2002年4月14日(日)礼拝説教『新居に住む者として』マタイ12:38-50
詩篇139:23のみことばを読みたい。
「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。」
私たちの、主にささげ尽くしたいという思いの中に、いつも心にあるみことばである。自分が中途半端で、信仰をもって生きていることに自信が100%持つことができない日々の、心の祈りである。まるで主人がいるのかいないのか分からなくなってしまった空き部屋のような自分を、見つけることが私たちにある。イエス様が伝道されたときも、当時そのような人々がいた。きれいに掃除されていても、その中に住む人がいないような、心の状態の人々であった。
そのような状況を憂えて、イエス様が語ったのが本日の箇所のたとえである。
このたとえは、二つの話のちょうど真ん中に置かれている。このたとえを真ん中に、3つのポイントで「イエス様を迎え、イエス様にお従いすること」を学びたい。
@ 律法学者たちに注目!
律法学者やパリサイ人達は、バプテスマのヨハネの悔い改めの宣教を見、そ
の後においでになったイエスに敵対していた。人々もこの対決に注目した。ヨハネの悔い改めと罪の赦しに応答し、イエスの奇蹟やわざを見て、この方が私の救い主かも、と感じ始めていた。そこに律法学者達が横やりを入れてきたのである。今日の箇所以前に、安息日論争(安息日にわざをしていいのか)、ベルゼブル悪霊論争(イエスが悪霊の親玉か)などがある。この論争を撃破したイエスを見たにもかかわらず、彼らの仲間のうちの別の者が、今度は「しるしをみせていただきたい」と言ってきた。ここで、はっきりしたのは、彼らは明らかなしるしを見ても信じないし、悔い改めもしないで、もう一つの奇蹟を要求するという心の態度を持っていたことである。38節。イエスはこれに対して、二つの実例を語った。第一は、ニネベの人々は、預言者ヨナのことばを聞いただけで、悔い改めたこと。第二は、異邦人である南の女王(シェバの女王)は、ソロモンの知恵について伝え聞いただけで、行動にでたこと。この二つを示して、彼らの不信を責められた。イエスは、ご自分のことを示す唯一の究極のしるしであるご自身のよみがえりの型である預言者ヨナのしるしだけを約束される。39〜40節を見たい。
ヨナよりまさったイエスを見ている彼らは、悔い改めない。イエスはソロモンよりまさった者であるのに、求めようとしない。イエスは、悪い、姦淫の時代はしるしを求めると嘆く。イスラエルが異教の神々に走った霊的姦淫と同じ精神が彼らのうちにあると。
この「パリサイ人的な心」は、今日の私たちの心をも映し出しているのではなかろうか。「主よ。あなたがこうして下されば、私は従います」「神様。あなたが・・・ならば、信じます。」と私たちは言うのではないだろうか。
A 空き家のたとえに注目!
43〜45節は、そういう時代の精神を描写する。それは、中途半端な悔い
改めと服従の危険性である。この時代はイエスの働きによって掃除されたが、イエスを迎え入れていない。そうすると以前より悪い霊の支配を受けることになる、と警告する。真の救いや献身は、本当の罪の束縛から人々を解き放つことのできる方によってのみ、もたらされる。主は、その救い主としてのみわざを行っておられるのである。私たちは、自己中心や罪や不敬虔な行いを捨て去ることによってのみきよくなるのではない。もちろん悔い改めことは必要なことであるが、それは、聖霊によって主イエスに心を開くことであり、新しいいのちを受けることであって、悪を捨てて空き家状態になるということではない。
B 神の家族に注目!
「してはいけない」方式では、キリスト者の成長は進んではいかない。キリ
スト者は、キリストを救い主と信じたとき、聖霊の恵みのわざによってそうされたのである。气Rリント12:3を見たい。新しいいのちを受けたので、新しい家族の中に入れられたのである。主が言われたのは、主ご自身の救いにあずかる人々によって始められる神の愛を知る家族のことである。46〜50節を見たい。愛する者は、「してはいけない」よりも、「信じたい」「仕えたい」「主のために何かをしたい」という生き方を喜ぶのである。
あなたの心の中に、礼拝という名の窓がいつも神様に向かって開いているか。
あなたの心の中に、祈りという名の個室が用意されているか。
あなたの心の中に、仕えるという名の玄関、いつも主のために出かけてゆこうとする玄関があるか。
主ご自身が、その一つ一つを私たちにうちに備えてくださるのである。主にすべてを委ね歩み続けたい。もう私の住まいは、主がご主人なのだから。