2002年4月28日『互いに愛する』 第一ヨハネ 4:7−21
イントロ
先週の木曜日、ついに私の4年間に及ぶ神学校の学びが全て終わりました。 週末、この4年間を振り返ってみる機会が与えられ、いろいろと思い出していました。 本当に精神的にも、霊的にも、経済的にも様々な苦難を経験した4年間でした。 本当によく最後まで終われたなーというのが正直な感想です。 ふり返ると、神様は、その場面場面に応じて、いつも愛をもって私達を導いてくださったことを深く思わされます。 英語でのコミュニケーションの問題。 信じていた投資会社の詐欺、それに伴う金銭的危機。 恵美の家族の不幸。 そう考えてみると、こうやって全ての学びを終わることができたこと自体が、本当の意味で、奇跡なんだなあと改めて思いました。
グレンビュー教会で、こうやってメッセージを取り次がせていただくのも、これが最後です。 いろいろと学ばせて頂いた感謝を込めて、最後のメッセージ、どういうのが良いかとあれこれ祈りつつ考えたのですが、やはり、昨年秋から続けている「主につながる」というテーマを、最後まで通そうと決めました。 本日は、ヨハネの手紙第一から、そのテーマに基づいてメッセージを取り次がせていただきたいと思います。
このヨハネの手紙第一は、あのイエスの愛された弟子、12弟子の一人であるヨハネによって書かれたと言われています。 誰でも手紙を書くときには、そうしさしめる特定の状況と目的があります。 ヨハネにも、やはりそのような特定の状況と目的がありました。 ヨハネがこの書簡をしたためた時、偽教師などの暗躍により、教会の中は波立っていました。 教会の中は混乱と人々の争いが絶えない状況だったようです。 そういった状況の中、ヨハネは人々をもう一度最初の信仰へと引き戻すため、また、本当に教会にとって大切なことを伝えるため、この手紙を書いたようです。
そして、本日取り扱う箇所、4章7節−21節までは、教会にとってとても大切なことのひとつ、「愛」がテーマになっています。 「愛」と一口に言っても、様々な愛がありますが、ここでは特に「互いに愛し合うこと」・クリスチャン同士の兄弟愛がテーマになっています。 ヨハネは、私たちクリスチャンが互いに愛し合うということがなぜ大切かという問題に対し、ただ、神様が望んでいるからだとか、教会にとって必要不可欠だからといった、私たちが一般的に答えるような答えを遥かに超えた答えを与えています。 それは、「私たちが神の愛によって互いに愛し合うことにより、私たちのうちに、神様の愛が完成される」ということです。
私たちが神の愛をもって互いに愛し合うことにより、私たちのうちに、神様の愛が完成する・神様の愛がまったきものとなる、欠けの無いものになるのだと言うのです。 一体、これはどういうことなのでしょうか? 今一つ、ぴんと来ません。 では、私たちが神の愛をもって互いに愛し合うことによって、どのように私たちのうちに、神様の愛が完成するのかということを、前半の部分、すなわち、神の愛をもって互いに愛するという部分と後半の部分、すなわち互いに愛することによって、私たちのうちに神の愛が完成するという部分とに分けて、それぞれ見ていきたいと思います。
I. 神の愛をもって互いに愛する。(7−11)
まず、前半の「神の愛をもって互いに愛する」というところから見てみたいと思います。 ヨハネの手紙第一の4章7節を開いてみてください。 7節「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」とあります。 愛のある者はみな神から生まれ、神を知っている。 では、愛する者はみんな、神から生まれた神の子供なのでしょうか? ノンクリスチャンでも愛はあります。 子供を愛している親はみんな神の子供なのでしょうか? あるいは、街を行く、愛し合うアベックはみんな神の子供なのでしょうか? もちろんそうではありません。 これは、次の8節にある「愛のない者に、神はわからない」ということを強調するために逆説的に言われているのです。 7節と8節はセットなのです。 たとえどれ程その人が愛に富んでいたとしても、どれ程心が広く誰をも受け入れる人であったとしても、その愛の対象に神様・イエスさまが入っていない限り、その愛は、神様から見たとき、本物ではありません。 「愛は神から出ている、神は愛である」とあるように、神様の言う愛とは、神様にその源を置いているものなのです。
続いて、ヨハネは、神様の言う愛とはどのようなものかを描写するために、神様のなさった愛の業を、例として示しています。 9節10節、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」 神様は、私たちを愛した結果、神様と私たちとの間にある罪の問題を解決するため、ご自分のひとり子をその身代わりとして、十字架によって処罰することにより、私たちを許してくださいました。 そして、これこそが神様の言う愛であると、ヨハネは言っているのです。
では、神様の愛には、どのような特徴があるのか、もう少し深く掘り下げてみたいと思います。 神様の愛には、まず、一つ目、自己犠牲的であるという特徴があります。 ご自身の痛みをもって、私たちの罪を取り除かれたのです。 また、純粋に、自分ではない他の利益を追求しているという特徴もあります。 イエスさまの十字架上での苦しみと死は、神様サイドには何も利益は無いのです。 全て、私たちの利益なのです。 二つ目の特徴は、他の利益を追求するということです。 また、神様の愛は、ご自分から端を発しているという特徴もあります。 神様ご自身がその愛の計画者であり、実行者なのです。 私たちが何か神様にとって良いことをしたから、神様がその愛を示されたのではありません。 神様がその愛の業をご自分の意志によって始められたのです。 三つ目の特徴は、自分の方から発信していることです。 この3つの特徴、自己犠牲的であること、他の利益を追求すること、自分から発信することは、単に神様の愛の特徴であるだけではありません。 神様は、私たちにも同じ種類の愛を示すことを望んでおられます。 そして、この3つの特徴を持つ神様と同じ種類の愛を示す人こそが、神様を知る、神の子であると言っているのです。
では、どのようにして、私たちは神様の愛を実践できるのでしょうか? この3つの特徴、自己犠牲的であること、他の利益を追求すること、自分から発信することを持ち、しかも私たちが日常しばしば経験する場面でなければならない・・・、それは、神様が私たちに対してまさになさったこと・・・、それは「許し」です。 ここで、ヨハネが「許し」を念頭に置いていることは、ちょっと跳んで、20節「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。」の中の「兄弟を憎む」という許しの反対の表現が用いられていることからも明らかです。
誰か自分にとって不利益なことをした人を許すときには、まず、とにかく自己犠牲が要求されます。 自己犠牲と聞くと、私たちはすぐに肉体的な、あるいは金銭的な犠牲を心に抱きがちですが、実際には、私たちが最も自己犠牲を要求されるのは、心の中での犠牲、精神的な、あるいは感情的な犠牲なのです。 許しとは、まさにその精神的、感情的犠牲を必要とします。
また、許しとは他の利益を追求する行為です。 こう言うと、「そんなに簡単に許したんじゃ、相手が成長しないのではないか? それは、むしろ相手の利益を阻む行為ではないか?」と思われる方もいらっしゃるかもしれない。 しかし、許しと教訓を与えるというのは、別の問題です。 許しの無いまま、教訓を与えようとすると、表面には怒りや苛立ち、押し付けが出てしまって、本当の教訓は相手には伝わりません。 よって、相手の成長は望めない。 まず、自分が相手を許して、その上で相手に臨む時、相手に愛が伝わり、相手もその教訓が聞けて、成長の助けとなるのです。 許しとは、相手の問題ではなく、自分自身の内面の問題なのです。
これは、3番目の特徴とも関わり合います。 3番目の特徴、それは、許しとは、自分から発信される行為あるということです。 相手が謝ったから許すとか、相手が反省しているから許すとかいうのではないのです。 許しとは、相手の態度やコンディションに関わらず、自分の方から積極的に為されるものなのです。 神様は、私たちが悔い改めるずっと前に、イエスさまをこの世に送り、私たちの身代わりに罰することによって、私たちを許してくださったのです。 その愛を受け取って、その喜びと感謝によって、許せないものを許していく。 それが、神の愛を実践していくということなのです。
許すというのは、口で言うほど易しいものではありません。 それには、周りの状況がいかであろうとも、自分は神様の側に立つという強いコミットメント・決意が要求されます。 大変ですが、その効果も絶大なものです。
あるニューヨーク州の最高裁判所の裁判官が、ニューヨークタイムズ誌にこんな記事を紹介していました。 彼が受け持った裁判のひとつに、とても残虐な若者の裁判があったそうです。 その若者は、無防備で降伏を宣言している青年を、後ろから無慈悲に拳銃で撃ち殺したという罪で裁判にかけられていました。 その殺人者は他にも数々の犯罪を重ねており、また、反省の色も無く、ふてぶてしく、陪審員たちが有罪判決を言い渡したときでさえ、鋭い目つきで睨みつけていたそうです。 2週間に及ぶ裁判を毎日法廷に通って見てきた被害者の母親とおばあさんが、最後に一言求められたとき、陪審員に向かってではなく、その自分の息子の殺人者に向かって、こう言ったそうです。 「あなたは、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を愛せよというゴールデンルールを破った。 また、あなたは、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよというきまりも破ってしまった。 私はあなたの隣人です・・・。 これが私の最後の一言です。 あなたが手紙を書いてくれるなら、私は必ず返事を書きます。 この2週間、ずっとこの裁判の席上で、また、過去16ヶ月間、ただただ、あなたを憎もうとしてきました。 でも、私はあなたを憎めなかった。 むしろ、あなたが間違った選択をしてしまったことを、大変悲しく残念に思います。」と言って、許しを宣言したそうです。 その裁判官が語っています。 「その時、裁判が始まって以来初めて、被告人の目から、刺し通すような睨みが消え、ただ母親だけが生み出し得る命の力、条件なしの育みの愛に打ちのめされたように見受けられた。 そのおばあさんが語り終えた後、私は被告人を見た。 彼の頭は深く垂れていた。 そこにはもはや横暴さも睨みも無かった。 彼のうちにあった破壊的な悪の力は、この高貴な慈悲深さにふれ、無力にも崩れ去ってしまった。」
許しの持っている力は、私たちの想像をはるかに超えて、絶大です。 それは、まさに神の力です。 神様の力を借りて、許せないものを許していく。 私たちが互いに愛し合うとき、忘れてならないのは、神の愛をもって愛すること・許すことです。
II. 互いに愛することによって、神の愛が私たちのうちに完成される(12−21)
では、つづいて、後半の部分である、「互いに愛することによって、神の愛が私たちのうちに完成される」ということについて、見ていきたいと思います。 まず、冒頭から、ヨハネはクリスチャンの持つ特質について3つ述べています。 13節−16節まで見てください。 何度も繰り返されている表現があります。 若干の違いはありますが、「その人が神のうちにおり、神もその人のうちにいる」という相互共存を表す表現です。 ヨハネによると、神がその人のうちに居て、その人も神のうちにある人こそが、クリスチャンだというのです。 つまり、神様と共存状態にある人、神につながっている人ということです。
そういった人の特質として、13節、まず、聖霊を持っていることが挙げられています。 これは、キリストを救い主と信じたとき、無条件に神様から与えられるものです。 つまり、神様からの愛を受け取っているということです。 次に、15節、クリスチャンは、イエスさまを救い主・神の御子と告白するという特質が挙げられています。 神様の愛に応え、イエスさまを自分の主としていく、つまり、神様に従っていこうという意思表示をするということです。 こちらから神様を愛するということです。 そして、最後のクリスチャンとしての特質は、16節、神の愛に生きているということです。 これには、もちろん1番目と2番目の特質である、神様の愛を受け取ることと神様をこちらから愛することも含まれますが、文脈から言って、神様の愛のゆえに、他人を愛していく、ということが言われているものと思われます。 この3つがそろってこそ、17節にあるように、神様の愛が私たちにおいても、完全なものとなるというのです。
この3種類の愛のうち、最初の2つは、実際には目に見えてきません。 神様の愛を受け取っているかどうか、つまり、聖霊を持っているかどうかは、外からは見えないのです。 また、神様を愛しているかどうか、すなわち、イエス様を主であると、形だけでなく、心より告白し、神様の側に立った生き方をしようと心に決めているかどうかも、実際のところ、外からは見えてきません。 3つ目の神の愛のゆえに他人を愛するという種の愛だけが、実際に目に見えてくるのです。 そういう意味で、この兄弟姉妹を愛するというのは、私たちが神の愛に生きているということの唯一の目に見える証拠なのです。 逆に言うと、この3番目の愛、隣人への愛が生活の中で見えてこない人は、1番目2番目の神様からの愛や神様への愛を持っているとは言えないのです。 20節に、「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」とあるとおりです。
また、この隣人への愛は、その前の2種類の愛の当然の結果でもあります。 もう一度、17節を見てください。 注意して頂きたいのは、ここで、ヨハネは、「このことによって、いつか完全になります」と未来のことを言う言い方をしないで、「完全になりました」ともう既に完了したという言い方をしていることです。 神様から示された愛を受け、神様を愛するとき、私たちは他人にもその愛を示す力が既に与えられているということです。 そして、その3つの愛を実践することにより、つまり、17節にあるように、この世にあってキリストと同じような者となること、すなわち、キリストのように自己犠牲的な、他の利益を追求する、自分発信型の愛を示すことによって、神様との一体感が生まれ、自分の中に神様と一体であるということに自身が持て、裁きの日にも大胆に神様に近づけるというのです。 キリストの愛を実践する者にとって、裁きは怖いものではありません。
また、18節、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです」とあります。 しかし、私たちが誰かを愛そうとするとき、常に恐れが付きまといます。 自分の愛が取り違えられたらどうしようとか、自分の愛が拒絶されたらどうしようとか、あるいは、そのかけた愛のためにつけあがられたらどうしよう等の感情です。 なぜ、そのような恐れが沸き起こるのか? それは、この世において、私たちは不完全な愛に慣れ親しんでしまっているからです。 この世の基準においては、愛はいつも不安定で、しかも条件付です。 裏切り裏切られることもしばしばなのです。 そして、私たちはいつの間にか、愛することを恐れてしまっているのです。 しかし、神様の愛は、そのような不完全なものではありません。 神様の愛は、常に安定していて、決して裏切られることはありません。 また、私たちがその愛に見合うから愛されているのではなく、ただ無条件に受け入れられているのです。
皆さん、もう一度、ここで次の3つのことをはっきりさせておきましょう。 この3つは、私たちが神様の愛に感謝をもって応えていく上で、この上なく大切です。 まず、1)あなたは完全に神様に知られているということ。 神様はあなた自身以上にあなたのことをよく知っているのです。 次に、2)あなたは完全に神様に受け入れられているということ。 あなたが今現在、神様に従っている、従っていない、そんなことは関係ないのです。 とにかく、神様はあなたを完全に受け入れてくださっているのです。 3)決して拒絶される心配は無いということ。 あなたが今現在、神様に従うことができていなくても、それによって、神様があなたを拒絶することはありません。 もちろん、従って生きてくれることを望んではいらっしゃいますが、その従えないことをもって、拒絶することは決して無く、ただただ、より深い神様の愛を知って、喜びをもって、立ち返ってくれることを、じっと待っておられるのです。
私も、本当に人間関係に苦しんだとき、人の言葉や態度によって深く傷ついたとき、あるいは自分自身の言葉や態度の中にある自分の弱さや醜さに気づき、自己嫌悪に陥ったとき、この3つの事実によって、何度も慰められ、励まされ、勇気付けられてきました。 自分は今になってやっと自分のこの弱さ・醜さに気付いたけれども、神様はずっとそれを知っていらっしゃった。 それを十分に知った上で、ご自分の子供として、私を受け入れてくださったのだ。 それに思い当たったとき、私は何とも言えない安心感に包まれたことを覚えています。 そして、その私を受け入れてくださった愛は、私が神様の御心に目を留めず、神様を半ば無視してクリスチャン生活を送っていた間も決して変わることは無かった。 神様は、ずっと私を受け入れ続けていてくださった。 そして、ずっと私の目が開かれてその罪に気付くことを、そして神様に立ち返ることをじっと待っていてくださった。 そのとてつもなく深い神様の愛に個人的に触れるたびに、私は、少しづつ、少しづつ、ずっと背負ってきた重い荷物、人を愛する恐れという荷物をおろしていくことができたような気がします。
恐れとは、愛が不完全なとき、生じます。 しかし、神様の愛は完全です。 神様の愛に生きることによって、すなわち、神様につながることによって、人を愛する恐れは無くなるのです。
結論
私たちが神様の愛を心より受け入れ、心より感謝の念に包まれるとき、私たちは他人を自己犠牲的に相手の利益を求めて、自分から発して愛することができる、許すことができるのです。 そして、神様の愛を受けて、神様の愛を持って、他人を愛するとき、私たちの中に神様の愛が完全なものとなり、完成されるのです。
適用
目を閉じて、しばし神様の前に心を開くときを持ちたいと思います。 思い出してください。 あなたは、神様に完全に知られ、完全に受け入れられ、決して拒まれることはありません。 神様の愛は、あなたにとって、そして、全ての人にとって、充分です。 あなたが今、霊的に、また精神的に、どういった状態の中にあろうとも、神様は全てご存知です。 そして、大きく両手を開いて、あなたを待っていてくださいます。 神様の愛は完全です。 けっして、裏切られることはありません。 ただ、あなたが勇気を持って、飛び込んできてくれることを、待っていらっしゃるのです。
いま、心の中に自分が愛すべき人が、許すべき人が浮かんでいるでしょうか? なぜ、愛せないのでしょうか? なぜ、許し受け入れられないのでしょうか?
主はあなたのその罪のために、喜んで命を捨てられました。 そして、その贖いにより、信じる私たちに力を与えてくださいました。 世に、肉に、悪に打ち勝つ力です。 いま、あなたはその力を既に持っているのです。 その内なる力を解き放ってください。 神様の愛にあなた全部を覆わせてください。
主よ、感謝いたします。 どうか、私たちがあなたの愛を充分に得て、あなたの愛を他に示していけるよう、あなたが助けてください。