2002年4月7日『ハンナの信仰と献身』渊ムエル1:1-28

 『献身−自分を神にささげる』――これが4月のテーマである。このテーマは、私たち神の民の一生のテーマである。一生涯自分を神にささげ尽くすことができたらば、何という幸いであろうか。献身と聞くと、私たちはどのようなイメージを持つであろうか。牧師、宣教師、教会に直接仕える者と考えるか、いやもっと広い意味でキリスト者は全員<献身者>と考えるか。いずれにしても、主に自分をささげること、主に用いられるようすべてを捨ててお従いすることは、大きな課題であり、また尊い祈りであり、また豊かな祝福である。今月は、共にこのことについて探られたい。その第1回目は、有名なハンナについて見てゆきたい。「お話ください。しもべは聞いております」と素直に言うサムエルは、その純粋な献身的信仰をその母ハンナより受け継いでいる。それゆえに、本日のみことばは私たちに『献身』について必要なことを語ってくださる。

@ ハンナの悩み
1.<二人の妻>
本日の箇所では、まず、サムエルの両親とその家庭のことが述べられる。父
のエルカナはエフライムの山地ラマタイム・ツフィムに住んでいたが、かなり裕福で、また宗教的な人であったようである。毎年、主の幕屋がおかれていたシロに上って、主を礼拝していた。
 しかし、時代の影響であろうか、彼は二人の妻を持っていた。一人はサムエルの母ハンナ、もう一人はペニンナであった。彼は二人を愛していたので、妻を二人持っていても、「二人を大事にしているからそれで良い」と思っていたようである。彼らが生きていた士師時代は、王がなく、民の生活を律する律法が正しく教えられず、人々は自分の目に良いと思う生き方をしていた。士師記21:25がそれを物語る。神のみことばによらない、人間が自分でよいと思うとおりに生きる生き方は、自分では正しいと思っていても、また他の人から見て一見素晴らしいかのように見えても、どこかで必ず道を踏み外す。
 どうして二人の妻を持つようになったかは記されていないが、最初の妻ハンナに子供がなかったことが原因のようである。エルカナは妻ハンナを愛し、ただ一人の妻と考えていたが、子供がないことで祝福が欠如していると思われたくないという気持ちや、家系や相続という社会的要請からりぺニンナを迎えることのなったと思われる。その点ではエルカナは実直であったが、二人の妻を持つとどうなるかという配慮に欠けていたとも言える。現実に家庭内で、三人はお互いに傷つけ合い、悲しみに耐え、いらいらしなければならなかったのである。子供がないことは祝福の欠如なのか。別の妻を迎えてまで社会的要請を満たすべきなのか。エルカナには難しい選択であったに違いない。
エルカナは、宗教的であり、二人の妻を愛しているつもりであった。しかし、二人の妻は本当は幸せではなかった。二人とも、本当に自分は夫に愛されているという満足を得られなかった。愛は、「あなただけ」という排他的なまでに相手に集中する愛でなければ、愛された者に本当の満足を与えない。二人に二股かけて愛するエルカナの、二人の妻は、ハンナもぺニンナも本当の満足を得られなかった。しかし、彼はそれに気づかなかった。

2.<ハンナの苦しみ>
 ぺニンナを迎えてハンナは苦しんだ。7節には「泣いて、食事をしようともしなかった」と記されている。ハンナの苦しみとは何か。第一に、神から見放されているのではないかという思い。<主が彼女の胎を閉じられていた>(5節)からである。第二に、後継ぎが得られなくて夫に申し訳ないという思い。当時の妻にとって、子を生むことはもっとも大切なつとめであった。子供を生めなかったハンナは、良い妻とは評価されず、随分辛い思いをしたであろう。第三に、子供がなくては夫の愛が得られないという思い。この思いは、子供がないこと以上に悲しいことであったかもしれない。第四に、ぺニンナが、ハンナの胎が閉じられていることでハンナをいらだたせていたこと。6〜7節を見て、少しぺニンナにスポットを当てて見よう。
 ぺニンナは嫁いで来た当初、第二夫人という位置から、控え目であったと思われるが、ある時からがらりと変わって、ハンナを見下すようになる。それは胎に子を宿した時である。自分の内に胎動するもう一つの生命を感じたとき、ぺニンナには生命の充実感が湧いてきたのである。当初の屈辱感を克服する方法は、ハンナを蔑視することであり、エルカナ一族が久しく求めていたものを自分が与えることができたという優越感を持つことである。だが、優越感を持ったとしても、それは満足できるものではない。ぺニンナには肝心なものが欠けていた。それは、エルカナの愛である。ハンナに子供がなくても、8節のエルカナの言葉「あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないか」が示しているように、夫エルカナの心が自分よりもハンナの方に傾いているようにぺニンナには思われた。ハンナを妬み、彼女につらくあたったのであろう。その肝心な夫の愛が欠けているゆえに、ぺニンナには優越感や、第二夫人に甘んじ得ない自尊心が高まる。それはぺニンナをどんどん神から遠ざけて行くことになる。

A ハンナの信仰
他方のハンナはどうであったか。彼女は泣き通しである。第一夫人としての
自尊心も自覚もない者へと落ちて、沈み込んでゆく。エルカナの中途半端な励ましも慰めも届かない。ハンナの行き着くところはどこか。主の身元に行ったのである。10節<彼女は主に祈って、激しく泣いた>のである。確かに主が胎を閉じられたことが、ハンナの不幸の始まりであるが、彼女はその結果、以前にも増して神のほうへ近づいて行ったのである。主が閉じておられるなら、私のために開いてくださいと激しく訴えたのである。しかも、その訴えは、ただ悩み事を繰り返しているだけのものではない。彼女はすでに祈りの中で何事かを決意している。その決意を請願の形で自分に確信させようとしている。11節「万軍の主よ。もしあなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますならば、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」と。<かみそりを当てない>は、ナジル人の請願から来ている。民数記6:5に<主のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであって、頭の髪の毛をのばしおかなければならない>とある。ハンナはそれにならって、一生涯自分の子をささげると決意したのである。ハンナを祈りに駆り立てたものは、ぺニンナとのいさかいからすぐにも抜け出したい、子供さえ与えられればすべては解決される、という思いであったろう。しかしハンナはそこのとどまらず、神の前に出て、祈りの中で変えられているのである。神の前で請願を立てているのである。ハンナはすでに、悩みを洗いざらい出し切ってしまえばすっきりする、という段階に終止符を打ち、苦しみながら、はっきりした決断に至っているのである。
 ハンナには、子供は造るもの、親の所有物であるという、現代のような意識はない。また、自分の子を主にささげるなどということを親が勝手び決められるのかという、現代人が考える疑問も問題にはならない。ハンナは、徹底して<子供は神の賜物である>と捉えている。そしてさらに、ハンナの信仰による確信は、<神のもとにある子供のあり方が最善である>というものであった。ハンナには子供のない苦しみがあった。彼女は、祈り求めるうちに、ある時点で、肉的でしかない自分の求めが吟味され、子供が与えられることの意味が変えられて行ったのである。
 自分の人生、自分勝手にして何が悪い、という思いから、私たちは解き放たれ、その思いを十字架につけてゆく必要がある。この祈りと決意が、まさしく私たちの献身である。苦しさゆえに神をのろい、遠ざかるのでなく、苦しさを通して神の御心を求めて歩む者でありたい。この経験こそ献身への道である。

B ハンナの平安と賛美
<彼女の顔は、もはや以前のようではなかった>と18節にある。この平安
の内容は何か。一つは、<子供が与えられると確信した者の平安>であり、もう一つは<子供をささげる決心による平安>である。ハンナの思いが、「〜がありさえすれば」から、「〜がなくても」の信仰に変わっているところの平安である。つまり、子供を与えられて胸に抱いてぺニンナの前で誇り、夫の前で幸福感に浸ることから平安でなく、神共にいますという平安である。
 このハンナの平安は、ハンナ一人にとどまらない。夫エルカナにも及んだのである。夫エルカナは、生まれた子供に関して、ハンナの意思を全面的に受け入れている。ハンナの乳離れするまで手元において育てたい、自分の信仰を教えたいと言った願いを受け入れたエルカナは、ハンナの苦しみへの自責の念、ハンナへの愛、熱心な祈り、以前のようではないハンナの顔によって変えられて行ったのである。23節を読みたい。「主のおことばのとおりになるように」と。人間の常識以上には出なかったエルカナの信仰が、子供をささげるまでに高められ、ハンナの誓願を自分の誓願とするのである。
19節〜20節<〜主は彼女を心に留められ>、ハンナは男の子を産んだ。そしてその名を<サムエル>、つまり<神の名>と呼んだ。ハンナを本当に生かすきっかけを作り、神の働きに携わるよう主に渡された男の子として、ハンナはささげたのである。
私たちの献身は、<神への真の信頼に生きること>である。私たちは、常に自分を主にささげ続けてゆくのである。これこそが、神の民の人生である。共に、最後に、2章の始めのハンナの賛美の祈りを読み、主への応答としたい。

<祈り>气ハネ5:14〜15