礼拝説教 3月26日 「神の怒りの日」黙示録15−18章
序.私は怒りっぽいのですが、と言っても最近は信じてくれない人がいます。日本の神学校で学んでいたときには、他の神学生はみんな私が気が短いのを知っていたようです。さすがに歳を重ねて少しは忍耐力が付いてきたのかどうかは分かりませんが、今でもカッとなることがよくあります。だいたいそういうときは疲れているとか、睡眠不足とか、あるいはおなかがすいているとか、何か原因があるようです。
クリスチャンになりますと、何となく、怒ってはいけない、クリスチャンらしくない、などと考える人が多いのですが、怒ることが即、罪であるとは言えないような気がします。
それはさておき、人間の基準を神様に当てはめて考えると時には間違いになることがあります。怒ることはよくない、だから神様もお怒りになるはずがない。イエス様は優しい方だから、決して怒ることはない。でも、そんなことは聖書の中には書いてありません。確かに神は怒るに遅い方、とは書いてありますが、怒らない方ではありません。
よく、現代人、時にアメリカや日本人が求める神のイメージとしてサンタクロースがあげられることがあります。何を言っても何をしても怒らないで、いつも笑って「ホッ、ホッ、ホー」などと言うだけ。それでいてほしい物は何でも与えてくれる。そんな人間の言いなりのような神は聖書の教えている真の神ではありまん。
神は、人間の罪に対して怒られるお方です。決していい加減にして許してしまうのではない。怒るに遅い、忍耐して下さる、というのは確かですが、必ず裁きを下される時がくる。それが世の終わりの出来事の中にも現れています。
今日は、この「神の怒り」が表される時についてこの黙示録の15章から18章を通して学びたいと思います。もちろん、あまり楽しい話ではありません。しかし、神様の御心を知る上でとても大切なところでもあります。
一体、神が怒られるとは何を意味しているのだろう、神は何に対して怒られるのか、そして私たちに対して神は何を伝えておられるか、ということを順に取り上げていきたいと思います。
1.神の聖と義
黙示録の中には7のシリーズというのが何回も現れます。7つの教会、7人の天使などです。その中でも、7つの封印、7つのラッパによって引き起こされた災害は、だんだんに緊張感を増し加える様に描かれ、そのクライマックスに当たるのが16章の7つの鉢の災害です。そして、この7つの鉢によって起きる災害によって神の怒りが完全に示されるのです。
それまでの災害はどちらかというと悔い改めを促すような要素を持っていましたが、この最後の災いは神の怒りが覆い隠すことなく表されるのです。そして、実はこの怒りの中に神がどのような方なのかも示されているのです。それは一言で言うならば神の聖ということです。
7つの鉢の災害に先立って、この15章ではひとつの場景が描かれています。それは、信仰を守り通した人々による賛美です。その賛美はモーセの歌と子羊の歌と呼ばれています。子羊の歌というのははっきりとは分かりませんが、モーセの歌というのは旧約聖書の出エジプト記にでてくる歌を思い起こさせます。おそらく、これらは別々の二つ
の歌と言うよりもひとつの歌で、そのテーマは救いの神をたたえるものと思われます。
そのモーセの歌ですが、神様がモーセを遣わし、奴隷として苦しめられていたイスラエルの民をエジプトの国から救い出します。そのときの出来事とこの黙示録の出来事とはいろいろな共通点があることに気がつきます。出エジプト記では、神に逆らうエジプト人、特に王であるパロの頑なな心をうち砕くように10の災いが下されますが、その内のいくつかはこの黙示録に出てくる災害と同じ種類の災いです。たとえば水が血に変わるというのがそうです。そして、ようやくエジプトから出てきたイスラエルを追いかけてエジプトの軍隊が迫ってきたとき、神は海の水を二つに分けて人々を救いました。そのときにエジプト軍はその海の水に飲まれて全滅してしまったのですが、その海のほとりで人々が神に感謝の賛美を捧げたのが出エジプト記の15章に出てくるモーセの歌、あるいは海の歌と呼ばれる賛美です。
それを彷彿させるように、この黙示録の15章ではガラスの海、あるいは火の海のほとりで賛美が捧げられています。3,4節。ここに神の聖という言葉が現れます。
神の聖という事の意味ですが、それには二つの内容があります。ひとつは神は他のすべてのものを遙かに越えたお方だということ、これを神の超越性と言います。もう一つは神は罪や汚れが少しもないお方だということで、これは聖と並んで神の重要なご性格である義、すなわち神の正しさとも関係していることです。
まず、第一に超越性としての神の聖ということです。5節に「天にある、あかしの幕屋の聖所」というのが出てきます。モーセの時代には幕屋という大きなテントの様なものの前で人々は神を礼拝しました。それがやがてソロモン王の時代に立派な神殿が建てられるのですが、その神殿も幕屋と同じ構造をしています。その一番中心にあるのが聖所、特に至聖所と呼ばれる部分です。そこは誰でも気軽に入ってよい場所ではありません。年に一度だけ代表である大祭司だけが、すべての民の救いを神の祈るために入ることが許されています。
その幕屋のモデルとも言うべき天の幕屋の聖所から天使たちが7つの鉢に満ちた神の怒りを携え出てきたのです。
そしてその災害が終わるまでは誰も聖所に入ることを許されないと8節に書かれています。これは、もう救いの為に神に近づいて祈ることができないということです。
私たちは、神の怒りという言葉を聞くと、何となく、神様が怒られるなんて変だと思うかもしれません。怒って災害を下すなんて大人げない、神様、そんなことよしときなさいよ。そんなことを口に出すことはないにしてもそれに近いことを思ったりします。でもそれは、実は神の聖を汚すことなのです。
神様は私たちよりも遙かに上のお方です。その方に人間が口を挟むようなことは本当はしてはいけないのです。
近代になってから人間は徐々に神に対する畏れの思いを忘れるようになり、どんなことでも考え、時には口に出すようになりました。そんなに怒るなんて神様が間違っているんじゃないか、というのは、それは人間が神様よりも上に立って神を裁くことです。神様は愛と忍耐をもって私たちのそのような生意気な態度を許して下さっていますが、それは、どこまでも許されることではない。本来は人間が触れてはいけないお方、それが聖なる神なのです。
二つ目に、神は罪や汚れのないお方ですから、罪のある人間はその聖なる神の前では滅ぼされるのが当然なのです。それが神の裁きです。
16章を見てみましょう。ここには最後の災害である7つの鉢の災いがでてきますが、それらを一言で述べているのが5節から7節です。それは正しい裁きということです。第一と第五の災いは、獣、すなわちキリストに反抗する悪魔の手先ですが、その獣に従う人々に対して災いが下されます。第二、第三の災いはどちらも水が血に変わるもので、彼らが迫害によって多くの血を流したことへの当然の報いだと書かれています。第四は、太陽の炎で焼かれると
いう災いで、その時に彼ら、獣に従うものたちは、いままでもしてきたように神を汚すことを言うことをやめなかったのです。
私たちは、正しい人を迫害するとか、悪いことをしながら栄えている人がいるのを見ると、なんで神様はそのような悪を裁かれないのかと思います。神様がそれを裁かれないでおられるのは、人々が、悔い改めることを願って待っておられるからです。しかし、それだけならば、神の義や聖に反することです。ですから、神は必ず、それに対して正しい裁きを行います。
そのことを忘れてしまいますと、罪に鈍感になってしまいます。「どうせ、神様は赦して下さるのだからちょっとくらいの事は平気さ」。でも、神様は決して侮られるようなお方ではないのです。
天地を造られたお方は、私たちを救って下さる愛の神であると同時に、世界を裁く義なる神でもあり、私たちが近寄ってはいけない聖さをもっておられる、そのことがこの7つの鉢の災いの中に秘められているのです。
2.裁かれる都 (17、18章)
悪魔自身に対する裁きはもう少し後ででてきますが、この7つの鉢の災害によってもっとも裁かれるべき存在として最後に登場するのは大バビロンと呼ばれるものです。このバビロンというのが一体何なのかは大変に難しい問題です。
17章では、そのバビロンが一人の女性として登場します。この女は大淫婦とも呼ばれています。この女が何を象徴しているかについて多くの人はおそらくローマの事だと考えています。少なくともこの黙示録を最初に読んだ1世紀末のクリスチャンたちはそう考えたことでしょう。
この黙示録には様々なシンボルが現れ、現代の私たちには理解が難しいのですが、そういった表現をしているひとつの理由には当時の迫害があります。ローマ帝国からの迫害を受けていた彼らが、もしローマを批判するような手紙を書いたり受け取ったりしているのが明るみにでたら、政治犯として捕らえられます。彼らは信仰を守り通そうとしましたが、政治運動をしたのではありません。ですから、注意深く言葉や表現を選んで黙示録は書かれたので、一見するとまるで神話の様な描き方をしていますが、これを読んだクリスチャンたちはここに描かれているのはローマに
対する神の裁きだと理解したことでしょう。旧約時代のバビロンがイスラエルを苦しめたが最後には滅んだように、いまクリスチャンたちを迫害するローマもやがては神の裁きを受ける。しかし、それだけのことではないのです。
この大バビロンと呼ばれるのは、都市としてのローマだけを指しているのではありません。むしろ、そのローマによって代表される帝国全体であり、その帝国の政治や経済を動かしている原則のようなものと言ってよいかもしれません。ある人は、この大淫婦というのは皇帝礼拝を含むローマの宗教の事と考えます。確かに、旧約聖書では偶像礼拝を姦淫に例えることがよくあります。
しかし、単に宗教や政治のことだけではないのです。もしそうならば、ローマ帝国が滅び、ローマの宗教が消え失せたならそれで終わるはずです。しかし、神に逆らう勢力は、時代によって形を変えながらも生き続けています。世の終わりに神の裁きが下されるまでは大バビロンは存在するのです。
しかも、15節を見ると、その影響は全世界に及んでいます。一体、この大バビロンとは何なのでしょうか。
18章では、この大バビロンなる淫婦の違った側面が描かれています。それは不品行と極度の贅沢です。その彼女の所に王たちや商人たちが群がっています。その姿の中に、人間の欲望や高慢といったものが表されています。それが実は大バビロンの正体かもしれません。
人間の欲望がある限り、偶像礼拝と不品行はなくなりません。高慢がある限り権力や迫害は続くのです。バビロンというのはそういった人間の罪と深く結びついた存在なのかもしれません。
神は人間の罪を必ず裁かれるお方です。時にはそれが直ちに行われることもあります。罪に対する罰を下すことで、その罪を犯している人や周りの人々に悔い改めと注意を促すことがあります。
しかし、多くの場合、神は裁きをひかえておられる。それは、もし本当に神がその裁きを明らかにされたら、誰も生き残れない、すべての人が直ちに滅ぼされなければならないからです。
神の聖と義の前ではだれも自分を正しいと言えるものはいません。それはクリスチャンも同じです。私たちが救われるのはただ神の憐れみと十字架による贖いの故です。でもその憐れみや赦しは、罪に対するいい加減な態度ではありません。そのことを3番目に見たいと思います。
3.聖さへの招き (18:4)
このような状況の中での神のメッセージは一言、「彼女を離れよ」です。それが18章4節の言葉です。でもそれはどうすることでしょうか。そのことに触れる前にちょっとだけ横道に話がそれますが、「携挙」ということを話したいと思います。
一体、15章から18章の災い、すなわち神の怒りが下されるときにクリスチャンもその災いを共に受けるのか、それとも神様が守っていて下さるのでしょうか。この問題に関係するのが携挙という事です。携挙というのは、大艱難時代の前に教会、すなわちクリスチャンたちが、天に引き上げられる、という事です。
それがいつどのような形で、ということについてはいくつかの考え方があり、今日はそのことには触れません。ただ、携挙については聖書の他のところで教えられていることで、黙示録の中でははっきりとは示されていないということです。つまり、この黙示録に描かれている世の終わりにおいて、どの時点で携挙がおこるかは、よく分からないということです。ですから、この神の怒りの日にクリスチャンたちはそこにいるのかもしれないし、いないのかもしれない。だから、我が民よ、と神様が呼びかけているのは、この神の怒りの日か、その前かは、ここだけ呼んでいると不明瞭な部分があります。
しかし、終わりの日がいつ来るかは誰も知らない、あるいは「主の日は盗人の様にくる」ということと、神の裁きはある一部分は今すでに始まっている事を考えると、この神の呼びかけは決して世の終わりの人に対するだけでなく、本当は今の私たちに対する警告でもあるのです。
では、本題に戻って、「この女から離れよ」、つまり大バビロンから離れるとは、どういうことでしょうか。それはローマの都から逃げ出すということではありません。都会から抜け出して、田舎や無人島に住んだらば神の怒りから逃れる事ができるのではありません。たとえ、クリスチャンたちがこの社会から逃げて、自分たちだけで国を作っ
たとしても、人間である限りは、そこに罪があります。教会の中にも時にはいろいろな問題が起こることがあります。ですから、場所としてのローマから離れることで罪の問題は解決しないのです。
また世を離れることが教会の本分ではありません。むしろ、罪の世の中にあって証をし、伝道することがクリスチャンにゆだねられた使命です。
だとすると、バビロンから離れるとは、どうすることでしょうか。それは、バビロン、あるいは大淫婦によって象徴される、この世の原則、罪によって支配された価値観から離れることではないでしょうか。
日本で、神戸の幼児殺人事件のような少年犯罪があった後で、ある教室で、生徒たちがその事件について論じていたとき、ある生徒が「どうして人を殺すことが悪いのか分からない」と言ったそうです。そのとき、そこにいた大人は何故いけないかを説明できなかった。家族が悲しむから、とかいうのではなく、それは悪いことだから、と話すことができない。
そこに実はあのような事件を引き起こした社会の原則が表されているのです。神から離れ、神の義に逆らっている世の中では、悪いことは悪い、と言うことができない。見つからなければよいとか、自分のためなら何をしてもよい、ということを、たとえ直接口に出さなくても、人々はその原則に従って語り、行動している。だから善悪の区別がない時代が来ているのです。
神の言葉によって生かされていないと、たとえクリスチャンであってもそのような原則に左右されるようになるのです。それが、キリスト教国といわれたアメリカの現在の姿が示していることであり、教会の中で時には信じられないような罪が行われる理由です。ですから、罪の世の中に生きていながらも、クリスチャンは罪から離れることを肝に銘じなければならないのです。
罪から離れるとは、積極的な言い方をすれば、それは神の聖さを追い求めるということです。罪汚れのない聖なる神に従うものとして、自分も聖くしていただくことを願い求めることです。またこの世のただ中に生きながらも、超越的な聖なる神の民とされたものとして自分を聖め分かつ、確固とした生き方を目指すことです。それを求めようとしないと、知らず知らずの内に私たちはこの世の原則に身を委ねてしまうからです。
御言葉に従うとは、クリスチャンになったら自動的にできることではありません。いつも聖さを追い求め、神の方へと進み出ていくことを神は求めておられるのです。そして、そのような、神の聖を求め、罪を離れる姿勢こそが、世の終わりへの正しい備え方なのです。