2001年4月1日「十字架の価値観」マタイ20:17−28


 今日から新しい月になりました。日本でしたら新年度の始まりですね。こちらでは、今日から夏時間がスタートしました。まだ、夏、という感じはしませんが、季節が移って来たことは感じます。実は、もうひとつ、既に始まっていることがあるのですが、カトリック教会などではレントという行事がありまして、灰の水曜日からグッドフライデーまでの期間、キリストの十字架を心に留める習慣があります。今年は2月28日から、だったと思います。私たちの教会では行事としてレントを行ってはいませんが、イエス様の十字架に心を向ける良い時期かもしれません。もちろん、十字架のことはレントだけでなく、一年中大切です。でも、イースターを前に、もう一度聖書から十字架について学びたいと思います。
 十字架について、と言いましても、直接的に十字架を描いている箇所だけが十字架について書かれているわけではありません。聖書の至る所に十字架に関係することが出てきます。イエス様の生涯もその初めから十字架の影が見え隠れしています。今朝はそのような中から、十字架の、恐らく1,2週間前に起きた一つの出来事を通して、私たちにとっての十字架の意味を考えていきましょう。

1.人間の求める支配
   17節から19節をもう一度見てみましょう。ここでキリストは、御自分がもうすぐ十字架に架かる事を弟子達に語っています。十字架だけでなく、復活まで含めて教えている。実は、キリストは最初から十字架のことを教えてはいません。弟子になって最初の頃はまだ十字架について学ぶことはできない、そういう状態だったのです。しかし、約3年間、教わってきて、最後の時が近くなってきた頃から、弟子たちの、特に中心的だった者たちには、十字架に架かることを教えられました。だからといって、弟子達がそれを良く理解できたのではありません。むしろ、「そんな馬鹿な事があるはずがない」と言って反対したり、あるいは全然見当違いの反応を見せたりした。その一つが、20節以降の事です。
 どうして弟子達は十字架を理解できなかったのでしょうか。まだ、理解する力が付いていなかったのか。事実、彼らは最後まで理解できずに、十字架の時になったら逃げてしまいました。復活のキリストにお会いしても、まだ分からなかった。ペンテコステの日に聖霊が教えて下さって、初めて分かるようになったのです。では、イエス様が教えたのはちょっと早すぎたのでしょうか。いえ、むしろキリストは理解は出来なくてもあらかじめ十字架を予告することで、全てが神の御計画であった事を示されたのだと思います。弟子達が十字架を理解できなかった、その理由は彼らの心の中にあるものが間違っていたからです。そして、同じ間違いは全ての人間の中にある。それを示しているのが20節からです。
 20節から21節。ゼベダイの子というのはヨハネとヤコブです。ここでは母親が求めたと書いてありますが、小さな子供ではありませんから、息子達自身もそれを求めていた訳です。それは、キリストが王座に着くときにその両隣に座る、つまり、キリストに次ぐ位にして欲しい、ということです。そんな事を言った背景にあるのは、当時のユダヤ人のメシア理解でした。彼らにとってメシア、救い主とは、武力によってローマ帝国からユダヤ人を解放し、ユダヤこそが世界を支配する国となることでした。ですから、十字架の事を聞いたとき、彼らは文字通りの十字架ではなく、それはきっと比喩的な話で、恐らくイエスがローマ帝国と対決する時が来たのだ、そしてその奇跡を行う力によって勝利して王座につくときが近いのだ、と理解したようです。そうなったときに、自分達がキリストに次ぐ位、弟子達の中では最高の存在になれるように頼んだ訳です。それを聞いた他の弟子達は憤慨した、と24節にあります。結局は弟子達全員が、自分が一番になりたかった。同じ思いは誰の内にもあるのです。
 25節で、イエスは言われました。「あなた方も知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼ら(つまり人々)を支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。」
 誰もが上に立ちたい、人を支配したい、思い通りにしたい、と願います。人よりも上に立つことが良いこと、というのが世の中の価値観です。強いこと、勝つこと、多くの物を手に入れること、そういった価値観があらゆるところに見え隠れします。そういった世の中の考えにどっぷりと浸かっているとき、十字架は敗北であり、救い主が十字架に架かるなんて「絶対にあり得ない」こと、だから理解できないのです。
 このような価値観は教会の中にも忍び込んで来ます。人が沢山集まったら成功だと思う。もちろん、一人でも多くの人に救われて欲しいと願うことは間違っていません。ところが、人数が多いと誇り、少ないと失望する、そこに数の原理が働きます。奇跡が起きたら信仰が強くて、うまく行かないのは信仰が弱いから。それは成功の原理です。目立つ奉仕をする人が偉くて、隠れた奉仕は偉くない。それが支配者の原理です。そういった価値観にとらわれているとき、私たちは十字架が何時の間にか理解できなくなってしまうかも知れません。
 二人の弟子はイエス様の左右に座ることを求めました。「一人は右に、一人は左に」という言葉は、マタイの福音書の中にもう一度出てきます。それは奇しくもキリストの十字架の場面です。二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられました。まるで、皮肉の様です。二人の兄弟は、それが良い物だと考えて求めましたが、彼らの求めた物は強盗が受けることだったのです。
 では、キリストの弟子であるクリスチャンは何を求めて生きるのでしょうか。二つ
目の事に進みます。

2.神の国の原則
   「そうではなくて、弟子はどうあるべきか」とキリストが言われたのが。26節、27節です。「あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」
 なるほど、では、偉くなりたかったら、しもべになればいいんだ。しばらく我慢して仕えていたら、偉くなれるんだ。と、考えたら間違いです。偉くなることが目的で仕えるとしたら、本当のしもべではありません。ここで言っているのは、何が偉いかという価値観そのものが逆転していることです。支配者ではなく僕の方が価値がある、と言うことです。神の国の生き方は、世の中の常識から見たらまるで逆のように思えることがあります。今日読んだ箇所の前後に出てくるのは、実はそのような神の国のあり方に関係することです。
 20章の1節から16節では「天の御国」、すなわち神の国がどんなものであるかを、一つのたとえ話で語っています。そこでは一日中働いた者たちと、一時間しか働かなかった者たちとが、同じ額の報酬を得ています。別にこれは資本主義社会を否定しているのではありません。神の国は恵みによって無代価で与えられるのです。もちろん、地上での生き方によって天国で受けるものに違いがあるような事を教えている箇所もあります。でも、原則として、実績よりも恵みが優先するのが神の国です。
 29節からは盲人のいやしが出てきます。昔の翻訳では「盲」(めくら)だったと思います。でも、そういう言い方は差別的だ、ということで、言い方が替わって来つつあります。もちろん、差別は言葉以上に心の問題ですが、昔は言い方すらもあからさまに差別があった。新約聖書の時代にも、目の見えない人たちは社会から取り残された存在でした。しかし、彼らのためにキリストは立ち止まったのです。人々は、よけいな存在として彼らを黙らせようとしたのに。ここにも人々とキリストの価値観の違いが表されています。
 この世の価値観と神の国の価値観は正反対である。だからといって、じゃあクリスチャンは財産を捨て、地位を捨てて、この世から離れて生きていくのか、というと違います。むしろ、この世の中でキリストを証ししていく使命があります。ただ、この世の価値観に支配されてはいけないのだと思います。地位や財産を与えられたら、それを感謝して、そして神様の栄光のために用いたら良いのです。
 でも、この世に生きながら、この世の考えに染まらずに生きるのは大変難しいことです。いったいどうしたらキリストの弟子として生きることができるのでしょうか。

3.十字架による逆転
   28節を読みましょう。 ここには人の子、すなわちキリスト御自身がしもべとなるために来られたと言っています。これは、模範を示したということ以上の事です。
 ずっと、真面目な話を聞いていて疲れたでしょう。ちょっと脱線します。
 クリスマスの時に、交換プレゼントをしましたね。あれはホワイト・エレファントというやり方です。何となく、良い物を取り合うみたいになっちゃいますが、元々は、それぞれの家にあるいらない物を持ってきてプレゼントしあうのだそうです。何でそれをホワイト・エレファントと言うか。昔、南アジアのある国では象が良く使われていました。労働力としても役に立ちましたし、戦いの時は戦車のように使われました。
 ところが時々白い象が生まれる事があります。大変珍しいので王様の物とされました。その王様、時々、貴族にそれをプレゼントすることがあった。でも、それは特別な象で、体も弱いので、仕事や戦いに使うことはできないし、でも、仕えないからと言って捨てるわけにもいかない。王様のご機嫌を損ねないため、仕方なくその白い象の世話をするのですが、それがまたお金がかかる。そうこうしている間に、段々とその貴族の家は衰えていったそうです。有力な貴族が王様の位を脅かさないためにプレゼントした訳ですね。それで、いらない物をプレゼントして押しつけるのをホワイト・エレファントと言ったらしい、です。王様も上手いことを考えましたね。
 イエス様も、弟子達がちょっと偉くなると、「僕にならなくてはいけないよ」などと教えて下に落とし、結局は自分が上に立ちたかったのか。いや、そうではない。キリスト自身が僕のすがたになることで私たちの価値観を変えて下さったのです。
 キリストが仕えると言ったときそれは最低の身分の僕として生きて下さったことを意味します。泥で汚れた足を洗うのはその家で一番下の僕の仕事でした。でも、キリストは私たちの罪で汚れた心を洗うために血を流して下さった。日本では政治家が悪いことをしたのが見つかったとき、秘書がその罪を被されたことがありました。私たちの罪を王であるイエス様が被って下さったのです。そして罪人である私たちが受けるべき罰を、罪の無いお方が受けて下さった。それが十字架の贖いです。
 イエス様が僕となってくださったということは、私たちが僕となって仕えたとき、そこにイエス様も共にいて下さる、ということなのです。ですから、仕える生き方は、栄光であり、恵みであり、喜びなのです。だから、仕えることは偉くなる事よりも価値があるのです。僕となることは支配者となることよりも望ましいのです。そこでイエス様と会えるからです。キリストの十字架を知るとき、私たちの価値観は逆転するのです。

まとめ. 教会では十字架というのは大切なものとして扱います。でも、考えたら変な話です。ギロチン台や電気椅子を尊ぶ様なものです。でも、キリストの贖いによって救って戴いたとき、十字架は何よりも素晴らしいものになります。それは、そこで神の御子が私たちの罪のために死んで下さり、贖いを成し遂げて下さったからです。
この十字架を仰ぎつつ、イエス様と共に生きる生き方を歩ませて戴きましょう。