2001年4月22日 救いの祝福の豊かさ」(エペソ1:1−14)


序.今週から新しいシリーズに入ります。ヨシュア記からのメッセージが終わり、2
週間ほど十字架と復活について語られてまいりました。今日から、新約聖書の中からエペソ書に目を向けていきます。
 エペソ書の中心テーマは「キリストの体なる教会」だ、と言われます。グレンビューの教会がキリストの体として整えられ成長するためにも、教会とは何かということを聖書から学びたいと思います。
 さて、今日はその教会という話題に入る前に、その土台である救いがどんなものであるかをもう一度確かめたいと思います。キリストの十字架と復活によって救われたことがどんな素晴らしいことかを知るとき、救われた者が形成する教会も恵みに満ちた所となります。この手紙を書いたパウロは受取人であるエペ
ソ教会の人々に、まずそのことに目を向けさせ、これから始まる教会についての教えの土台を据えようとしているのです。私たちも救いの祝福の豊かさを御言葉によって知らせて戴きましょう。

1.父なる神による計画(3−6節)
 1節、2節は手紙としての挨拶文で、本題は3節からです。この挨拶は簡潔ですが素晴らしい内容です。今日は触れませんが。さて、3節の最初も、挨拶の続きのようですが、同時に、今日学ぶ3節から14節の大事なテーマの一つである「神を誉め讃える」という話題を導入している言葉でもあります。神を誉め讃える。人間は何のために存在するか、という問いに対する究極的な答えは、神を礼拝するためであり、誉め讃えるためです。(今日、英語部と合同礼拝を行い、一緒に賛美を捧げました。グレンビュー教会が、主にあって一つであることを、賛美を通して体験でき、感謝でした。)
 しかし、ただ賛美をするのではなく、何故賛美を捧げるかが分かってきますと、ますます賛美の素晴らしさを味わうことができる。そこで、パウロは賛美の理由として、神様の祝福である救いが与えられていることを話し始めます。
 父なる神様がキリストによる救いにおいて私たちにして下さったのは、祝福である、と書かれています、祝福と言うと、地上での祝福を求めがちなのが人間ですが、それに遙かに勝ることとして、「天にある全ての祝福」とパウロは言っています。一体、どんな祝福なのでしょう。具体的な内容は4節と5節です。
 私たちは、救われた最初の頃は、自分でこの教会を選んで、信じることを選んで、この神様を自分の神として選んだ。自分のほうが選んだのだと思っています。ところが、段々と学んでいくうちに、実は神様のほうが私を選んでいて下さったのだ、と気が付くわけです。この教会に導かれたのも、見えないところですでに神様が働いていて下さった。実は、生まれる前から神様は私に目を留め、救いへと導いてくださった、と書いてある箇所もあります。ここでは、もっと逆戻って、実は天地が造られるよりも以前、人間には想像もできないことですが、永遠の昔から神様は私たちを選んでいてくださった、と言うのです。
 ここで語られている「選び」というのは、自分は選ばれているけど、あの人は違う、といった人と比較する意味での選びではありません。そうではなくて、救いが神様から始められていることを示す
ものです。
 今日は、礼拝の後、お昼もお茶も予定されていません。一緒に食べに出かけてもいいですし、用事のあるかたは早く帰ることももちろんできます。ちょっと、皆さんと一緒にどこかのレストランに食べに行く、と想像してみて下さい。いつものように、まず、どこのレストランにするかみんなが好き勝手なことを言っ
てなかなか決まりません。ようやく話しがまとまって、いざその店に行ってみたら、びっくり。店の入り口には「ようこそ、グレンビュー教会ご一行様」と書いてある。中に入ったら、私たちのために今朝から飾り付けまでされている。そして料理がでてきて、その料理について訊いてみたら、何日も前から仕込んだものだ、と説明されます。そして、その材料は、もう何週間も前から準備をしてきたと言われる。いや、実はこのレストランの設計から数えると、何年も前から準備は始まられたんだ。知れば知るほど、驚きです。
 神様の選びによる救い、というのも、そういうことです。最初は、ちょっと救われた、くらいに思っていたのが、神様のご計画をしらされると、実はもっと壮大なものであることが段々と理解できるようになるのです。ですから、救われた最初だけ嬉しくて、あとは段々とさめていく、というのは救いの豊かさを知らないからです。月日がたてば立つほど救いの恵みの豊かさに驚かされるものです。そして、天国にいって全てを知らされた時には、もっとその素晴らしさを知るのです。
 神様のご計画は、私たちを聖いものとし、さらに神の子とすることです。お客さんとしてやって来たら、教会では家族として迎えられ、神様は子として受け入れて下さるのです。そんな神様の計画を知らされたら、神様に感謝し、その選びの計画の素晴らしさに驚き、神様の栄光を賛美、しなけらばならない、のではなく、賛美しないではいられない、のではないでしょうか。神様は、私たちが考えていた以上に私たちを愛していてくださったのです。

2.子なるキリストによる実現(7−12節)
 神様は計画されただけでなく、必ず御心を実行されるお方です。私のように計画倒れ、なんてことはありません。

私たちは御前で聖く傷のないものとされ、神の子とされるために必要なのは罪からの救いです。この計画の実現において大きな役割を果たされたのは子なる神、キリストです。
 キリストのなされたことを一言でいうなら、それは「贖い」です。十字架による贖い、というのは罪の赦しを第一に意味します。これが無ければ、罪人のままでは神様に近づけない。ですから、罪からの救いが一番です。でも、それだけではありません。救われて、それでお終い、ではなくて、この救いは永遠にいたるものです。十字架で死なれたキリストは、三日目に蘇られた。それは新しい、復活の命であり、私たちに永遠の命を与えるためです。永遠の命ですから、いつか終わるようなものではなく、救いは天国にまで続く。それを、パウロは「奥義だ」と説明します。
 神の計画された奥義とは、天国に言ったとき、すべてのものがキリストにあって、一つに集められる、ということです。今は、救われた者たちは、目に見える部分では、様々な教会に別れています。それは、人間のもつ様々な制限故に、ある程度やむを得ないことです。でも、天国では、全てのクリスチャンが、あらゆる違いを越えて、一つとされるのです。今朝の礼拝はその雰囲気をちょっとだけ味見したものです。
 贖い、というのは、罪の赦しなのですが、同時に、私たちの罪の罰の身代わりとしてキリストが死なれた時、私たちの、いわば身代金を払って下さり、それによって私たちは買い取られ、キリストのものとされたのです。キリストのものとされ、具体的にはキリストの体である教会の一部とされたとき、私たちは頭であるキリストによって一つとされる。それが完成するのが天国です。ですから、キリストの働きは、罪の赦しから天国までのすべてを含んでいるのです。
 10節で、「いっさいのもの」と書かれています。これは、キリストを信じても信じなくても、全ての人間が一つとされる、ということではありません。もちろんエペソのクリスチャンたちを相手に書かれた手紙ですから、信じた者たちを念頭においた言葉です。しかし、ある意味では全ての造られたものも関わってきます。単に物質的な意味で、全ての動物、ということではない。むしろあらゆる事がらも含んでいる、と思うのです。
 今、この世の生涯においては沢山の問題を私たちは持っています。でも、キリストを信じたとき罪が赦されます。罪はあらゆる問題の原因でもありますから、救われた時から様々な問題が解決に向かい始めます。でも、全てが解決するのではなく、まだ多くの問題が残っているかもしれません。でも、天国にいったとき、全ての問題が解決され、いっさいのことが結び合わされて、全てが感謝に変わる。それがキリストにある希望
です。ですから、天国に行った時、私たちは、このキリストを信じ、望みを置いてきて、本当に良かった、と神様を賛美するのです。

3.聖霊なる神の保証(13−14節)
 さて、これは言うなれば、未来のことです。本当にそうなるのだろうか。それが疑問です。神様の下さる救いは、決して無理矢理に信じ込むというものではありません。私たちが確信を持てるように導いて下さる。そのために神様は聖霊を送って下さいました。
 13節に書かれているのは、使徒の働き19章に出てくる出来事を思い出させます。パウロが各地を伝道して廻っていたころ、エペソの町にもやってきました。ところがエペソの弟子達は、まだキリストのことを詳しくは知らなかった。そして、ヨハネのバプテスマ、これは罪を悔い改めることを表すものです、そのヨハネのバプテスマしか知らなかった。そこでパウロはキリストの事、すなわち真理の言葉、救いの福音を語り、彼らは信じました。そのとき聖霊が臨んだ、と記録されています。教会の歴史の最初の頃、人々がキリストを信じ救われた時、聖霊が下った。正確には聖霊が下られたことが誰にも理解できるような現象が起きたことが描かれています。同じような現象は、いつでもどこでも起きた訳ではありません。むしろ、そのような目に見える証が必要な場合でした。例えば、異邦人が救われたとき、ユダヤ人クリスチャンの中には、救いはユダヤ人だけのものと考える人々がいました。それに対し、神様から霊が下ることで、この異邦人の救いが神の御心であることを誰もが認めることができたのです。
 エペソの人々も、聖霊が与えられたことで、救われたことが確信できた。それがエペソ教会の土台となったのです。聖霊が与えられた、と言っても、聖霊はモノではありません。三位一体のお一方です。ですから聖霊を受けたというのは、私たちのほうが神様のものとされたことの印でもあります。牧場の牛がお尻に印を焼き付けられて誰の所有か分かるようにされたように。あまり良い例ではありませんね。結婚のときお互いに指輪を交換し、お互い、自分が相手のものとなることの印としたように、神様の聖霊が与えられることで、私たちは神のものとされ、神の子としてキリストとともに天国を受け継ぐのです。
 ところで、今の私たちがキリストを信じた時には、聖霊が下ったのでしょうか。目に見えるような不思議な現象があって、聖霊が下られたことが理解できた、という人はめったにいないと思います。しかし、それでも聖霊は私たちに与えられているのです。どうしたらそれが分かるでしょう。実は、信じた、ということ自体が聖霊の働きなのです。御言葉が、福音が伝えられて行きます。昨日と今朝は宣教大会が行われました。宣教師たちによって世界中に福音が伝えられて行ってます。でも聞いた誰もが信じる訳ではない。なかなか信じることが出来ないのが人間の頑なさです。それが、いつの間にか信じようと思い、受け入れられるようになる。これは神様の助け、具体的には聖霊が働いて下さったからです。その意味では信じた時から、もう聖霊は与えられ始めている。キリストを救い主として信じた。今も、御言葉によって語られる神の言葉を信じることができる。そこに聖霊が与えられている証拠があるのです。
 聖霊が心の中に住んで下さることは、救いの証印であり、天国にいれていただける保証でもあります。未来のことだから分からない、のではなく、神様ご自身が保証して下さる。そして神様のものとされている。このことを理解したとき、私たちは神様を崇め、賛美するのです。

まとめ. 神様が下さった救いというのは、私たちが思っていた以上に大きなものです。永遠の昔から計画され、永遠の天国まで及ぶ。また、神様が私たちの内側にまで来て下さっている。三位一体、このこと自体は良く分からないことかもしれませんが、この三位一体の神様が、その全存在をかけて救って下さるのです。そのような救いが与えられていることを確認しましょう。まだ信じていない方、確信を持てないでいる方は、ぜひこの救いを受け取って下さい。また、救われた方は、自分が戴いた救いの豊かさをもっと知り、それを味わい、感謝と喜びに溢れたクリスチャンとして戴きましょう。それが、私たちの教会の、強固な土台となるからです。