礼拝説教 2000年4月2日 「再臨のキリスト」
黙示録19:121:8
序.今日はイエス・キリストの再臨ということについてお話します。再臨、すなわち「再び臨まれる」というのは、イエス様が二回目に来られるということで、2回目と言うからには1回目があるわけです。その1回目にイエス様がおいでになったときの事を報告しているのが新約聖書の最初にある4つの福音書であり、そのときのイエス様の地上での生涯は30数年間という、歴史の中では比較的短い時間でした。しかし、再臨の時には、イエス様は私たちと永遠に共にいて下さる。私たちが信じ敬っているイエス様と顔と顔を合わせてお会いできる、そのような時がやがて来る、それが黙示録に書かれているすばらしいニュースなのです。
これまで何回かにわたって黙示録を学んで来ました。その中には災いとか裁きとかいった暗いテーマが続いたのですが、今日はようやくそのフィナーレです。私も少しほっとしたのですが、このシリーズを聞いて来られたみなさんもそうかもしれませんね。では、今日は再臨のキリストが一体どのような働きをされるのか、3つの事を学びます。
はじめに勝利者なるキリスト、次に支配者なるキリスト、そして最後に花婿なるキリストです。
1.勝利者なるキリスト
19章の1節から10節は、いわば二つの場面のつなぎのような働きをしています。18章までにでてきた大淫婦と呼ばれる都バビロンの裁きが終わり、その裁きをなされた神様を賛美しているのが1節から5節です。そしてその賛美はキリストへの賛美に変わっていきます。そのような賛美の大合唱の中でキリストが登場します。それは、ちょっと見ると恐ろしい姿です。というのは、ここに描かれているキリストは、戦いのために登場するからです。
今年は、ちょっと変わった年で、イースターがいつもの年に比べると、大変に遅くやってきます。23日がイースターにあたり、その前の金曜日、21日が受難日、すなわちイエス・キリストが十字架にかかられた日です。順番が逆行しますが、その前の晩、20日の木曜日の夜が最後の晩餐と呼ばれる時で、私たち日本語部は、いつも祈祷会を行っている時に聖餐式を行う予定です。英語部は金曜の夜に聖餐式を行います。どちらかに、是非ご出席下さい。
さて、その前の日曜日、すなわち16日の日曜が、棕櫚の日曜と呼ばれる日で、イエス・キリストがロバの子に乗ってエルサレムの町に入場される、そのとき人々は自分の上着や棕櫚の葉を道に敷いてキリストを歓迎しました。このロバの子というのは、キリストが平和の王として来られた事を意味する事が旧約聖書に予言されています。一回目にキリストが来られた目的は、十字架にかかって私たちの救いの道を造って下さるためであり、人間と神の間に平和をもたらすために来られたのです。
また、軍馬ではなくロバに乗られた背後には、軍事的な救済者を待ち望んでいたユダヤ人たちに対して、メシアの来られた本当の目的を示す為でもありました。ですから、ロバの子に乗って来られた方は、決して弱々しいお方なのではありません。その本来の姿がこの19章に描かれているのです。
11節からのところではイエス・キリストという名前は書かれていませんが、13節で「神の言葉」と呼ばれているのは、ヨハネによる福音書の書き出しの部分を思い出させます。15節では、口から剣が出ていて、手には鉄の杖を持っている。なぜ、こんな姿で登場されたかというと、ここではキリストが戦いにおいて力強いお方であることが強調されているからです。その戦いとは、私たちを神様から引き離そうとするこの世の勢力との戦いです。一回目に来られた時には、戦う姿では来られなかった。それは、もしそのとき戦われたならば、すべての人も一緒に滅ぼされてしまうからです。しかし、いわば罪の捕虜となっている私たちを救い出す働きが終わった後は、心おきなく戦うことができる。そのために戦いの姿で登場されたのです。その戦いは、16章でハルマゲドンと呼ばれている場所に集まった軍勢との戦いです。彼らを率いるのは悪魔とかサタンとか呼ばれる竜の手先である獣とその偽預言者です。いったいどんな戦いでしょうか。
戦いといいますと、旧約聖書のサムエル記というところにダビデとゴリアテの戦いがでてきます。日曜学校の子供たちの大好きなお話のひとつです。かたや大男のゴリアテ、それに対するはまだ少年のダビデ。ダビデは5つの石ころを手に近づいていきます。ゴリアテは鎧を身につけ、抜き身の刀を手にやってきます。少年ダビデは石をひとつ取り、石投げのパチンコにつけてとばします。「えいっ」。しかし、一発目ははずれた、2発目、3発目、4発目。後少しのところでそれてしまう。あと石はひとつしかない。敵はどんどん近づいてくる。さあ、最後の石を投げた。当たった。やった、勝ったぞ。・・・というのはウソです。実は一発目でダビデは勝ってしまうのですが、人間の心理としては、ちょっとピンチがあった方が勝負が面白くなる気がします。
黙示録の、この戦いでも、実際の戦いの様子は描かれていません。まるであっけなく勝負がついてしまったかのようです。実はそれほどにキリストは強いお方なのです。そのような強いお方が、私たちを救うために何の抵抗もなさらずに十字架につけられた方が本当は不思議なことなのです。十字架につけられた、それは無力なのではありません。むしろ、罪との戦いにおいて圧倒的な勝利者なのです。私たちは、弱い存在です。しかし、私たちの救い主は勝利者であって、このお方が私たちのために来て下さる、それが再臨なのです。
2.支配者なるキリスト (20章)
さて、戦いに勝利された後、キリストは王として世界を治める、それが千年王国です。この千年もホンの数節で終わっており、長い期間としてよりも一時的なものとして書かれています。永遠の時はその後で来る天国の場景で描かれています。では、この千年王国とは何なのでしょうか。
ちょっと、専門的なことになりますが、大切なことですので少し横道にそれます。この千年王国については3つの説があります。第一はキリストは千年王国の前に再臨される。言い方を変えれば、キリストがまず再臨されて、それから千年王国が実現する、ということです。第二は、キリストは千年王国の後に地上に来られる。第三は、千年王国というのはシンボルであって、実際に起こることではない、という考えです。これらの説そのものよりも、その背後にある思想が重要です。一番目の千年王国前再臨説というのは、この黙示録に書かれていることに一番沿っており、福音自由教会や福音的な教会のほとんどがこの立場をとっています。この説は、聖書に書かれていることを、神の言葉としてそのまま信じる姿勢から生まれたものです。それに対し、三番目の千年王国がないとする説は、おそらく聖書は昔の神話のようなものとする考え方が背後にあるのではないかと思います。そして、第二の千年王国後再臨説というのは、キリストが来られる前に、言い換えれば人間が自らの手によって千年王国というバラ色の時代を作り上げることができるという考えです。人間の努力によって自らの救いを達成できるとする点で、キリスト教の救いからははずれた考えです。以前は、この再臨についての考え方の違いによって激しい論争があり、違った考えの者がお互いに敵視しあうことがありました。別に敵対する必要はないと思いますが、その背後にある間違った考えに対してははっきりとノーと言うことは大切です。
さて、話を黙示録に戻します。この20章では、実は千年王国自身は中心的なテーマではありません。キリストが王として支配される、ということと、2種類の復活が大切です。第一の復活はキリストを信じて死んでいった者たちの復活です。この第一の復活にあずかるものは幸いだと書かれており、そしてこの復活はその後に死が訪れない、つまり永遠の命への復活です。それに対して、第二の復活は第二の死に至るものです。千年王国のあとに復活するのはすべての人で、その行いに応じて裁かれ、有罪とされたものは第二の死と呼ばれる火の池にサタンと共に投げ込まれるとされています。この裁きが最後の審判と呼ばれるものです。この最後の審判における裁判官ですが、11節を見ますと、大きな白い御座におられるお方と書かれています。黙示録では多くの場合、御座におられるお方というのは父なる神を示すのですが、ここだけは白い座と書かれており、キリストが白い馬に乗っておられた事と、20章の前半では王として描かれ、また4節では多くの座、これは天使のことかクリスチャンのことかは分かりませんが、彼らにも裁きの権威が与えられたということを考えると、おそらく最後の審判ではキリスト自身が裁きの座に着かれていると思われます。
この最後の審判とか、火の池というものをむやみに恐ろしがる必要はありません。エホバの証人という異端は、この最後の審判が恐ろしくなってそれを否定していった結果として生まれたものです。しかし、キリストを信じ救われた者は第一の復活、永遠の命に至る祝福が約束されていることを憶えているならば、最後の審判は厳粛ではありますがおびえるべきものではないはずです。もし最後の審判がないのならば、私たちの救いも無意味なものとなってしまいます。
20章の中でクリスチャンたちはキリストと共にいるのです。キリスト自身が私たちの側にたっていて下さるのです。ですから恐れる必要はないのです。この「共にいて下さるキリスト」ということが、次のポイントのテーマです。
3.花婿なるキリスト (20:18)
キリストの再臨の目的は、私たちの救いの完成です。それを黙示録の中では子羊の婚宴と呼んでいます。花嫁は新しいエルサレムとも呼ばれ、それは教会のことを指すと考えられています。ところで、聖歌の中には再臨をテーマにした賛美がいくつもあるのですが、そのなかにちょっと、間違ったというか、あまり正確ではない表現が出てきます。それは「花嫁たち」という言葉です。それだと、クリスチャン一人一人が花嫁という事になるのですが、女性にとってはまだいいとしても男性にとっては花嫁になるというのはちょっと抵抗があります。正しくは、教会全体が一人の女性に例えられ、花嫁と呼ばれているのです。では、その花嫁なる教会と、花婿であるキリストとの婚宴というのはどういうことなのでしょうか。
この結婚によって指し示されるこのの意味が21章の3節4節に書かれています。それは「神が共にいて下さる」ということです。男女が結婚し、一体となったのは、それはこの「共にいる」ということを示しています。牧師の夫婦というのはようは自営業のようなもので、実際に一緒にいることが多いのですが、ふつうは別々の場所にいる時間は少なくありません。しかし、空間的には離れていても夫婦は共に生きている存在だと聖書は教えています。この「共にいる」ということが子羊の婚宴という言葉の表している事です。
私たちは、すでにイエス様を信じたときから、キリストがインマヌエルの神として私たちと共にいて下さる。教会にとっては聖霊が下られた時からキリストの霊である聖霊によってキリストはともにおられる。しかし、それはもちろん目に見えない事であり、人間の罪のために、たとえイエス様はともにいて下さっておられても、私たちの方ではまるで遠く離れているように感じることが多くあります。だから、私たちの地上の生涯には涙があり、苦しみがなくならないのです。そういった意味においては、今私たちが頂いている救いは限定的なものであり、まだその救いの恵みのすべてを味わうときはまだ来ていない。ですから未来における救いの完成を待ち望む信仰が必要です。でも、子羊の婚宴のときにはそれが完成の時を迎えるのです。ですから、もう死も、悲しみも苦しみもなくなる。それが再臨の時に私たちのために用意されている祝福なのです。
キリストは、一度目に来られた時には、私たちの罪を贖いために十字架について下さり、救いの道を築いて下さいました。そして、やがて二度目に来られる時には、その救いを完成して下さり、文字通り永遠に共にいて下さる。その約束が再臨の信仰に含まれているのです。さまざまな困難を味わうときにクリスチャンは希望を忘れてしまう事があります。1世紀末のクリスチャンたちがそうでした。激しい迫害の中で彼らを励ますためにこの黙示録が書かれました。たとえ目に見える状況は絶望的に見えても、再臨のキリストを信じるものには絶望はないのです。私たちもやがて来られるキリストを仰ぎ見つつ歩んで生きましょう。