2002年3月31日『復活の主―私たちの喜び・希望』第气Rリント15:1〜8
私たち神の民が、キリスト者として喜びを言葉で表すとしたら、どのようなことばをもって表わすであろうか。あなたはどのように表現されるであろうか。
コリントの手紙を書いた使徒パウロは、「神の恵みによって、私は今の私になりました」と喜びを表わした。自分を自慢するのではなく、自分のことを誇るのでもない。今の自分になったのは、ただただ神の恵みなのである。神のあわれみによって、今の自分に変えられたのだ、と表現した。その喜びは、はしゃぐ喜びでなく、心の深いところから泉のように湧き出る喜びである。
私たちも今、このように言うことができる。それも、毎日毎晩この告白を神に対して表現できるのである。まさに、喜びの連続である。3月は神の奇蹟と題して、みことばを取り次いできた。第1週はアブラムとロトの別れのところから<選択の連続>、次に美しの門のところから<期待と落胆の連続>、その次は異邦人のところから<自分の変革の連続>を副題としてお話した。最終の本日イースター礼拝は、<喜びの連続>を副題として『復活の主―私たちの喜び・希望』というテーマで、歴史事実の上に立つ信仰と復活の主を信じる喜びについて学びたい。
もしも主イエスが十字架で終わっていたなら、今日、その主イエス・キリストの名は留められていなかったに違いない。もし十字架で地上での生涯を終えていたなら、キリスト教は存在しえたであろうか。2002年もの間、人々の間に留められていたであろうか。この長い年月の間、主のように愛を語った人物も他にいたであろう。またさばきを宣告した預言者など多く存在した。
では、何故今、主イエス・キリストは多くの人々に信じられ、信頼され、崇められているのであろうか。またキリスト教会は、主イエス・キリストの御名を伝えているのであろうか。
それはまさに、イエス・キリストの復活が歴史的史実であるからである。イエス・キリストの復活を祝うイースターの所以である。私たちが信じている、救い主イエス・キリストは、真に神の御子であられ、本当に死んで葬られたのであるが、また本当によみがえられたのだ。墓の中から死体がなくなってしまったのであり、よみがえった後でその死体を発見した人は誰もいない。私たちの信仰の土台である、この復活を第气Rリントとルカの福音書をもとに3つの点から学びたい。
@ 歴史的事実その1=埋葬=死の事実
ルカ23:50〜56節を見てみよう。
イエスが死なれたときに、ユダヤ人議会の有力な一員である、アリマタヤのヨセフが死体を引き取りに来て、自分が作った立派な墓に埋葬した。申命記21:22〜23節によると、木にかけられた死体は、その日のうちに埋葬しなければならない、とある。それにこの日は日没とともに、安息日が始まろうとしていた。時間はない。ヨセフは意を決して総督のところに行ったのである。
−@イエスの脇腹
総督ピラトは百人隊長を呼んで、イエスが本当に死んだかどうかを確かめ、兵士たちに命じて、イエスの脇腹を槍で突かせた。普通囚人たちの死を確実にするため彼らのすねを折ったのであるが、イエス様の場合は既に死んでいたので、そういう方法が取られた。
−Aヨセフの犠牲
血と水が分離して出てきたのを確認した百人隊長は、確信をもって総督に報告したあと、死体をヨセフに渡したのである。ヨセフは、死体をきれいな亜麻布で包み、新しい墓に納めた。処刑された犯罪人を葬った墓は以後二度と使うことができなかったと言われていたので、彼はこの埋葬に大きな犠牲を払った。
−B女たちの見届け
イエスの亡骸が収められ、大きな石で墓の入り口が閉じられた様子を、女たち(マグダラのマリヤとクロパの妻でありヤコブとヨセフの母であるマリヤ)が見ていたのである。彼女たちは安息日が明けたら、再び来られるようにと、埋葬場所を確認していたのである。
埋葬は、イエス・キリストが確かに死んだことを示すものとして重要である。パウロが第气Rリントで明言している以前に、すべての福音書に記録されている。
A 歴史的事実=復活と顕現=神のみわざ
復活の重要性は、第1に「使徒の働きの説教はすべてに復活のメッセージが
ある」ということ。第2に歴史的古い信仰告白として第1コリント15章が挙げられている。
復活の真実性と事実性をルカの24章から3つに分けて見てゆきたい。
−@空の墓=ルカ24:1〜12
墓が空であった事に関して、多くの諸説がある。誤認説(墓を間違えた)、盗難説(誰かが盗んだ)、仮死説(本当は死んでいない)、弟子たちのでっち上げ説などがあるが、それらの疑問視する人々が、同時に墓は空であったと、認めている。
墓を間違えたのならば、女たちが一人でなく、収められた墓を見届けている事実の記事と矛盾する。また盗まれたとするなら、祭司長、パリサイ人たちの願いによる墓の番の厳戒態勢と矛盾することになる。マタイ27:62〜66を見てみよう。イエスが埋葬されたその翌日、ピラトはイエスの埋葬に関してユダヤ人たちの指導者たちの陳情を受けている。祭司長やパリサイ人たちは、イエスが復活を予告していたことを覚えていた。あるいは彼らは特にヨセフの手に死体が渡されたことに不安を感じていたのであろうか。彼らは、弟子たちが死体を盗んでイエスが復活したと主張することを心配し、三日目まで番をしてくれと陳情したのである。ピラトはそれに応じて、ローマ兵を遣わして、石に封印をし、見張りを命じた。石を封印すること、それはこの墓を開く行為を罪とするものであった。そんなローマ兵の見張りの中では盗めない。またローマ兵が盗むことも、その動機が見つからない。何の得にもならない。
仮死であるなら、イエスが気を失っていただけというのなら、十字架刑のむごさは説明できない。また弟子たちが、でっち上げて言い広めているとしたら、その後の弟子たちの死は考えられないし、彼らの中に生じた誠実さと矛盾をする。ルカ24:5〜7節の通り、主はよみがえられたのである。6節の<よみがえられたのです>は受動態が用いられているのは、「父なる神がイエスをよみがえらせた」という意味である。神のみわざなのである。
−A多くの証人=ルカ24:36〜48
マグダラのマリヤ、ペテロ、エマオ途上の二人、二回座敷の十人、トマス、ガリラヤ近郊の多くの弟子たち、弟ヤコブ、ナタナエル、オリーブ山の人々と多くの人々の前にイエスは現れた。また体験したことを素直に留めた目撃者たち。つじつま合わせをしていない書き方こそがその証明である。
−B弟子たちの変化=ルカ24:52〜53
失望・幻滅から喜び・希望へ、そして献身へ。また恐れから大胆さへと帰られていった弟子たち。もしよみがえらなかったら、弟子たちの変化、嘘つきから正直者へと変えられていったことが説明できない。もしイエスがよみがえらなかったなら、臆病な弟子たちが死を恐れずキリストの復活を語る者となることはできなかったに違いない。
B 復活は私たちに何をもたらすのか=復活の意義
−@キリストの神の子であることの証し
これはキリストの神性を証明するものである。ローマ書1:4を見てみよう。
「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです」とあるように、神の御子としてよみがえられたのである。
−A十字架の贖いを有効にする。
第气Rリント15:17に「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪のなかにいるのです」とある。これは、罪を帳消しにする十字架の救いと、神の前に正しく、生まれ変わったと宣言するために、十字架と復活は切り離せない、とうことを示している。罪の結果としての死に打ち勝ち、新しいいのちをいただくということである。ローマ書4:25節にもそれが述べられている。
−Bキリストは眠った者の初穂として、よみがえられた。
キリストの復活は、終わりの日に私たち神の民がよみがえることの保証であるということである。15:20<初穂>とは、大収穫を予感させるもので、使徒信条の「からだのよみがえり」を保証するのである。
−C信じる者がキリストと一つにされて新しいいのちに歩むため。
私たちのうちに住んでくださり、キリストとの一体を表わすものである。復活され今も生きたもうキリストの、とりなしによって生かされてゆく者となるということである。
主イエスは、ただ一人、よみがえられた。これが私たちの喜びであり、希望である。イエスがよみがえられたのであるから、このイエスが私たちを罪と死から救い出してくださる救い主であると信じることができるのである。だからこそ「わが主。わが神」と告白し、この主を確信をもって伝えてゆけるのである。