2000年4月8日 しゅろの主日(Palm Sunday)マルコ 11:1−11

イントロ
 今日は、パームサンデー(しゅろの主日)と呼ばれている特別な日曜日です。 何が特別かというと、およそ1970年前の過越の祭りのある週の初めの日、すなわち日曜日に、イエスさまがいよいよエルサレムに入城されたとされているからです。 この日から、イエスさまのパッションウイーク(受難週)が始まります。 この一週間、イエスさまは、もう一度弟子たちに愛を示し、教え、多くの苦しみを味わい、十字架にかけられ、死んで葬られるなど、激動の時を過ごされます。 そして次の日曜日、イースターサンデーには、その死からよみがえられたのです。 福音書の著者たちも、この一週間を特別に取り扱っています。 イエスさまの3年半の公での伝道生活のうち、あるいは書によってはイエスさまの一生涯のうち、この最後の1週間の出来事のために、いちばん少ないルカでも全体の25%、一番多いヨハネにおいては、なんと半分近くもさいているのです。 福音書は、イエスさまの単なる伝記ではありません。 イエスさまのなさったことをただ記録するために書かれたのではないのです。 ではなくて、イエスさまが一体誰であり、何のためにこの世に来たのかを知らせるために書かれたのです。 ですから、その目的にとって、大切なことがらは異常なまでに詳しく書かれていますし、必要のないこと、例えば、イエスさまの容姿についてや幼少期から思春期にかけての出来事などはすっかり省かれているわけです。 本日は、そのもっとも大切なことだと、すべての福音書の著者たちが口をそろえて語っているこの一週間のまさに初めの日、パームサンデーを記念して、先程読んで頂いたマルコ11章を通して、イエスさまとその回りを囲む人々の心の動きなどを注意深く見ながら、イエスさまがエルサレムに入城されたシーンを再現してみたいと思います。

1.聞く気がないと聞こえない
 彼らがエルサレムの目と鼻の先まで来たとき、イエスさまは二人の弟子達にロバの子を連れてくるように指示します。 そのロバの子に乗って、エルサレムに入城するためです。 別にイエスさまは、疲れたから、なんかに乗りたかったわけではありません。 もう、エルサレムは目と鼻の先なのです。 もし、なんかに乗って楽をしたかったのなら、もうずっと前に、なにかに乗ってきているでしょう。 では、アトラクションの小道具として、ロバに乗って、かっこよく入城したかったのでしょうか? でも、ロバの子に乗っても、そんなにかっこよくはないですよね。 かっこよさをアピールするんだったら、白馬かなんかに乗った方がいいですよね。

 じつは、イエスさまは、ロバの子にまたがってエルサレム入りすることにより、ユダヤの人々に向かって信号を送っているのです。 ロバは、確かに馬に比べると見劣りするし、また、普通、勇者が戦いに勝って帰ってきたときなんかに乗るのは、やはり、古今東西、馬と相場が決まっていますよね。 馬は強さ・勝利のシンボルです。 ロバは何かというと、謙遜・奉仕・仕えることのシンボルです。 ところが、ユダヤ人にとっては、ロバはまた別の意味で、あるもののシンボルにもなっていたのです。 ちょっと創世記の49章を開いてみて下さい。 49章10節から。 この箇所は、イスラエルの祖・ヤコブの12の部族への、言ってみれば遺言なんですが、その中のユダに関するところで、イスラエルの人々の間では、救い主の予言がしてあると捉えられているところなんです。 出てきますよね、ロバが…。 また、今度は予言書、ゼカリヤ書の9章9節。 新改訳聖書では旧約の1427ページです。 ここは、読んで字のごとく、王・すなわち救い主が来るということが予言されているところです。 またまた出できました、ロバが…。 このように、イスラエルの人々にとって、ロバは、謙遜と奉仕のシンボルであると同時に、メシヤ・救い主のシンボルでもあったのです。 ですから、イスラエルの人々にとって、ロバとくれば、メシヤ・救い主とぴんときたわけです。

 西暦2000年1月1日、ちょうど、Y2Kで何か起こるんじゃないかとカウントダウンに力が入っていた頃、恵美のおとうさんとお母さんがシカゴに来られていました。 一部の期待に反し、何事もなく、新しい年が幕開けし、盛大に花火が打ち上げられました。 私達のアパートの窓からも、その盛大な花火が見えました。 とってもきれいなのが上がったのを見て、私は、つい、言ってしまったのです。 「たまやー!」 それを聞いていた恵美のおとうさんは、「トムさんも、アメリカに住んでいても、やっぱり日本人だねー。」としみじみと言いました。 わたしも、じぶんで、やっぱり俺も日本人やなーってしみじみと感じた事を覚えています。 そういうのってないですか? 別にシカゴで上がっている花火をたまやが造っているわけでも、上げているわけでもないのですが、つい、言ってしまう。 花火、たまやの関係が私の日本人としてのアイデンティティーの中に深く深く刻まれてしまっていて、日本人としての血がそう言わせてしまうわけです。

 ユダヤ人にとっては、それが花火―たまやラインではなくて、ロバーメシヤラインなわけです。 ユダヤ人は、ロバって聞くと、メシヤって叫んでしまうわけです。 別に叫ばなくても、とにかく、ぴんとくるわけです。 イエスさまは、その民族の血の中にある直感に訴えかけて、ご自分の身分をここでも、強烈にアピールしているわけです。 イエスさまの送った信号はこれだけではありません。 時は、過越の祭りの直前。 過越の祭りとは、神様が、その力強い御腕をもって、エジプトの奴隷状態から救い出して下さったことを記念するお祭りです。 否応なしに、この時のローマに支配されている状態から救い出して下さる救い主・メシヤを待望する気持ちは盛り上がります。 さらに、マルコ11章の2節。 イエスさまは、「まだ誰も乗ったことのないロバの子」を連れてくるように言っています。 イスラエルでは、神様の聖なる用に使うものはなんでも、初物・新しいものでなくてはなりませんでした。 イエスさまは、そのロバはまだ誰も乗ったことのないロバだということを言うことにより、このロバに乗って入城することが神様の意志において為されていることだという事を示唆しているのです。

 人々は、これらの信号を受け取りました。 そして、この信号に直感的に反応したのです。 ですから、彼らはみんな、声高らかに叫びました。 「ホサナ。 祝福あれ。 主の御名によって来られる方に。 祝福あれ。 いま来た、われらの父ダビデの国に。 ホサナ。 いと高き所に。」

 私達は、このシーンを頭の中で思い浮かべるとき、すごく大々的なパレードを思い浮かべる傾向がありました。 まるで、エルサレム中の人がそれを見ていたがごとく。 しかし、よく考えてみると、時は過越の祭りのシーズンです。 全国各地から、ユダヤ人達が聖都エルサレムに向けて巡業してきます。 過越の日に、エルサレムの神殿に参るために旅をするのは、ユダヤ人にとっては、とても大切なことだったんです。 日本人が元旦に神社に初詣に出かけるのに若干似ています。 ただ、違うのは、日本人の場合、どこの神社に行ってもいいので、面倒くさい人は近所で済ますこともできますが、ユダヤ人の場合、エルサレムの神殿でないといけないわけです。 全国、まさに、世界中からユダヤ人が集まってきます。 恐らく、過越のシーズンには、エルサレムの人口は何倍にも膨れ上がったことでしょう。 そのような人々の中には、恐らく有名な先生方も何人もいらっしゃったことでしょう。 「おや、向こうから来るのは、甲先生じゃないか。 あの人の教えはすばらしいらしいぞ。」 「お、こっちからくるのは、乙先生だ。 なんか、去年りっぱな豪邸を建てたらしいぞ。」 「あ、あれはイエスさまだぞ。 なかなか趣向を凝らした入城してくるな。」 なんて言っていた人もいたかもしれません。 このように、人々のごった返した、お祭りムードの中で、イエスさまの入城は為されたわけです。 要は、まわりは雑音だらけだったわけです。 イエスさまは、ユダヤ人であれば必ずぴんとくる、そんな信号を送って、人々もまた、それに直感的に反応していたにもかかわらず、その本当のメッセージは、まわりの雑音にかき消されてしまったのです。

 私達も、実は、同じような立場にいることを自覚しなくてはなりません。 私達の毎日は本当に多忙です。 やらなくてはならないことや、やりたいことは次々に出てきて、つい忙しさの中に埋没してしまいます。 そして、もっとも大切な神様からのメッセージを逃してしまうのです。 日々の生活の雑音はすさまじいものです。 でも、私達の耳がどのような雑音の中でも、大切だと思う言葉を選んで聞き取ることができるように、意識さえしていれば、神様のメッセージを逃すことはないのです。 イエスさまは、常に、私達が意識さえすれば十分わかるように、メッセージを送って下さいます。 問題は、私達が求めているのか、いないのかという点なのです。 私達は日々の生活の中で、イエスさまの声に耳を傾けているでしょうか? 職場で仕事をしているとき、勉強しているとき、家事をしているとき、買い物をしているとき、車を運転しているとき、同僚や友人と話しているとき、奥さんとあるいはご主人と話しているとき、子供と話しているとき、イエスさまの声に耳を傾けているでしょうか? 私達が忙しくしていること一つ一つどれをとっても、大切なことでしょう。 どうでもいいことのために毎日生きている人なんて、案外いないものです。 でも、その大切なことにも優先順位があります。  イエスさまが語りかけること、それは、私達のたましいに関することです。 イエスさまは別の箇所で、「人は、たとい全世界を得ても、たましいを損じたら、何の特がありましょう。」と語っています。 もっとも大切なのは、私達のたましいに関することなのです。 そして、イエスさまの語られることというのは、まさにそのたましいに関わることなのです。 私達が耳を傾けるとき、イエスさまは私達のたましいにとって大切なメッセージを、必ずわかるように語りかけて下さいます。

2.弟子達の心の内
 次のポイントに移りたいと思います。 これまで見てきたとおり、このイエスさまのエルサレム入城への群集の態度は、残念ながら無関心でした。 では、ずっとイエスさまに付き添って、苦楽を共にしてきた弟子達の心の内はどのようなものだったでしょうか? 1節から6節に注目して下さい。
 ここを読んでいて特に気が付くのが、その記述の細かさです。 イエスさまの指示の内容の細かさもさることながら、その後、弟子達が体験した事(それはまさにイエスさまが指示したとおりだったのですが)も詳細に記されています。 冒頭でも言いましたように、福音書に細かく書かれてあることには、必ずその意味があるのです。 それが大切だからこそ、細かく記してあるのです。 どうでもいいことは書かれてないのです。 では、ここの意味・大切さとは一体何なのでしょうか?

 それを理解するには、もう一度、ここに至るまでの流れを確認する必要があります。 イエスさまは、様々な奇跡やいやしを通して、群衆に、そして誰よりも弟子達に、自分が誰であるかを示してきました。 そして、マルコ8章28節、ようやく、弟子達はイエスさまこそ、生ける神の子・キリストであると認めるに至ります。 その告白を聞いたイエスさまは、今度は、自分がなぜこの世にやってきたのかという自分の来た目的について、話し始められます。
 イエスさまは、自分が来たのは罪人を救うためであり、そのために十字架にかかって死に、3日後によみがえらなくてはならない、ということを証されます。 しかも、一度きりではなく、何度と無く繰り返して、教えられたのです。 ところが、弟子達にはそれがよくわからなかった。 いや、わかりたくなかったと言った方がいいのかもしれない。 
 一般的なユダヤ人にとって、メシヤという言葉が表すのは、ダビデ王のように勇敢に立ち上がり、武力でもって、イスラエルの民を外国の支配から解放に導く救い主というイメージがありました。 弟子達もそれに漏れず、そのイメージをしっかりと持って、なかなか手放すことができませんでした。 イエスさまは、ご自分は、武力によって外国からの解放を勝ち取る戦士なのではなく、人々の罪の犠牲となり、ご自分の命までもかけて神に仕える仕え人なのだということ、そして、それこそがご自分の来た目的であり、聖書で証しされているメシヤの姿なんだということを一生懸命示されますが、弟子達にとって、そういったメシヤの姿があまりにも自分達の描いているメシヤ像とかけ離れているので、なかなか理解を示そうとはしません。 
 今日の聖書箇所のちょっと前、10章の、まず、33節34節を見てみて下さい。 イエスさまは、このようにエルサレムで起こること・まさにこの世に来た目的について詳細にわたって伝えています。 にもかかわらず、続く35節以下では、特にイエスさまが手塩にかけて育てていた3人弟子(ペテロ・ヤコブ・ヨハネ)のうちの二人、ヤコブとヨハネが、イエスさまに頼み事をしている記事が載っています。 彼らがイエスさまに求めたのは、自分達のこの世での栄光であり、今からイエスさまがうち立てようとしていると彼らが勝手に思いこんでいるところの新しいイスラエル王国での高い地位だったのです。 そして、それを聞いて他の10人の弟子達は腹を立てた、と41節にあります。 ということは、みんな同じような考えを持っていたということです。 それに対し、イエスさまは、仕え人となることの大切さを説き、ここでもまた、ご自分がこの世に来た理由を示しています。 45節。

 この11章の冒頭に記されているロバに関するイエスさまの詳細な指示は、まさに、この弟子達の中に根強く残る間違ったメシヤ像へのさらなるチャレンジだったのではないでしょうか。 そう考えると、私には、イエスさまが送った二人の弟子とは、ヤコブとヨハネだったのではないかという気がします。 勇敢な戦士を代表する馬には乗らず、謙遜と奉仕を代表するロバに乗ったというのは、まさに、そういう意味でとても大切だったのです。 イエスさまは、詳細な予言的指示によって、ご自分が一体誰であるかということと、またそれと同時に、ロバに乗って入城するということを通して、ご自分の来た目的を示そうとされたのではないでしょうか? 3節の「主がご入り用なのです。すぐに、またここに送り返されます。」と言うように指示しているところからも、絶対的な支配力を行使する王様、というよりむしろ、神と民とへの仕え人としての姿を強調しているように思われます。

 しかし、このイエスさまのさらなるチャレンジも、弟子達には届かなかったようです。 その証拠に、ヨハネは自分の書いた福音書の中で、「初め、弟子達にはこれらのことがわからなかった。 しかし、イエスが栄光を受けてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がその通りにイエスに対して行ったことを、彼らは思いだした。(12章16節)」と記しています。

 これほどまでにイエスさまが、言葉と行動を通して、ご自分の来た目的について示されているにもかかわらず、なぜ弟子達には、わからなかったのでしょうか? それは、自分達の描くメシヤ像とあまりにもかけ離れていたからです。 彼らはあくまでも、自分の心に描いた絵に固執した。 言い換えれば、彼らは自分の描いた絵に神様・イエスさまを合わせようとしたわけです。 神様の描いた壮大な人間贖いのドラマを、自分達の望む筋書きに途中で無理矢理書き換えようとしたのです。 これはまさに、自分の目的のために神をも利用しようとする、自己中心の顕れなのです。 自分の希望の方が神様の計画よりも優先されてしまっていたのです。
 私達も、結構知らない間にこのような事をしていることがあります。 自分のやりたいことを、これは神様が自分に望まれていることだと勝手に自分に言い聞かせて、いつの間にか、そう信じて疑わなくなり、決して神様の声に耳を傾けなくなったり、あるいは祈りの中で、神様の御心を仰ぐ前に、自分で勝手に結論を出して、「こうなるのが一番だから、神様、そのようにお願いします。」と神様を自分の計画通りに動いてもらおうとしていることなど、自分の行動を思い返しても、随分あるなと思ってしまいます。 この神様を無視した自己中心的態度は、自分では、神様に従っていて、神様も共に喜んで下さっていると勝手に思いこんでしまい、実は神様は悲しんでいるようなことでも、気にせず、やり続けてしまうという重大な問題を含んでいます。 この時の弟子達は、イエスさまの考えていること、感じていることをただ無視して、自分達の信じることの実現のために、神様・イエスさまを用いようとしていたのです。

3.イエスさまの心の内
 では、最後に、今度はイエスさまの心の内について、考えてみたいと思います。 自分が救い主であるいうことを暗に明に示しても、依然、無関心を決め込む群集。 もう何度も、自分のこの世に来た理由とこれから起ころうとしていることを伝えたにもかかわらず、どうしても自分の考えを捨てようとしない弟子達。 十字架を前に、イエスさまは、このような彼らを見て、どのような気持ちだったのでしょうか? そのような彼らに対する怒りでしょうか? そのような彼らに対する失望の気持ちでしょうか? それとも、なかなか理解を示さない彼らに対するいらだちでしょうか? もちろん、がっかりした気持ちはあったでしょう。 しかし、それ以上に、イエスさまの心を支配していたのは、人間の力では解決しきれない罪への憎しみ、そしてその罪のゆえに滅び行く人間へのあわれみだったのです。 わかっていても、なかなか自分自身でくい止めること・やめることのできない罪。 神様との関係を断絶してしまうほど恐ろしいにも関わらず、なかなか自覚することさえできない罪。 そして、その罪の結果、人は神様から完全に隔離され、夢も希望も光もすべてシャットアウトされてしまうという最悪の運命にあることに対するあわれみの気持ち。 そして、その人間一人一人、私達一人一人を愛するがゆえ、なんとかそのような最悪の運命から救い出したい。 そういう気持ちから、イエスさまは、その罪の結果・罰である神様との断絶、すなわち死を、私達の身代わりになって受けることを、自ら選ばれたのです。 十字架は、本当にむごく、苦しい刑です。 十字架に付けられるのは、どれほど、恐ろしいことでしょうか? 怖いことでしょうか? 想像を絶します。 しかし、その十字架の刑以上に恐ろしいのは、神様から完全に隔離されてしまうことなのです。 十字架上で、いよいよ息を引き取る寸前、イエスさまは、「わが神、わが神。 どうして私をお見捨てになったのですか。」と、神様から引き離される恐ろしさ、苦しみを叫んでいます。 イエスさまをもってしても、神様から隔離されることは恐ろしく、もだえ苦しむことだったのです。 私達は、その罪のゆえに神様から引き離される恐怖・苦しみについて、真剣に受けとめているのでしょうか?

 イエスさまも、できれば、そのような苦しみから逃げ出したかった。 でも、自分の意志を通すよりも、神様・天のお父様の意志を通すことを選ばれたのです。 十字架に付けられるために捕らわれるまさに直前、イエスさまは、ゲッセマネという所で祈られます。 そこでは、「父よ。 どうぞ、この杯を私から取りのけて下さい。 しかし、私の願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさって下さい。」と祈られているのです。

結論・適用
 イエスさまは、私達一人一人を愛するがゆえ、私達の身代わりとなって、自ら進んで、その苦しい十字架へと進まれました。 それは、その神様から永遠に引き離されるという、想像を絶する苦しみから、私達を救い出すためでした。 私達は、イエスさまが私達のために為されたことの重大さを本当に理解しているのでしょうか?  私達は、イエスさまが憎まれたように、心からその罪を憎んでいるでしょうか? その罪によって引き起こされる、イエスさまさえ怯えた神様から引き離されることの恐ろしさを自覚しているでしょうか? 

 本日のしゅろの主日(パームサンデー)から、イエスさまの苦しみの1週間が始まります。 ところが、現代に生きるクリスチャンである私達は、このイエスさまのこのエルサレム入城を「勝利の入城」、イエスさまが十字架にかけられた日を「グッドフライデー」、そしてよみがえられた日を「ハッピーイースター」と呼んで、ちょうど、弟子達や群集がお祭りムードに浮かれたように、浮かれています。 神学的に見れば、確かにイエスさまのエルサレム入り、十字架、そして復活がなければ、私達の罪の贖いも、赦しも、永遠のいのちも、神様との関係の正常化もなかったわけですから、私達の目から見たとき、それは喜ばしいものです。

 でも、その裏にある、イエスさまの苦しみ、私達への愛とあわれみ、そして罪への憎しみの気持ちを忘れてしまう時、それは単なる、無味乾燥とした、年間行事の一つに成り下がってしまいます。 私達が、自分中心の生活を続け、イエスさまの語りかけにも耳を傾けようとせず、ただ、楽しい行事の一つとしてイースターを迎えるとき、それはまさにイエスさまの苦しみと私達への愛を踏みにじることにもなるのです。 それは、まさに自己中心の罪のあらわれなのです。 
 本当にイースターを喜べるかどうかは、この一週間の私達の態度にかかっています。 この一週間、イエスさまの苦しみと私達へのその深い愛を思いながら、自分の生活の中で、家で、職場で、車の中で、家族との会話の中で、友人との交わりの中で、イエスさまの語りかけに耳を傾け、その語られたメッセージがたとえ自分の望むもの、自分にとって都合のいいものでなかったとしても、従っていく。 じっくりと考えて、祈っていく。 そういった態度を持ちながら、イエスさまの味わった苦しみを共に分かち合おうとするとき、私達は、本当にイエスさまの愛を体中に感じ、その復活の喜びをイエスさまと分かち合えるイースターを迎えることができるのではないでしょうか?