2001年3月25日 ヨシュア記23、24章「主に従う決心」
序.今年の元旦礼拝でヨシュア記24:15からメッセージをしました。それ以来、このヨシュア記を順番に学んできましたが、今日でいよいよ最後です。今朝は23章と24章から「主に従う決心」ということを考えたいと思います。私たちにとりまして「主に従う」というのは、キリストを救い主として信じることに始まり、自分の主
である神様に仕えて生きること、全てを含むことです。人生の中で一度だけ、ではなく、何度か、重大な局面で、従う決心をすることがあります。そんな選択の時にどのように正しい道を選び、主に従う事ができるか、そのような事をこのヨシュア記の最後の部分から学んでいきたいと思います。
1.御言葉によって従う(23章)
主に従って生きる、といっても自分のやりたいようにしていては従うことになりません。具体的には神様の御言葉に従うことです。ヨシュア記の最初で、神様がヨシュアに「雄々しくあれ、強くあれ」と言いました。でもただ強くなれば良いのではない。神様の御言葉を行うことにおいて強くあれ、と命じています。そしてこの書の
最後でもう一度、「モーセの律法の書を守り行え」(6節)と命じています。
御言葉を守り行うということで、ここでは特にカナンの先住民族と交わってはいけないことが強調されていす。これは、単に民族的純血を守れ、ということではありません。4節、5節。イスラエルはヨシュアを通して、すでにカナンの地を全て分け与えられた。しかし、まだ彼らが追い払っていない国々が残っている。それらの国々を追い払って、神の約束通りにこの地を受け取らなければならない、という働きが彼らの前にあった、というのがこのときの状況です。以前はヨシュアが先頭に立って戦いが進められて来た。しかし、ヨシュアは歳を取った、というだけでなく、まもなく死ぬ時が近づいていました。そこで、今までヨシュアが律法に従って勝利を重ねてきたように、イスラエルにも「御言葉に従いなさい」と命じているのです。もし彼らが先住民族と妥協して交わるようになったら、この地を全て与える、という神様の約束が実現しないだけでなく、やがて彼らはカナンの偶像を拝むようになり、神様に背くようになってしまう。ですから、律法に従って生きること、特に先住民族と交わらないことが重要だった訳です。
10節から13節。ここに出てきますのは、「もし神様に従い、律法を守るなら、敵に勝利し、祝福される。しかし、もし神様に逆らって偶像を拝み律法を破るなら、敵に負けるだけでなく、敵と共に滅びることになる」という、「祝福とのろい」の神学と言われることです。この祝福と呪いということは旧約聖書全体にも見られますが、その中でも律法と呼ばれる最初の5書、特にその中でも申命記の中に色濃く書かれていることです。新約聖書では、「罪の中に生きるなら永遠の滅びがあるが、キリストを信じるなら永遠の命がある」という表現に変わって行きますが、根本的には時代が変わっても真理です。
この「神様に従うなら祝福、逆らうなら呪い」という言い方は、何だかどぎつい感じがして、余りなじめない気がします。これは文化的違いで、ヘブル的思考では祝福を先に語り、呪いを後から語ることで、事の重要性を訴えるのですが、現代の私たち、特に日本的発想では、「こうしたら呪いがあるけど、こうしたら祝福がある」といって、後に祝福を持ってくることで、印象を和らげる傾向があります。これは多分、いやなことは聞きたくないという人間の心から来ているのではないかと思います。
でも、いくら良い所だけ見ようとしても、神様の御言葉を学んでいきますと、やがて御言葉自身が選択を迫ってくる事があります。第三者として離れて見るのではなく、神様の言葉の前に立つときに、自然と従うかどうかが問われるようになるのです。確かに御言葉は真理を語っている、素晴らしい事が書かれている、では、自分はどうなのか。そう考えたとき、一体自分は神の御言葉に従って生きるか否かを決めなければ落ち着かない訳です。聖書を読み始めると、最初は「良いことが書いてあるな」と思うだけです。しかし、やがて聖書の光に照らされて自分の問題が、罪が、見えてくる。そうすると、救いの御言葉を信じるかどうか、という決断が迫られてくるのです。
ですから、神様に従う決心は、例え誰かから強制されなくても、聖書を学んでいくならば必ず自分で決断する時がくることなのです。そういう意味で、御言葉によって決心がなされるわけです。
さて、御言葉は真理である、というのは科学的事実とか数学の命題のような冷たいものではなく、その言葉を語っておられる神様ご自身が真実なお方だからです。そして、この背後におられるお方は愛に満ちた神様です。そのことを2番目に見ていきます。
2.恵みに基づいて従う(24:2−13)
2節からヨシュアは、アブラハムに始まるイスラエルの救いの歴史について語ります。神様からの直接の言葉として語っているのですが、一つの事に気が付きます。
それはイスラエルの罪に関しては書かれていない、ということです。もちろん、長い歴史を短く要約したからでもありますが、例えば40年間荒野をさまよったことが彼らの不従順のためであったことは省かれています。これは別に汚い事は隠す、といった事ではなく、彼らの罪でさえ神様は赦して下さったのであり、神様の目には、それらの罪は無くなったものとして見ていて下さる、ということだと思います。
この、罪の赦しという神様の愛、また全てを益にして下さる恵みが、救いの歴史を貫いていることなのです。
御言葉に従うことは、この背後におられる神様の恵み抜きには出来ないことです。御言葉は真理だから信じなさい、だけでは、人間は信じることは出来ないのです。しかし、その言葉を語っておられるお方が愛の神、恵みのお方であることを知ったとき、確かに御言葉には難しいこともある、でもこの神様だったら信頼できる、のではないでしょうか。
「従う決意」と言っても、自分だけで悩んでいてはなかなか決心出来ないことがあります。でも、神様に目を向けるなら一歩進むことが出来ます。私たちのために御子をも惜しまず与えて下さり、逆らっていた私たちの罪を赦すために十字架に付けて下さった。この神様の愛を見つめるなら、自分の力や知識、経験によってではなく、神様を信頼して従うことができるのです。私たちの決意は、その土台は神様の恵みにあるのです。
さて、御言葉に従うことの大切さを学び、神様の恵みの歴史を振り返ったイスラエルは、自ら進んで神様に従う決意をしたのでしょうか。実はもう一つありました。それは、彼らが決意しやすいように神様が働いて下さった、ということです。
3.神様からの決意(24:14−27)
15節。ヨシュアはまず、彼らに神様と偶像のどちらを選ぶか、と選択を与えます。もちろん、信仰は強制では無く自分で選ぶ自由があるのですが、でもだからと言って間違った方を選んでは大変です。ヨシュアはイスラエルの民が正しい決心をすることができるように配慮します。「祝福と呪い」の神学を教えられ、また神様の救いと恵みを歴史を振り返させられた後で、それでも偶像を選ぶとは、普通は言いません。ですから民は「私たちも主に仕えます」と告白しました。ところが19節。ヨシュアは「良く決意した」とは言わず、「いや、出来ないね」と、わざと否定します。人間の心理として、こう言われると意地になります。21節、「いいえ、私たちは主に仕えます。」 さらにヨシュアは、証人という言葉を22節で使い、彼らの言葉が一時的な感情ではなく、翻すことのできない言葉であることを自覚させます。こうしてイスラエルは3回、これは聖書の中では完全数として、物事を大変強く強調することですが、3回も「主に従う」という決意を述べました。
こういったやりとりというのは、一歩間違えると誘導尋問とか、ひどい場合はマインドコントロールになる危険性もあります。しかし、ここで選択を迫られた民は、突然に神様のことを聞いたのではなく、これまでも学び続け、様々な経験をしてきた。ですから、このような決心をするのが当然、といった時です。それでも、ヨシュアの助けが無ければ、このような決意をするのは難しかった。それが人間の難しさです。神様は私たちの強情な心をご存じですので、様々な助けを送って下さり、私たちが信じ、決心し、従うことができるように計らって下さるのです。
まとめ. 皆さんが信仰に入った時も、色々な助けがあったと思います。中には自分では知らない助けもあったかもしれませんし、覚えている助けもあったでしょう。信じやすいように状況を整えて下さったり、背中を押す人や出来事があったりします。それら一つ一つは神様の愛の配慮だったのです。ですから、もし何か信仰の決断をしなければならないと感じたら、神様がそのように迫っていて下さるのです。だから、大胆に神様に従う決意をしようではありませんか。