2001年4月15日 「復活を信じる幸い」 第一コリント15章
序.イースターの時期、クリスチャンの挨拶の一つにこのようなものがあるそうです。私が「主はよみがえられました」と言ったら、皆さんが「アーメン、まことに主はよみがえられました」と応えるのです。ちょっと試して見ましょうか。
 これは単なる言葉のやりとりではありません。クリスチャンにとってキリストの復活というのは決して欠くことのできない、大切な出来事なのです。復活が無かったならキリスト教も教会も始まらなかったからです。もちろん世の中の大部分の人はキリストの復活を信じません。クリスチャンの中でさえ、信じていない人がいるかも知れ
ない。だからと言って、復活を語るのを控えてしまってはいけないと思うのです。今、読んでいただいた第一コリントの15章では、パウロは「最も大切なこと」として十字架と復活を取り上げています。何故、復活が重要なのか、そして今の私たちにとって復活は何を意味するのか、ということを、今朝は考えたいと思います。
1.罪の赦しを与える復活
   キリストの復活は罪の赦しの根拠です。復活無しに罪の赦し、すなわち救いはありません。十二弟子のリーダーだったペテロは、イエスを三回も否定しました。それは裏切りでした。十字架の後、彼はどれほど後悔したことでしょう。そんなペテロが復活のキリストに会いました。キリストはペテロや他の弟子達をとがめるのではなく、受け入れて下さったのです。その後、弟子達はそれまでのキリストの教えと旧約聖書を学び直して、十字架が罪の赦しのための贖いであったことを理解していったのです。でも、その贖いは復活が無かったならば無意味です。もしキリストが単なる偉大な教師や奇跡も行える活動家だったら、人の罪の身代わりとなることはできません。
しかし、復活によってイエスは神の御子であることを証明したのです。だからキリストの十字架は全て信じる者を贖い救うことが出来るのです。
 さて、今朝はキリストは復活したのかとか、復活の証明といったことをお話するつもりはありません。この手紙の受取人であるコリント教会の人たちもキリストの復活は信じていたようです。それは彼らが迷信に騙されやすいからなのではありません。コリントの人たちは知識階級の人が多かったようです。この時代のギリシャ哲学とい
うのは驚く位に現代人の考え方と似ています。ですから理性的には彼らも復活は信じられなかった。しかし、当時はまだ復活のキリストを目撃した直接の証人が生き残っていた時期です。十二弟子を初めとして彼らは理屈ではなく事実としてキリストの復活を宣べ伝えました。中にはヨハネの兄弟のヤコブのように、殺された者もいました
が、彼らはひるむことなく復活の主を宣べ伝えました。その迫力ある、そして真剣な証言を聞いて、キリストの復活を信じざるを得なかったのです。ではコリントの人々は何を信じなかったのか。それはキリストを信じた者たちも復活する、ということです。ちょうど現代人が科学を理由に復活を信じないように、彼らは哲学を根拠に復活
を信じようとしなかった。哲学の話しになると難しくなるので、興味のある人は後で質問して下さい。本題は、復活は救いの根拠である、ということです。
 キリストの復活は贖いの根拠であることはお話ししました。では信じた者が終わりの日に復活することが何故救いと関係するのか。20節でパウロは、キリストの復活は全ての人の初穂であったと説明しています。キリストは私たちに復活の命を与えるためによみがえられた。それなのに私たちが復活できないならキリストの復活も無意
味であり、復活を宣べ伝えているキリスト教全体が虚構となってしまいます。贖いも無かったことになり、私たちは罪の中に今でも生きていることになる。それが17節。
18節ではキリストを信じて死んだ者は滅んだのだ、と言っています。死というのは罪の結果として人間が受けるものであり、神の裁きです。それは、この肉体がいつか終わりを告げる、ということではありません。生きている間は死の影におびえ、死んだあとは永遠の裁きとしての第二の死が待っていると聖書は教えています。ですから復活が無いなら罪の赦しは名ばかりで、結局は誰もがみんな、滅びに向かって人生を歩んでいるのです。その意味でも復活が無ければ罪の赦しは不十分なのです。
 しかし、キリストは復活され、私たちに新しい命を与えて下さり、天国を約束されたのです。世の終わりに復活させて戴いたとき、天国に行って私たちはイエス様とお会いします。キリストを捨てて逃げた弟子達が復活のキリストに無条件で受け入れられたように、私たちも天国でキリストにお会いした時、両手を広げてキリストが受け
入れて下さる。その時、「ああ、私は赦されたんだ」ということを本当に味わうのではないでしょうか。復活によって赦しは完成するのです。


2.生き方を変える復活
   この罪の赦しをもたらす復活は、さらに私たちの今の生き方を変えることができます。29節からパウロは話題を変えて、終わりの日の復活から今のことを話します。29節の「死者のゆえのバプテスマ」は、他の翻訳では「死者のためのバプテスマ」と書かれていますが、具体的にどういう事だったかは分かっておらず、推測する
しかありませんので、今日は触れません。ただ、当時コリントの教会の人たちが見聞きしていたことです。30節から32節を読みましょう。 初代教会は迫害という死の危険がいつもありました。死を目の前にしているという同じ状況の中で、パウロは命がけで福音を伝えて生きました。ところがコリントのある人々は、快楽に耽って生
きたのです。この生き方の違いは何処から来るかというの、復活を信じるか否かです。
 死を目の前にしているのは別に初代教会だけではなく、全ての人間が同じです。明日はどうなるか分からないのが真実です。あからさまに快楽主義を唱える人は滅多にいませんが、死を恐れ、死を忘れるために、現代人は同じようなものを追い求めます。
地位や財産といったものを求めたり、生き甲斐という自己満足を求めたりするのです。
それに対して、パウロが勧めているのは34節。正しい生き方を追い求めることです。
 その理由としてパウロは「神についての正しい知識」ということを語っています。コリントの人々は知恵を誇っていました。しかし、彼らは神様のことを本当には分かっていなかった。だから自分達のちっぽけな知恵や知識で理解できないからといって復活を受け入れなかった。しかし、神様の力は彼らの知恵を遙かに越えたお方であって、その神様が聖書を通して復活を予告しているのです。そして、人間は復活の後、神様の前に立たされるときが来ます。だから、神様に申し開きのできるような正しい生き方をするように、とパウロは彼らを戒めているのです。
 ところで、神の裁きが怖いから正しい生き方を求めるというのは消極的理由です。積極的には、今の生き方と復活後の姿との関係があります。35節から37節、飛んで42節から44節。ここでは種蒔きを例えに用いています。今の私たちの体を血肉の体、復活後の体を御霊のからだ、あるいは霊の体と呼んでいます。これは、死ぬ前
と復活後の体の違いを語っているのですが、だからといって両者は全く無関係のものではなく、同じ体としての関係を持っています。キリストの復活が良い例です。復活後のイエス様は、例えばカギを変えた家の中に自由に入ってくることができる、といった点で以前とは違う身体を持っておられました。黙示録を見ると光り輝く栄光の姿が
描かれています。でも同時にその姿は弟子達がイエスだと理解できるものでした。手の傷跡がそうです。また霊の身体といっても幽霊のようなものではないことを示すために食べ物を食べられました。
 私たちも死んだ後、天国に行ったときには新しい、霊の身体、栄光の身体を戴きます。地上では病気や怪我で苦しむことがあっても、天国では新しい身体をいただけるのです。でも、全く変わってしまって誰だか分からないのではありません。一人一人の名前が命の書に記されているということは、その人が誰であるか判別できる、とい
うことです。千代崎備道だということが分かる身体をもつのです。私の額の傷もあるといいなと思います。神様によって命を救っていただいた証であり、誇りだからです。
でも外面的なことだけが目印ではありません。むしろ、もっと人格的なつながりではないかと思います。
 さて、「血肉の身体で蒔かれ、御霊に属する身体でよみがえる」、と書かれています。蒔かれるとは死ぬことを指しているだけではありません。どのような生き方をし、どのように死んでいったか、の全てを含んでいます。地上での生き方を元に神様が新しい身体を造って下さる。その意味で、今の私たちの人生は天国での生活の準備期間
なのです。だから正しい生活を追い求めるべきなのです。救われて、でも罪だらけの生き方をして、それでも憐れみによって天国に入れていただいた。そのとき、罪の部分は神様が新しい姿に変えて下さった。でも元の姿を思い起こさせるものがほとんどなかったら、どうでしょう。あれは誰だ、どうも傷跡を見ると千代崎らしいがあとは
全然違うな、というのでは寂しいです。しぐさも話し方も何もかも昔の姿そっくりで天国でお会いできたら、もっと嬉しい再会なのではないでしょうか。
 復活を信じる生き方は、天国の希望を持って正しい生活を追い求める生き方を生み出すのです。


3.勝利をもたらす復活
 正しい生活を送るようにと言われても、罪の故にそれが出来ない弱さを持っているのも人間の現実です。そんな私たちにパウロは「奥義」を語ります。50節から57節を読んでみましょう。
 アダムが罪を犯して以来、人類に死が入ってきました。そして、誰もが罪を犯しているので死ぬことを恐れ、また死を恐れる故に罪の生活を続ける。それが「死のとげは罪であり」という意味です。(律法のことは別の主題なので今日は取り上げません。) 死も罪もどちらも手強い相手です。私たちはこの二つに何度も苦しめられ、打
ち倒されます。死の故に涙し、罪の故に悩むのです。でも決して、それで終わりではありません。何度倒れても、神様の愛と憐れみによって立ち上がるのです。そして、最後は復活によって死と罪に勝利できる。そうパウロはここで語っています。
 キリストがよみがえられたとき、キリストは死に勝利され、また罪からの贖いを確かなものとしてくださったのです。そして、キリストを信じる者にその勝利を約束して下さった。復活はその勝利が実現するときなのです。罪との戦い、正しさを求める生活は必ず勝利で終わるのです。だから、そのような生き方は決して無駄にはならない、とパウロは教えています。ただ、何をしても良いというのではありません。主にあって、すなわち主と共に歩み、主のために生きるとき、全ては神様が恵みに変えて下さるのです。主を信じて正しさを追い求めるなら、例え罪に打たれ、倒れることがあっても、その失敗を通して神の赦しをもっと豊かに体験するのです。主のために何
かをしようとするとき、奉仕であろうと愛の業であろうと、それを主が用いて下さるのです。人間的な努力だけですと空回りしてしまいます。でも主を信じて励むとき、例え私たちの力は弱くとも、その弱さに神の力が働いて、神の栄光が表されるために用いていただけるのです。キリストの復活を信じるとき、天国での勝利が約束される
だけでなく、この地上の生涯においても勝利の生活を味わう恵みがあるのです。
 「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだではないことを知っているのですから」(58節)


まとめ.先週一週間は、受難週でしたが、私個人としても心身共に弱さを覚えた一週間でした。こんな状態でイースターの礼拝でメッセージができるだろうか。そう悩んだ時もありました。でも、神様は憐れみ深い方であり、御言葉を通し、また様々な身の回りの出来事を通して、もう一度復活の主を仰ぐようにして下さいました。私たち
が悩み苦しむとき、弱り果てるとき、主も同じ所を歩んでいて下さるのです。そして先に復活を成し遂げて下さり、後に続く私たちがこのお方を仰ぐときに、私たちにも復活の恵みを与えて下さいます。ご一緒に、もう一度、復活のキリストを見上げよう
ではありませんか。