生きるようになります。しかしどんなものよりも素晴らしい、最高のお方を知るとき、すべて問題から自由になって生きるものとされる。
クリスチャンになっても、神様をよく知ろうとしない、キリストの素晴らしさも分からない、というとき、結局は普通の人と同じものを求め、同じような生き方になってしまいます。しかし、神様を知り、キリストを知るときに、私たちの生き方、走り方が変わるのです。
3.体なる教会(22−23)
22節を見ますと、このキリスト、いっさいのものを足の下に従わせたお方が、教会に与えられた、と言っています。このお方が来たら、怖いもの無しではないか。教会は世の中のどんなものにも負けない。でもちょっと違います。
確かに、教会に、そしてクリスチャンに神様は素晴らしいものをくださった。永遠の命、真理、そういったものを持っていると思います。しかし、「自分は真理を持っている。だから教えてやる」と思うときに傲慢になってしまいます。いや、時には、神様を知る、ということがまだ乏しいのに、何でも知っている気になってしまう。人の言うことに耳を傾けなくなり、ついには神様からの声も聞かなくなってしまう。それではいけません。すべてにまさるキリストが与えられた、というのは教会が、クリスチャンが、このお方を自分のものとして自由にして良い、ということでは決してありません。神はキリストを教会に与えた、それは、頭としてです。
教会はキリストの体、キリストは教会の頭です。体は頭の言うとおりに動きます。体が頭よりも上になるときと、おかしくなります。キリストが与えられた、真理が与えられた、というのは、私たちがかしらになるためではなく、僕として仕えるためです。このキリストと教会の関係というのはエペソ書全体のテーマでもあり、またこれからもお話しすることがあると思うですが、今日は最後に、教会がキリストの体である、ということの一つの意味をお話しして終わりたいと思います。それは23節後半。
教会のかしらであるお方は「いっさいのものをいっさいのものによって満たすお方」です。ちょっと分かり難い表現ですが、このお方が教会に満ちておられるのです。ですから、教会には何も無いように見えるときでも、すべて必要なものが与えられているのです。何よりもキリストがいてくださる。命、真理、恵み、すべてをもっておられるお方が充ち満ちていてくださる。それが教会です。ですから教会に来た人が、ここにキリストがおられる、と分かる。まだキリストを知らない人でも、教会は何かが違う、と気がつくのです。それが満たす方が充ち満ちているところです。
ところがそれを妨げるものがある。それは自分自身です。コップの中に砂がいっぱい入っているときに、水は入りません。入ってもわずかです。でも中にあるじゃまなものを出すとき、水をいれることができる。私たちの中にはいろいろなものが詰まっています。自分はこうしたい、自分はこう考える、自分はこれが欲しい。そういった自分が生活をいっぱいにしているときキリストの入る隙間がない。教会も自分のやりたいこと、すきなこと、自分が正しいと思うことでいっぱいにしようとするとき、人間がかしらとなってしまいます。
しかし、キリストが頭となってくださるときに、キリストは私たちのうちに静かに入ってきてくださり、内側を満たし、内側から作り替えてくださるのです。神を知り、キリストを知るとは、そういうことなのです。頭であり主であるお方に明け渡していく時に、人生が変えられ、また教会が充ち満ちたところとなるのです。
まとめ.
自分自身を振り返って見ましょう。生活の中にキリストが入る隙間がないようになっていないでしょうか。自分の考えでいっぱいになっていないでしょうか。もう一度、満たしてくださる方に明け渡しましょう。私たちの教会もそうです。私たちのものではない。キリストの教会です。ですから、キリストの願っておられる教会にしていただきましょう。そして、この教会がキリストのために豊かに用いていただき、感謝と喜びにあふれたところにしていただきましょう。