説教題
「あなたのために祈りました。」
ルカによる福音書 22:31−34 54−62
ヨハネによる福音書 20:1-10 21:15-17
今日は、上記聖書箇所から、イースターの出来事の一つの場面を、ご一緒に見て行き、そこから共にメッセージを得たいと願っております。
みなさんにとってイースターというのはどういう意味を持っているでしょうか。
例えば、久しぶりに家族が集まる年中行事でしょうか、また、教会行事の一つで、何となく大事な日と言う認識でしょうか。
いかがでしょうか。
実際は、キリスト教信仰の中でイースターというのは最も大事な出来事であると言っても過言ではありません。
それは、同時にキリスト教を他の宗教とは、全く違う、どの人間が造った宗教にもない、独特の、唯一の真理に到達させる道を示していると言い換えることも出来ます。
さて、イースターと言いますと、少なくとも二つの事を見て行かなければなりません。
一つは、キリストが全ての人々の罪を背負い十字架にかけられた事で、それによって、
全ての、全世界の人々に救いの手がさしのべられた事です。
もう一つは、三日後にキリストは死からよみがえられた事であります。
即ち、罪の結果である死にうち勝たれたことによって、罪を克服された事であり、今も生きて働かれて、私たちに希望を与え続けておられる事です。
ところが、いま申し上げました二つの事実は、キリスト教信仰の在る意味で中心であり極めて大事な事柄でありますが、一般的には人間の知性と理解力を越えている事柄でもあります。
故に、時に教会では、イースター前から、この二つの事柄を数週間にわたって、神学的に説明していったりする事も在るわけです。
キリストの十字架の悲惨さとか、その様子、また、人間の常識では受け入れることのできない復活と言う出来事を何とか理解できるように説明しようとしたりいたします。
確かに、それは、それで大事な事なのですが、しかし、実際は、この一連のイースターの出来事に、私たち自身がどの様に関わっているかと言う事の方が遙かに大事な事なのです。
その意味で今日は、一人の登場人物に注目して、その人物が、キリストの十字架の直前どの様であったか、十字架を経て、キリストの復活を経験してどう変わったか、私たち自身をそこに投影しながら、ご一緒に見て行きたいと思います。
その登場人物は、ペテロと言う人物です。
この人物は、もともとは、ガリラヤ湖で魚をとっていた漁師さんであり、一番最初に弟子に招かれた人物であります。 まあ、弟子達のリーダー的存在で在りました。
性格的には、なかなか感情的な人物であり、極めてストレートな思考を持つ人物です。
それ故に、また、極めて人間的な弱さを持っていた人物でもあります。
さらに、少し背景事情を見ておきたいと思いますが、背景事情として、ここには非常に重要な事柄が一つあります。
それは、弟子達にしてみれば、自分たちの師であるイエス・キリストがとらえられ、本当に十字架にかけられ、死んでしまう等と言うことを信じていなかったと言うことです。
自分たちが、師と仰ぎ、数々のスーパーパワーを見てきた弟子達にとって、イエス様が人間につかまり殺されてしまうなんて、考えられない事だったと言う事です。
もちろん、ここには、大きな誤解があるわけです。
すなわち、自分たちの救い主というのは、軍事的、政治的、力で自分たちの王になってくれるはずの人物だという一般社会的、昔からの誤解があり、実は、キリストは人間の手に掛かり殺されなければならないのだ。と言う、神様の摂理が理解されていなかったと言う事です。
つまり、まさか、イエス様が捕まってしまうなんて、しかも、十字架にかけられ死んでしまうなんて、弟子達にしてみれば混乱の極みだったわけです。
一つには、そういう誤った認識を弟子達は持っていたという背景があります。
もう一つの、背景はイエス・キリストが宗教的対立の中に置かれていたと言うことです。当時のユダヤ教から見れば、彼らは異端的存在だったと言うことです。
この異端的存在を取り除いてしまおう、つまり、キリストを殺してしまおうと言う彼らとの緊張状態にあったと言う事なのです。
さて、ルカの福音書、33節から見てみますと。
これは、キリストが逮捕される直前の出来事でありますが、「シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
シモン・ペテロというのは率直な人物です。
彼は、本当にそう思っていたと思います。
「ごいっしょなら、牢にはいろうとも、たとえ死ぬ事になろうとも、かまいません。」
その時、ペテロは、まったくこの様に思っていたはずで、この言葉に嘘は無かったと思われます。
もちろん、具体的に何が起こるか分かっていた訳ではないでしょう、ましてや、キリストの死を予見していたわけではありません。
ところが、イエス様は、34節22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
イエス様は明確に現実を指摘いたします。
皆さんは、どう思われますか。
こういわれた、ペテロは純粋に憤慨したと思いませんか。
これほど、先生を慕っており、一番弟子であり、先生にどこまでもついていくと覚悟を決めているのに、なぜ、そんなことを言われるのか、と。
絶対にそんなことはない、と。
まぁ、普通の人間の反応ではないでしょうか。
このペテロの気持ちをちょっと記憶にとどめておいて下さい。
さて、この会話の後、ユダの導きによって、果たして、イエス様が逮捕されます。
その後の出来事が、54節からです。
22:54
彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。
なんと、イエス様は逮捕されるままにまかせ、大祭司の家に連れて行かれたのです。
この時ペテロはどうしたでしょうか。
「ペテロは、遠く離れてついて行った。」とあります。
遠く離れてと言う所に注目して頂きたいのです。
もちろん、事の成り行きを見極めると言う事も在ったと思われます。
これからどうなるのだろう、もしかしたら、イエス様を助けることが出来るかもしれない、いや、イエス様はいつものスパーパワーを使って、この連中をやっつけるかもしれないと、様々な思いがあったはずです。
自分としては、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と言った手前もあったかもしれません。
とにかく、ついに大祭司の家にまでついて来ます。
ちなみに、ちょっと気にとめておいて頂きたいのは、イエス様はまず、大祭司の家に連れて行かれたと言うことです。
即ち、これは、宗教的な対立の結果であったことを意味しております。
事実、法律の上では、イエス様に罪は認められず。 ピラトはイエス様を釈放しようとしております。
話を、戻します。
さて、この状態で、ペテロは、どの様に行動したのでしょうか。 55節。
22:55
彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。
弟子の一人が大祭司の知り合いであったため、中庭に入れたようですが、みなさん、この場面を想像して頂きたいのです。
皆さん自身をそこにおいて見て頂きたいのです。時間は、夜です。 しかも寒かったと別の聖書箇所にあります。
大祭司の家の中庭に人々が集まって居ます。
大祭司の審問を受けるためイエス様はここに連れてこられ、待たされているのです。
中庭には、火がたかれ、人々の顔を照らし出しています。
その中に、ペテロも人知れず混じって座り込んでいたのですが、
22:56
すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」
突然、ペテロは、自分が傍観者の立場から、話題の中心に移されたことを知ります。
それまでは、大変なことになったとは言え、自分自身のことではありませんでした。
しかし、一転して、自分が訴えられていることを知ります。
「この人も、イエスといっしょにいました。」と、即座に、身の危険を感じたペテロは、57節
22:57
ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。
イエスとの関係を否定いたします。
ちょっと言葉にこだわって起きますと、この「知らない」と言う日本語に訳されている言葉は、あの人と自分との間には特別な関係がないと言う意味の言葉です。
即ち、もちろん、イエスキリストと言う人は知っているが、自分は関係者では無いという意味です。 つまり、自分とキリストとの関係を否定したのです。
ところが、
22:58
しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ。」と言った。しかし、ペテロは、「いや、違います。」と言った。
また、ペテロはキリストの仲間であると訴えられます。
今度は、別の人から訴えられるのですが、訴えの内容が先ほどとは違います。
つまり、弟子達の一人だという訴えです。
ところが、ペテロはこれを否定することによって、イエスとの関係のみか弟子達との関係までもここで否定してしまいます。
これは、キリスト者のコミュニティーとの関係を否定した事になります。
さらに、
22:59
それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。
この人もガリラヤ人だから。」
と言い張った。
ここには、かなり時間の経過があったことが分かるのですが、別の人物にまた、キリストと一緒にいたことを指摘さ
れます。
今度はガリラヤ人であるという、根拠つきで訴えられるわけです、しかも、「言い張った」と、記されており、かな
り強くペテロは訴えられたようです。
22:60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。
ここでペテロが言っております、「分かりません」と言う言葉はこれまでの2回の否定とはちょっと意味が違います。
ただの否定ではありません。
自分の立場を弁護するための直接的な否定ではなく、相手の訴えそのものを否定している事に注目して頂きたいので
す。
即ち、ペテロは、自分を守ろうとするあまり、訴えた相手そのものを否定しているのです。
「何を言っているのだ、あなたは。 あなたの言っていることはおかしい。」と言うわけです。
これは、彼らの伝道対象である人々そのものをキリストとの関係で否定したことになり、彼の使命に関わる事として
極めて深刻な否定といえます。
最初は、キリストとの関係を否定いたします。 つまり、キリストと自分との関係です。
次に、キリストとの関係のみか、弟子達との関係をも否定いたします。
これは、キリスト者のコミュニティーとの関係で、現代的に言えば教会との関係です。
そして、最後は自分たちが、これまで伝道してきた、その人々をさえ否定してしまいます。
つまり、キリスト者としての使命の部分での否定です。
この三つの面をちょっと記憶にとどめていて頂きたいのです。
聖書にもどりますと、
それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
22:61
主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。
22:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。
「彼は、外に出て、激しく泣いた。」と、わざわざ記されておりますが、彼の気持ちのよく分かる所です。
皆さん、これは人ごとではありません。
私たち、一人一人が、実は、ペテロですね。
私たちは、日常の生活の中で、キリスト者である事と、自分の利害が対立するとき、程度の差はあれ、これと同じ事を経験しているはずです。
その背景にある、私たちの人間の心理からすれば、皆さん、もちろん、私も含めて、ペテロの気持ちが良く分かるはずです。
私たちは、キリスト者であるが故に、失う物があるのではないかという恐れがあります。
例えば、それは、ペテロのように命であるかもしれません。
また、物質的に、例えば、持ち物であるかもしれません。
あるいは、今までしがみついていた価値観であるかもしれません。
あるいは、今まで持っていた社会的立場であるかもしれません。
おもわず、自分を守るために、キリストを知らないと言ってしまいがちです。
いや、そこまで言わなくとも、ちょっとだけ、自分を守るための方便として、キリストから離れることがあるかもしれません。
実は、元々無かった物を守るためにです。
命にしても、財産にしても、社会的立場にしても、実はキリスト故に与えられた物であり、もともと、無くて当たり前の物であります。
しかし、人間にはそれがなかなか、理解されません。
そして、気がついたときは、ペテロの様に、激しく泣くと言う経験をいたします。
そして、キリストは十字架にかけられてしまったのです。
皆さんだったらどうでしょうか。
恩師を裏切り、自らの言葉に従いきれず
仲間を裏切り、自分の使命を投げ捨てたのです。
自分を守る事に必死であった自分。
実は、私たち人間はこういう存在であります。
そのような、自分を見つけだしたあなたは、このあとどの様に生きていきますか。
まさしく、ペテロのそのときおかれた状況はこういう有様だったのです。
そんな中、仲間の女達から意外なニュースがもたらされます。
ヨハネの福音書
20:1
さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2
それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
20:4
ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
20:5
そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。
20:6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、
20:7
イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
20:8 そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。
20:9
彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
20:10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。
ペテロはこのニュースを聞いて、走って墓に向かいました。
「ふたりはいっしょに走ったが、もう一人の弟子の方が速かった」と書いている本人が言っているところが面白いところですが。
「何が起こったのだろう。」
ペテロにしてみれば、イエスキリストを、裏切ったことに、罪悪感が在ったはずです。
いえ、かれは、あのとき「激しく」泣いたのです。
必ずや罪悪感が在ったに違いないのです。
そして、苦しみが続いていたはずです。
そこへ、もたらされた、ニュースです。
「まさか、イエス様が以前言っておられた通り、よみがえられたのだろうか。」
「もしも、よみがえられたので在れば、赦して頂きたい、この罪悪感、苦しみから救って頂きたい。」
皆さん、私たちは、自分自身を見れば自ずと判ることですが、まさしく、ペテロのように足りなく、愚かで、神を神とも思わない性質を持っております。
そして、言うまでもなく人間は弱い存在です。
死が怖く、自分が大事で、図らずもキリストを裏切ってしまいます。
考えて頂きたいのですが、ペテロにとって、もしも、キリストが死んだままの存在で在ったなら、どうでしょうか。
キリストを裏切ったまま、彼は、その罪意識の中で自分の生を終わらなければならない、本当に惨めな存在で在ったに違いないのです。
しかし、この女達の報告に続き、聖書はキリストのよみがえりを、証言しております。これが、ペテロを含め私たちにとってどれほど、慰めであり、救いで在ることでしょうか。
後にイエス・キリストがペテロ達、弟子達に、自らを現わされた時、ペテロは湖で船の上で魚を捕っていましたが、岸辺に現れたイエス様に向かって、「裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。」とあり、岸辺に向かって泳いで行った事が記されています。
他の弟子達は、船を岸辺に向かわせたのですが、それを待っていられないほどの、喜びがペテロにあった事が判ります。
キリストのよみがえりは、激しく泣かなければならないほどに自らに失望しうちひしがれた人間を、これほどにまで変えるのです。
このあと、イエスキリストはペテロに、信仰告白の機会を与えられます。
三回キリストを否定した、ペテロに対して、イエス様は、三回の信仰告白の機会を与えられるのです。
ヨハネ
21:15
彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
21:16
イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」
ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
しかし、ここには極めて大事なことが在ります。
これは、それぞれ彼がキリストを否定した三つの面に対する信仰告白の機会を与えたものでありますが、決してこの場で、彼の罪の許しを与えたのでは無いという事です。
この文章のどこにも、彼の罪に言及しているところが無いのです。
なぜでしょうか。
すでに、彼の犯した罪そのものは赦されていたからです。
聖書箇所、少し戻りますが、今日最初にお読みした箇所。 ルカの福音書。
22:31
シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
22:32
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。
だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
なんと、イエス様は、
「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」と言うのです。
キリストであるこの私をあなたは否定するであろう、しかも三回も。
しかし、そこで、自分に失望しないよう、信仰がなくならないよう、否定されたキリスト自らが、あなたのために、祈りました。と言うのです。
たとえ、あなたが、この世の力に負けて、キリストより、自分を選んだとしても、その自分にどれだけ失望したとしても、イエス様はあなたのために祈るというのです。
なぜなら、あなたの罪を私が背負い、その償いをこれからするからです。
これから、私は、十字架でその罪のあがないをするのです。と。
それが、キリストが十字架にあえてつけられ、死なれた意味なのです。
私があなたの罪のあがないをするから、だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
そして、同じように、失望している兄弟達を力づけてやりなさいと言うのです。
「わたしの小羊を飼いなさい。」「わたしの羊を牧しなさい。」「わたしの羊を飼いなさい。」
と、彼が否定したそれぞれの事柄に対して、今一度使命を与えたのです。
わたしは、このメッセージを準備しながら、深く感動いたしました。
キリストは、この私の罪の性質故に十字架に架かられたのです。
そして、その十字架にあえて向かわれた、キリストの思いを知るならば、私は、そこに、キリストの私に対する愛を見いだすのです。
そして、私に希望と使命を与えるために、よみがえられたのです。
どれほど、私は慰められたことでしょうか。
ペテロは、伝承によると、逆さ十字架の刑で殉教したと言われています。
それは、この時から、真のキリスト者として、生きていった、証でもあります。
このとき、激しく泣いた彼の心の内に、キリストの愛が根付いた結果でもあります。
まさしく、私たち自身が、ペテロとして、この社会の中で生きているのです。
ペテロは、人間的に言えばこの様に弱い人間でした。
しかし、キリスト者として強く生きたのです。
キリストの十字架と復活のゆえに。 私たちも、また、そうでありたいと願います。
お祈りをいたします。