2000年4月16日
キリスト者の霊的祝福 コロサイ人への手紙4章2−6節
伝道の器(the instrument for evangelism)
キリスト者の霊的祝福は福音を伝える器となることである。
<伝道の器となる3つの方法>
1.祈りによる伝道 (evangelism by prayer)
2.伝道者を通しての伝道 (evangelism through evangelists)
3.毎日の生活における伝道 (evangelism as lifestyle)
<イントロダクション>
昨年の秋よりコロサイ人への手紙より順にお話させて頂きましたが、本日ついに最
終回でございます。今日は伝道についてお話したいと思います。伝道の器と言いまし
ても、何か電気で動くお皿と言うような意味ではございません。英語で言うと、
evangelism、福音を伝える事でございます。
僕がまだ東京で銀行員をしていたころ、ある年の暮れに、営業から帰ってきた先輩
が僕に「三好君、今日町を歩いていたらマイクで、大きな声で『世の終わりは近づき
ましたイエス・キリストを信じなさい。』ってやってたよ。あれなんだよ。何だか知
らないけど、『神の裁き』とか言ってたぜ。あれじゃあ脅迫だよ。」と言いました。
東京あたりにいた人は一度はお聞きになった事があるかもしれませんが、確かにそ
ういう人たちがいます。無気質な、感情のない声でテープに吹き込んだのを流してい
るのですが、僕の先輩はそれを聞いたんですね。まあ実際このような形で福音を聞い
て、イエス・キリストを信じる人たちもいないとも限らない。だからうかつな事はい
えませんが、時々、伝道がキリスト教の宣伝と混同されているのではないか、そのよ
うに思います。
またですね、伝道というと、信者の勧誘と誤解している人もいるんじゃないかとも
思うんです。新興宗教では、なんか偽装サークルを使って信者を獲得する。確かに、
グレンビュー教会もスポーツ大会や英会話クラスとかをやってクリスチャンでない人
たちに福音を伝える機会を増やそうと努力しています。しかし、これらの活動そのも
のは伝道ではないのです。英会話クラスは教会のためにやっているのではなくて、少
し大袈裟に言えば教会の外の日本人コミュニティーに仕える働きなのです。しかし、
伝道とは何かと言う事をよく理解しておかないと、その働きも福音を伝えるようなも
のになっていかないのです。伝道というのは単なる信者の勧誘ではないのです。
また、ミッション・スクールとかに行くと、宗教の時間とかキリスト教の時間とか
があって、聖書を読んだり、レポートを書いたりします。こういうところではキリス
ト教という宗教を学ぶ事になります。私の中学・高校とカトリック系の学校に行きま
して、後に福音を聞いた時に、この学校のクラスで勉強した天地の創造主なる神を受
け入れていたことはプラスに作用していたと思います。しかし、このような、キリス
ト教を教えるという教育は決して伝道そのものではありません。昔の宣教師は、彼ら
が「未開の人々」と呼んでいた人々ににより優れた近代文明のための宗教としてキリ
スト教を教えました。しかし、伝道は、キリスト教が仏教よりも優れているというこ
とでそれを教えるというようなものではありません。
では伝道とは何でしょうか。パウロはコロサイ人への手紙4章2−6節で、伝道の三
つのアプローチについて述べています。もちろん、聖書全体からみれば、伝道にはこ
の3つしかないということはなく、ほかにももっとたくさん聖書から学べますが、今
日は特にこの3つについて学びたいと思います。
1. 祈りによる伝道 (evangelism by prayer)
「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」(4:2)
パウロはこの前のところで、まずクリスチャンは新しく生まれ変わった、そして、
クリスチャン同志は互いに愛し合い、キリストの平和が支配するべきであり、家庭や
職場では主にあるものにふさわしくこのように振る舞いなさいと命令を出していま
す。パウロは、これらの事を踏まえて、「たゆみなく祈りなさい」とここで書いま
す。キリストにある新しい生き方は、聖霊によって導かれる時にはじめて実現するも
のであり、祈りによって聖霊のお働きにみずからをゆだねる事無しに、その前に書か
れているような生き方は決して出来ないからです。
ここで、パウロは祈りの2つのあり方を述べています。
A) 目をさましなさい。
一つ目は目を覚ましなさいという事です。この目を覚まして祈るというのは、徹夜祈
祷をしなさいということを言っているのではありません。ユンケル帝王とか飲んで覚
醒して祈れといっているのでもありません。イエスさまは十字架にかかる前に祈ら
れ、弟子たちに対して、「誘惑に陥らない様に、目を覚まして祈っていなさい。心は
燃えていても肉体は弱いのですと。」いわれました。伝道というのは、主の十字架と
復活をのべ伝える事です。イエスさまが十字架で死んでよ三日目にみがえり、天に昇
られた後、聖霊が下って、教会による伝道が始まりました。そしてその伝道は、主イ
エスがもう一度来られる時まで続きます。祈りにおいて覚醒しなさいというパウロの
命令は、誘惑に陥りやすい私たちへの警告であり、主イエスがもう一度来られること
を信じ、待ち望んで、自らの罪を悔い改め、人々の救いのために祈りなさいという命
令なのです。みなさんは新しく生まれ変わっているでしょうか。クリスチャンなら
ば、隠している、告白していない罪はないでしょうか。他のクリスチャンとの関係は
どうでしょうか。家庭生活や職場での生活はどうでしょうか。祈りにおいて目を覚ま
す時に、私たちは悔い改めへと導かれ、赦しと癒し、解放ときよめを経験します。そ
して、他の人々のために祈るものと変えられるのです。
B)感謝を持って
そして二番目には、感謝を持って祈りなさいと命じています。ここで気を付けなけれ
ばいけないのが、「感謝するということは律法ではない」ということです。私たちは
毎日の生活の中で様々な不満を体験します。実は、感謝よりも不満が多いというのが
私たちの実態ではないでしょうか。お金があって、仕事が上手くいって、人間関係が
スムーズに行っている時に感謝するのは当たり前のように思えますが、そういう時に
高慢になって感謝を忘れるということもあります。人生が自分の思い通りに行かない
時に感謝する事が出来るかという事も大きなチャレンジです。実は、ここに、目を覚
ますということと感謝するということが祈りという行為の中で結び付けられてくるの
です。目を覚ましていなければ、キリストにある自分の人生が感謝であり、それゆえ
にこの素晴らしい救いを他の人に伝えたいという思いは与えられません。
私自身、論文も提出し、いよいよ卒業という段階に入り、はじめは嬉しいという気持
がありましたが、しかし、よく考えてみれば、それは感謝ではあっても、自分を喜ば
せるものではありません。なぜなら、世界の多くの人々がイエス・キリストを知らな
いままに毎日の生活を、罪に傷つき傷付け合って虚しく送り、ただ死んでいく。私の
父も姉もまだこの救いの喜びを知らない。そして、教会の中にも多くの問題があり、
福音を必要としている多くの人々に届く事が出来ないでいる現状を見る時に、ますま
す目を覚まして祈らざるを得なくなってくるのです。どれだけ立派な論文や博士号
も、福音をのべ伝える事のために用いられなければ何の意味もないのです。
目を覚まして、感謝を持って祈る時に、福音を伝える準備がなされ、主はその人を用
いられるのです。
2.伝道者を通しての伝道 (Evangelism through evangelists)
「同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たち
がキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入
れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるよ
うに、祈ってください。」(4:3,4)
次に、パウロは、自分たちのために祈ってくださいといっています。パウロは、1
世紀の地中海世界で都市を回ってユダヤ人ではない人々に福音を伝えていた伝道者で
した。コロサイの教会はパウロが直接伝道した人たちによって構成されていたのでは
なく、パウロの同労者によってなされた働きによって生まれた教会でした。しかし、
今やパウロは福音をのべ伝えたために牢につながれ、福音を伝える事が出来ないでい
るのです。伝道の働きへの参加は、このような、伝道者や宣教師の働きのために祈る
事によってもなされます。これは、伝道をそれらの人々に任せるという事ではなく、
それらの人々でしか届く事の出来ない人々のために、伝道者や宣教師は教会を代表し
て働いていると考えるべきです。どこかのイスラム教の人々の間で伝道する場合、そ
のための賜物と訓練を必要とします。ある人々は学生伝道、下部祐子ならアメリカで
救われた日本人のフォローアップという具合に、様々な働きが教会の枝としてなされ
ています。そして、普通の信徒であっても、その人が置かれている職場や家庭で福音
を伝える事が出来るように互いに祈り合い、重荷を負い合うべきなのです。
ここでキリストの奥義と書かれているのは、神がこれまで隠されていた全世界の
人々の救いであり、イエス・キリストが十字架で死んだことによって、イエス・キリ
ストを信じるならば誰でも神の子どもとなる事が出来るようになったという福音の事
です。ここで、パウロはパウロたちの伝道の働きについて特に二つの事を祈って欲し
いと祈っています。
A) 神が伝道のための門を開くように。
まずはじめは神が伝道のための門を開くという事です。伝道者が伝道するためには、
伝道の機会が与えられなくてはなりません。文化の壁や法律の壁によって福音を語る
事が難しい場合もあります。みなさんも、未信者の友人に福音を伝えるのにいきな
り、「神様は君を愛してるんだ。」というのはすこし唐突で、何とかより自然な方法
で福音を伝える機会が訪れないかと祈るはずです。
私は大学3年生の夏、中国のある大学の寮で3週間過ごしました。その企画は、日本の
クリスチャンの大学生20人くらいがその大学の日本語専攻の大学院生に日本語を教え
て中国語を学び、その中で福音を伝えようとするものでした。でも、こちらから伝道
する事は禁じられていまして、向こうから尋ねた場合にのみ自分の信仰が証しできる
という、そういう状況でした。そっとベッドのところに聖書を置いてみたり、僕なん
か、日本の音楽だとか言って小坂忠とかのクリスチャン・ミュージックのテープを聞
いてむこうが関心を持ってくれないかとやったりしました。僕達は何とか福音を伝え
る機会が生まれないかと祈っていました。その時僕達は一人一人宣教師であり、伝道
者でした。一人一人がその置かれているところで福音を伝える機会を祈り求めていた
のです。
するとある時、そこにいた中国人の女子大学院生が、実は三浦綾子の大ファンである
事が判明したのです。そして、僕達はそのことによってその人に福音を伝える機会を
得、彼女はキリストに導かれていきました。
ですから、私たちはお互いが遣わされている場所で福音を伝え、証しをする機会が与
えられるように祈り合うように召されているのです。全てのクリスチャンはその意味
で伝道者です。でも、私たちに伝道の機会を与えるのは神様なのです。
B) 当然語るべき語り方で、はっきり語れるように。
伝道者に伝道の機会が訪れても、その話しが福音を明らかに伝えるものでなければ意
味がありません。伝道者にとっての一番大きな誘惑は、相手が福音を否定するのでは
ないかという恐れです。この恐れがあると、真っ直ぐにキリストの十字架を指し示す
事が出来なくなります。3年前の夏休みに、ニューヨークの日本人教会が主催した小
学生と中学生の子供達のキャンプで奉仕させて頂いた事があります。そのキャンプは
3週間の長いキャンプで、毎朝30分の聖書の時間があり、私がそれを担当しました。
で、はじめの週は神の愛を語りました。この神の愛を語っている時には恐れというも
のはありません。しかし、2週目に入り、人間の罪とキリストにある救い、特に、イ
エス・キリストだけが救い主であるという、十字架の救いを語って、信仰へと招く時
にはやはり自分の中にそれまでにはない戦いを実感し、本当にその前の夜にはそれま
でにない祈りを必要としました。それは、子供達が信じてくれるようにという祈りで
はなく、十字架をまっすぐに語れるようにという祈りです。信じてくれないんじゃな
いだろうかという恐れを主が取り除いてくださるようにという祈りが必要なのです。
相手がキリストを信じるかどうかで伝道者の価値が決まるというように僕達は時々錯
覚していますが、私たちにとって大切な事は、十字架につけられたキリストをのべ伝
えることなのです。そのキャンプでも、約3分の2の子供達がイエス・キリストを信じ
ました。つまり、残りの3分の1は信じてくれなかったわけです。キリストの十字架が
指し示されると、あのイエスさまが十字架にかかられた時に右と左にいた強盗たちの
ように、ひとりは信じ、ひとりは否定するのです。ですから、福音を伝える機会が与
えられたら、おそれないで真っ直ぐにキリストの十字架を指し示し、キリストの救い
を語る事が出来るようにという祈りを、全ての伝道者は必要としているのです。
3.毎日の生活における伝道 (Evangelism as lifestyle)
私たちの伝道の働きは、まず、目を覚まして、感謝を持って自分の周りにいる人々
がイエス・キリストを信じるように祈る。次に、他のクリスチャンや伝道者が遣わさ
れているところで福音を伝える機会が与えられ、そして真っ直ぐに福音を語る事が出
来るように祈る。そして、ここでパウロは3番目に、毎日の生活における伝道につい
て指示を出しています。ここでもやはり2つの事がいわれています。
A) 知恵のある振る舞い。
「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。」(4:
5)
ここで、外部の人、すなわち教会の外にいる人たちの間で、賢明に振る舞いなさい
と書かれています。これは、クリスチャンとしてこの世の中で生きていく時に、神の
知恵というものを必要としているということを意味します。クリスチャンでない人た
ちとの人間関係をその知恵によって築き、証しの機会とするという事です。ここで、
パウロが機会を十分に生かして用いなさいと言っているのは、キリスト者が教会の外
でキリスト者でない人々と共に生きていく時に、それが神の国を証しする機会である
といっているのです。そこに言葉による伝道はなくても、知恵のある振る舞いによっ
て、キリスト者は未信者の間で信頼を勝ち取っていくべきであるという事なのです。
そうする事によって、キリスト者はその遣わされている場所で欠かす事の出来ない重
要な存在となっていく事が出来ます。
例えば会社において上司に対して、未信者は自分の評価をまず気にします。査定に
響かない様に上司に従います。でも、キリスト者は主に仕えるために上司に仕えま
す。その仕え方は真心からその上司に仕えるので、自分の評価を気にせず、長い目で
見て会社のためになる事を考えるのです。それはクリスチャンが十字架に主イエスと
共に死んで、新しく生まれ変わった存在であるからこそ出来る事です。キリストの十
字架は単なるスローガンではありません。主はご自分の世界に対する使命を全うする
ために栄光の姿を捨てて罪人と同じ姿を取られました。そして、本来は私たち一人一
人がかからなければならなかった十字架にかかって、私たち罪人が生まれ変わって神
のこの世界に対する使命をになう事が出来るようにして下さったのです。創造主であ
る神がこの世界を支配しておられる。ならば、神は私たちキリスト者に知恵を与え
て、この世界が神のみこころに沿って正しく管理されるように、キリスト者を通して
この世界を祝福しようとされるのです。その時に、未信者の間でのクリスチャンの生
き方、仕事の仕方、家庭の営み方、子どもの育て方、教会のあり方、といった具体的
な歩みの一つ一つが神の国を指し示すものとなっていくのです。
B) 親切で塩味のきいた言葉
「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさ
い。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」(4:6)
知恵のある振る舞いと共に、パウロは私たちの言葉が親切で塩味のきいたものであ
る様にと命じています。親切というのは、恵みに富んでいるという意味で、簡単に言
えば喧嘩腰で伝道しないということです。伝道の目的は相手を議論で負かす事ではあ
りません。クリスチャンでない人に福音をお話する場合、福音そのものが誰にでも信
じられるものではないので、出来るだけ親切な話し方をする必要があるのです。そし
て、塩味のきいた言葉というのは、美味しいということで、でも砂糖ではないので、
甘くはありません。福音は福音としてきちっと伝えていかなければならない。でもで
きるだけその人に分かりやすく福音を伝えていくように工夫する必要があるのです。
そのためには、その人たちのところで共に生きる事がどうしても必要になります。
少し古くなりますが、日本に尾崎豊というシンガーソングライターがいました。私
と同世代のこの方の歌は、家内の話しでは結構カラオケなんかで歌われていたそうで
す。割と有名なので、昔補習校でもらった旭屋書店の商品券が余ってたので最近買っ
て聞いてみました。ところが、結構ショックだったのが、意外に暗いんですね。歌の
内容が。なんか演歌を聞いているようなんです。演歌が悪いとは言いませんが、なる
ほどそれでカラオケかと思わされるふしがあります。その僕の買ったアルバムは『17
歳の地図』というのですが、1983年のリリースなんですね。1983年というのは僕が洗
礼を受けた年で、その中に、「僕が僕であるために」という歌があります。
「心すれちがう悲しい生き様にため息もらしていた。
だけどこの目に映るこの街で僕はずっと
生きて行かなければ
ひとを傷つけることに目を伏せるけど
優しさを口にすれば人はみな傷ついてゆく
僕が僕であるために勝ちつづけなきゃならない。
正しいものが何なのか それがこの胸に解るまで
僕は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌いつづけている。」
僕が洗礼を受けた年に尾崎豊はこんな歌を歌っていたのか。と思うと僕は愕然とし
てしまいました。「僕が僕であるために勝ちつづけなきゃならない。正しいものが何
なのかそれがこの胸に解るまで。」尾崎豊はだいぶ前に突然この世を去りました。彼
は正しいものが何のか解ったのだろうか。もし。彼がイエス・キリストと出会ってい
たなら、彼は自分が自分でありつづけるための戦いから解放されたはずです。なぜな
ら、主イエスは十字架の上で勝利をとられたからです。そして、信じる者に「正しい
もの」を与えてくださるからです。そしてこの尾崎豊に共感している多くの人たちを
癒し、解放するために、イエス・キリストは十字架の飢えで苦しみ、うたれて傷つい
たのです。そして、僕達の歌は冷たい街の風の中で主を賛美するようになるのです。
私たちを取り巻いている現実は一向に変わらないかもしれない。しかし、主は僕が僕
であるために、十字架の上で勝利をとってくださったのです。
<結論>
1993年の夏、私はBolingbrookという町の白人を中心とする教会で開拓伝道のイン
ターンシップをしました。その時ありとあらゆる方法で毎日のように町で福音を伝え
る努力をしました。例えばダンキンドーナッツとかマクドナルドに行って見知らぬ人
に話し掛けて個人伝道を試みたのです。そういう中で、近くにある大学のセキュリ
ティガードが日本人であるということを発見して伝道しに行ったのです。彼は僕が日
本人であるということではじめは親しくしてくれました。しかし、僕が小さなパンフ
レットを出して福音を伝えようとすると、心を閉ざしてしまったのです。彼は僕が宗
教の勧誘に来たっと思ったのです。たしかに、僕のその時の関心は、一日に一人でも
多くの人に福音を伝える事でした。でも、残念ながらそこには神の愛はありませんで
した。伝道はプロジェクトでしかなかったように思います。十分な祈りもありません
でした。確かに門は開かれて、福音はまっすぐに語れましたが、知恵のある振る舞い
も、親切な塩味のきいた言葉もありませんでした。僕の関心は伝道に成功する事だけ
だったのです。
伝道、それはキリスト者の霊的祝福です。宣伝でも、勧誘でも、教育でもありませ
ん。 それは祝福です。神は伝道を通してご自身の祝福を人々にもたらすので、その
業に参加するキリスト者にとっては、伝道は祝福そのものなのです。ですから、目を
覚まして感謝を持って祈る。他の働き人の伝道が進むように祈る。そして、知恵のあ
る行ないと親切で塩味のきいた言葉によって福音を伝えるというこの3つの働きを通
して、私たちは神の祝福の基となる事が出来るのです。その時、私たちの伝道はただ
の自己満足ではなく、主が私たちのために十字架で死んでくださったように、人々の
ためになされるものとなるのです。