キリスト者の霊的祝福シリーズ
● 「キリストと共に生きる人生」
●聖書朗読―コロサイ3:1−4
● メッセージテキスト―コロサイ3:5~4:1
● 「キリストによって人間は本来あるべき姿に回復させられる。」
1. 個人的側面:神のかたちの回復(3:5~11)
2.社会的側面:神の共同体の回復(3:12~17)
3.機能的側面:神の奉仕の回復(3:18~4:1)
<序論>
私の住んでいる部屋のクローゼットには長年着る事の出来ないでいる三つ揃えの
ピンストライプのネイビースーツがあります。アメリカに来る前に働いていた時に
作ったスーツですが、この10年間で最もやせている時にカスタムメイドで作ったもの
で、とても気に入っているのですが、なぜか入りません。結婚して最近は以前よりは
だいぶやせてきまして、以前着ていたスーツの中にも入るものが増えてきたのです
が、このスリーピースだけはまだきついのです。で、時々そのスーツを出してきて、
こうやって、はいてみたりする。ズボンは入るがベストがきつい。うーん、ここのと
ころの肉がまだ多いな。もっとやせなくちゃ。とにかく新しいのを買うお金はないの
で、体の方をスーツにあわせるしかない訳です。ですから、わたしにとっては、この
スーツが格好よく着ることの出来る自分こそが、自分の「本来あるべき姿」であり、
その本来の自分を取り戻すためには、かなりの苦しみを経なければならないのです。
そう、ダイエット。自分の本来有るべき姿はこんなデブじゃない。このおなかの肉は
本来の自分にあってはならないものだ。そう思いながら、食べるのを控えたり、腹筋
をしたりする訳です。
このように、私たちは、時々、自分の「本来あるべき姿」を目指して生きる事が
ありますが、この問題も、もし本来の自分の姿をデブとすれば、デブでも何も問題あ
りません。自分のアイデンティティはデブ。そう思っていれば、おなかの肉もかわい
くなる。ですから、デブである事は、ある人にとっては本来あるべき姿でないかもし
れませんが、必ずしもみんなにとってそうであるという訳ではありません。デブが
みっともないというのはこの社会の文化が決める事で、わたしの場合ですと、経済的
な理由によってデブはいけないということになる訳ですが、デブがかわいいという文
化では、デブで何が悪い、いやデブでよかったということになるわけです。
しかし、そのように言い悪いの基準を主観的に、もしくは相対的に決める事ので
きる事柄ならまだいいのです。僕はその最もやせていた時に作ったネイビースーツを
着る時にだけ自分がデブであると悟ります。
昨年の9月頃に日本からやってきた僕の友人の奥さんが、「三好さん。日本で見た時
にはこんなに太っててもうどうしょうもないわと思ってたけど、アメリカで見たらや
せてる。うん、大丈夫やよ。」とおっしゃいました。そう、つまり、アメリカでは僕
より太っている人が街に溢れているので、僕は太っている事にはならい。つまり、基
準が違う訳です。
ところが、神が定められた「人間の本体有るべき姿」の基準というのは、文化に
よって変わったりしません。どこへいっても、いつの時代でも、「人間の本来有るべ
き姿」というのは変わらないのです。そして、私たち人間は、この「本来有るべき
姿」を失った状態でこの地上に生まれてきます。それを、聖書は罪といっているので
す。そして、聖書は、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死んだといい
ます。キリストを信じるならば、キリストと共に罪に死んで、よみがえると約束して
います。コロサイ人への手紙3章1節には、キリスト者はキリストと共によみがえらさ
れたと書かれているのです。つまり、キリストを信じる信仰によって、私たちキリス
ト者のうちに、「人間の本来有るべき姿」が回復させられるという神様の素晴らしい
御業を経験させらると聖書は約束しているのです。
今朝は、コロサイ人への手紙3章5節から4章1節のところより、キリストと共に死
んでよみがえる時、私達のうちにどのような「本来有るべき姿」が回復させられるの
か、キリストと共に生きる人生に現される3つの回復についてお話させて頂きます。
1.神のかたちの回復。
まず第一番目には、神のかたちの回復という事です。3章9節、10節を共にお読み
いたしましょう。さんはい。
旧約聖書の創世記には、天地の創造主である神が、ご自分のかたちに似せて人間
を創造したということが書かれています。それは何のためかといいますと、人間がこ
の地上の世界で創造主の代理人として、神のみこころを正しく知って、それを行なう
事で、神の作られたこの世界を正しく管理するためでした。神はこの世界からは何も
おうけになりません。受けるのは被造物による礼拝だけです。人間の作った会社な
ら、そのオーナーはその会社から利益を受けます。経営を任された人はその会社の
オーナーが利益を受ける事が出来るように会社を管理しなければなりません。しか
し、この世界のオーナーである神様は、この世界が神のみこころに沿って運営され、
管理されていく事、そして、被造物の手によって神が礼拝される事だけを求めておら
れるのです。
ですから、人間の本来有るべき姿は、創造主のみこころを求め、神を礼拝する存
在であるということになる訳です。しかし、人間は、その本来有るべき姿ではなく、
偶像礼拝者となってしまったのです。5節を一緒に読んでみましょう。人間はこの世
界の管理者であるのに、この世界の所有者になろうとしたのです。それがむさぼりと
いうものです。貪欲というやつです。そして、それは偶像礼拝なのです。人間は何一
つ自分のものを持っていません。私たちが一見所有しているかのように見えるこの人
生のすべては、神のものです。にもかかわらず、人間は、それらのものを所有者であ
る神を礼拝するためではなく、自分のために用いるのです。そのこころの中心に来る
ものが、むさぼりであるといっている訳です。そして、そのようなものの上に神の怒
りが下るといっています。
パウロはここで、コロサイの教会のキリスト者たちに、クリスチャンになる前
は、みなさんはそのようなむさぼりの生活をしていた、しかし、8節に、今は、全て
これらの事、すなわち、怒り、憤り、悪意、そして、あなたがたの口から出る恥ずべ
き言葉を捨ててしまいなさい。と命じているのです。ここで、5節にある、不品行、
汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりというのは、心の態度を現しています。そし
て、8節にある、怒り、憤り、悪意、口から出る恥ずべき言葉は、そのこころの態度
が、人間関係にもたらすものです。ですから、いつも怒っている人、憤っている人、
人を中傷する人、つまり、心に喜びのない人、平安のない人というのは貪欲な人であ
るという事が出来ます。神に信頼を置けないために、自分で何事も支配しようとす
る。むさぼりがうまくいかないとすぐに怒ってしまう。そういう人というのは、多く
の場合、自己を確立できていない人です。偶像礼拝者というのは、むさぼりによっ
て、自分のアイデンティティを確立しようとします。それは人間の本来有るべき姿で
はありません。日本の女子高生の援助交際も、サラリーマンの仕事中毒も、その根本
は同じです。それはむさぼりです。創造主を礼拝する事によってではなく、被造物を
むさぼる事によって自分が何者であるのかを確認しようとしているのです。
ところが、問題は私たちがクリスチャンでありながら、むさぼりの生活から解放
されていないということです。怒りというのは、期待が裏切られた時に出てくる感情
だそうです。つまり、根本の問題は、つまるところ私たちが何に期待しているのかと
いう事に他ならないのです。ある人は信頼していた人に裏切られたかもしれない。あ
る人は教会に裏切られたかもしれない。ある人は自分自身に裏切られたかもしれな
い。そういった経験が私たちの中に怒りを呼び起こすのです。しかし、怒りにして
も、憤りにしても、悪意や中傷というものは、神を礼拝する事の反対側にあることで
あり、偶像礼拝なのです。徹底的に神だけにに期待していれば、そのような感情は出
てこないからです。むさぼりの反対は自己犠牲であり、それはキリストの十字架に現
されたものです。キリストと共に生きるということは、キリストと共に死ぬというこ
とがなければ有り得ないのはそのためです。つまり、怒りや憤り、悪意や中傷という
のは不信仰の現われであるという事になります。
例えば、私たちはアメリカの郊外に住んでいると、車にかなり依存して生活して
います。しかし、このいつもお世話になっている車も、それが故障すると、たいへん
な邪魔物になります。何だこのポンコツという怒りが湧き出てきます。私たち夫婦は
今週の木曜日にここでの祈祷会の後、車に乗って家路を急いでいました。ところが、
何か変な音がするなと思っていたら、突然がたがたといって、わたしはすぐに、これ
はフラットタイヤだとわかったので、車を右に寄せて、スペアタイヤに付け替えよう
としました。ところが、一本のネジがえらく堅くて、なかなかまわりません。ついに
まわったと思ったら、何と、そのネジごとぽきっと取れてしまったのです。僕の力が
強すぎたのか、車が安物なのか、鉄のボルトがなんでそんなに簡単に折れるんだと思
いました。で、その夜はとにかくスペアを付けて、家に帰って、次の朝一番で、行き
付けの修理屋に持っていきました。修理屋のおじさんは部品を探してくれて、タイヤ
を付け替えてくれようとしたのですが、ブレーキがもうだいぶ薄くなってもう換える
時期だというのです。そこで、ブレーキもついでに直してくださいとお願いすると、
片方のタイヤを取り外そうとすると、今度はそっちのボルトも2つ折れてしまいまし
た。つまり、そのボルトも、ブレーキも交換の時期で、もしそのまま放っておいた
り、ボルトが2つ折れた方がパンクにあったりすると、もっとややこしい事になって
いた可能性があるのです。しかも、本来ならば、その日はある友人を連れシカゴ大学
の方までいく予定だったのが急遽キャンセルになっていて、全て守られたわけです。
もちろん、パンクしなければそれに越した事はないのでしょう。しかし、わたし
たちは人生の問題に直面する時に、むさぼりによって、怒りや憤りを持ってその問題
を対処するか、それとも、立ち止まって創造主を礼拝し、平安の内に創造主の似姿に
変えられていく事を求めるか、大きな岐路にたたされるのです。その時、誰かを悪者
にして、誰も悪者に出来ないので神様を悪者にして怒るなら、それはむさぼりであ
り、偶像礼拝です。パンクした時、僕が妻の久仁恵に、「お前がちゃんと見てないか
らだ。」と言ったとしたら、それは久仁恵に対するむさぼりです。他人を利用しよう
とする事であるからです。たとえ本当にその人が悪くても、そのような時に憤りを捨
てて、怒りを捨てて、創造主である神のご支配を信じ、喜びと平安を与えてください
と祈るなら、神はご自分の姿に少し似せてくださり、また神をよく知るようになるの
です。
しかし、ここで注意が必要なのは、パウロはクリスチャンの間で怒りや憤りを押
え込むことをすすめているではないということです。いやむしろそれは禁じられてい
るのです。9節に、互いに偽りを言ってはいけませんとあります。心の底に一物もち
ながら、一生懸命に怒りや憤りや悪意を抑えなさいといっているのではないのです。
もちろん、それを乱暴なかたちではき出せといっているのでもない。そうではなく
て、その怒りや憤りや悪意、口から出る恥ずべき言葉の全ての源は古い人に属するも
ので、十字架につけられるべき性質のものです。ですから、怒りや憤りや悪意を押え
込むのではなく、発散するのでもなく、それらを十字架につけるのです。その怒りや
憤りや悪意から私たちを解放するために、主は十字架にかかってくださったのです。
ですから、そのような怒り、憤り、悪意、中傷といったたぐいの感情や言動は、毎日
のように悔い改める必要があります。私たちは私たちの力でそれらを捨て去る事は不
可能なのです。悔い改めた後、「主よ、この怒りは十字架につけられました。」と宣
言してください。そのようにして、主キリストと共に生きていく時に、私たち人間が
もともと創造主によって創造された、神のかたちが私たちの内に回復させられていく
のです。
2.神の共同体の回復。
私たちの本来有るべき姿の第2つめは、神の共同体という事です。私たち人間の社
会は、この神の共同体を本質的に失っているのです。14,15節をお読みいたしましょ
う。さんはい。ここで、パウロは、キリストの平和が私たちの心を支配するために私
たちは一体となったと言っています。ここでの平和というのは、私たち一人一人の内
にある平和という事というよりは、むしろ、教会の中の平和、すなわち、キリスト者
同志の平和という事をさしています。私たちキリスト者は、一つのからだとなるよう
に召されているというわけです。しかし、ここで重要な事は、この平和が、表面的な
一致や、形式的な一致を指しているのではないということです。なぜなら、キリスト
の平和は一人一人の心を支配するものであり、心は形式によっては完全に強制できな
いからです。
ここで言うキリストの平和とは何でしょうか?それはキリストの十字架による赦し
にもとづくものです。クリスチャンにとってこれは大きなチャレンジであり、恵みで
す。私たちは、未信者に対しては結構赦す事が出来ます。キリストの十字架の救いを
知らない人に対しては、比較的寛大な態度をとることが出来るのです。でも、同じク
リスチャンに対しては大変厳しい目を持っています。しかし、ここでは、クリスチャ
ンは互いに赦し合いなさいと書かれているのですから、赦さなければならないので
す。ですから、クリスチャンがもし責められるとしたら、それは赦さない時なので
す。
ところが、ここで大切なのは、「赦す」という事が泣き寝入りをするということ
ではないという事です。真理を曲げるという事でもない。なぜなら、赦すというの
は、相手が罪を認めた時にはじめて発生する出来事なんです。ここに、「主があなた
がたを赦してくださったように。」とありますが、主は、私たちが悔い改めるならば
いつでもわたしたち赦して下さる。しかし、私たちが自分は悪くないと言い張ってい
たなら、そもそも赦しは成り立たないのです。日本人は、人間関係のコンフリクトを
避けるために、問題を明らかにしない傾向にあります。しかし、コンフリクトを避け
るために問題を明かにしないというのは、「赦す」ということにはならない。それは、
逆に一生赦さないという深い恨みに代わる可能性のあるものです。16節には、キリス
トの言葉をあなたがたの内に豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒
め、とあります。もしもみなさんがキリスト者として認めているその人が自分を傷つ
けたなら、その人にそのことをはっきりいって、それをキリストにあって赦すと相手
に伝えるべきです。感謝の心を持って、全ては主イエスの名によってなしなさいとあ
るように、愛を持ってそのことを伝えるべきなのです。相手が本当にキリストの平和
を求める人であるならば、自分が誰かを傷つけているということをそのまま放ってお
く事は出来ないはずです。
もしかしたら、自分を傷付けた相手にそのことを伝えないのは、本当は赦したく
ないからかもしれません。自分はあなたによってこんなに傷つきました。だから赦し
ません。と言う事はクリスチャンにはなかなかできにくい事です。ですから、自分が
傷ついたということを伝えるということは、赦すということを前提にする事になりま
す。もちろん、相手がそのことを認めないで逃げるという事もあります。残念ながら
日本の社会では立場の上の人ほどそのような傾向が強いようです。しかし、教会の指
導者でそのような態度を採る人がいれば、その人は十字架の救いがわかっていないと
いうことになります。ですから、その人のことを指導者であると無理に考える必要は
ないと思います。しかし、それでも、聖書のその人を赦しなさいという命令は代わり
ません。そのときこそ、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけるチャンス
なのです。そして、もし私たちが成熟したクリスチャンとなる事を目指すのなら、尚
その人たちを愛すべきです。
私自身はこの半年以上もの間、日本のある方に自分が傷つけられたと
いうことを相手に伝えるべきかどうか迷っていました。そして、ただ何も言わず黙っ
て赦そうと祈り、主の前に知恵を求めていました。しかし、どうしても自分の中で赦
す事が出来ず、本当に惨めでした。逆にこの赦しなさいという事が自分に大きくのし
かかってきて、どうして自分がこれほど苦しまなければならないのだろうとずーっと
悩んでいました。しかし、16節にはキリストの言葉を、あなたがたの内に豊かに住ま
わせ、互いに教え、互いに教えとあります。結局、誰かの権威や教会の言葉ではな
く、キリストの言葉によって、真理を明らかにする事を求めるべきであると導かれ、
相手を赦すということが、真理に基づくものであるということをはっきりと示された
のです。できるだけ愛を持って書くために、その手紙はまだ出してないのですが、し
かし、このみことばによって、わたしの中に平安がやってきました。そして、父なる
神への感謝が溢れてきます。
もし、みなさんの中で僕に傷つけられたという人がいたなら、愛を持ってどうぞ
教えて下さい。そして赦して下さい。真理をまげてほんとうの赦しは有り得ないから
です。クリスチャンに強がりは不要です。キリストの十字架の赦しを信じていると告
白しているものにふさわしく、真理に基づいて互いに赦し合いましょう。その時、こ
の世の中には存在しない、神の共同体が教会の中に回復させられるのです。教会は教
会であるということで自動的に神の共同体なのではありません。キリストの平和が支
配する時にそこが神の共同体となるのです。さもなければ、そこは単なる宗教クラブ
に過ぎない。表面的な一致や形式ではなく、キリストの十字架によってのみもたらさ
れるキリストの平和によって教会は一つのからだとなるのです。そして、それはキリ
ストの言葉に基づくのです。
3.神の奉仕の回復
ですから、人間の本来有るべき姿は、まず第一に神のかたちの回復、次に神の共
同体の回復というかたちでなされます。そして、3番目には、それは、神の奉仕の回
復というかたちでなされます。3章18節から4章1節までのところには、クリスチャン
の人間関係について書かれています。ここでの人間関係というのは、牧師と信者と
か、未信者と伝道者というような、教会のコンテクストでの人間関係ではなく、夫と
妻、親と子、奴隷と主人とあるように、毎日の生活の中における普通の人間関係なの
です。自分のむさぼりを十字架につけて神のかたちを回復させられ、互いに赦し合う
ことで神の共同体を経験していきます。そして、そのような神のかたち、神の共同体
をベースにしながら、クリスチャンは毎日のふつうの生活で神への奉仕に召されてい
くのです。
例えば、妻にとっては、夫に従う事は神への奉仕であり、夫にとっては、妻を愛
し、辛くあたらないことが神への奉仕なのです。子供達にとっては両親に従う事が、
父親にとっては子供達を励ます事が神への奉仕なのです。奴隷への命令は長いのです
が、主に仕えるように地上の主人に仕えなさいとあり、主人にとっては奴隷を正義と
公正を持って扱う事が神への奉仕であるということになります。
ここで重要なのは、17節にある言葉です。またごいっしょにお読みいたしましょ
う。さんはい。私たちのなかに神のかたちがキリストによってもう一度形作られ、私
たちの教会がキリストの平和によって支配され、神の共同体となっていかなければ、
全てを主イエスの名によってなしたり、父なる神に感謝するというのは不可能です。
例えば妻が夫に従うということは、主にあるものにふさわしいとあります。では、ク
リスチャンでない妻は夫に従わないかといえば、必ずしもそうではありません。文化
がそれを奨励しているという場合もあります。日本の伝統的な文化の中では、儒教的
な考えの影響で、妻が夫に従うのは美徳であるとされてきました。ここで、文化的な
意味で妻が夫に従うといった場合には、妻が夫よりも劣っているということを暗に意
味する事があります。ここには、男性中心の社会倫理が反映されてまして、夫と妻は
上下関係になる訳です。パウロはここで、そのような夫と妻の上下関係がクリスチャ
ンとしてふさわしいということを言っているのではないのです。もし妻が夫に従うの
がそのような上下関係に基づくのであれば、現代のような男女平等の社会では、妻は
夫に従う必要はなくなります。しかし、ここでは、そのような夫と妻の上下関係の事
をいっているのではなく、主にあって妻は夫に従うべきであるといっているのです。
文化がそういうからとか、しょうがないからというのではなくて、妻が夫に従う時、
そこにキリストの十字架に示された自己犠牲を現すものであるからです。いっぽう、
同様に、夫が妻を愛するのは、やはり十字架の道なのです。自分をコントロールし、
妻につらくあたらない。妻を大切にするというのは、夫にとって日々負うべき十字架
なのです。そして、このことは、自分自身のむさぼりを十字架につけ、互いに赦し合
うということ抜きには実現しないことであり、ここで示されている家庭生活や職場で
の生活
でこそ、クリスチャンは十字架を経験していくのです。
ビジネスマンが上司に仕えるのは主に仕えるためであり、自分の身を守るためで
はありません。給料や出世を気にして上司に仕えるのは、真心から仕えている事には
なりません。ある意味で、本当に真心から上司に仕える事が出来るのはクリスチャン
だけであるともいえます。クリスチャンの経営者は法律で裁かれるから従業員を大切
にするのではありません。そうではなく、会社は主のものであり、会社の経営を通し
て主に仕えているからです。
ですから、クリスチャンの神への奉仕の場は、私たちの家庭生活や職場での生活
にこそ与えられているのです。しかし、そこは必ずしもクリスチャンばかりの世界で
はありません。いや、むしろまわりは未信者ばかりの生活である事が多いわけです。
ですから、未信者の相手に、自分と同じ基準で行動する事は期待できません。未信者
の夫に対して、クリスチャンの妻はやはり従うように命じられていますが、夫は妻を
愛する様には命じられていないのです。自分は真心から上司に仕えていても、上司は
とんでもない人かもしれません。私たちはそのような中に遣わされて主への奉仕をす
るように召されているのです。 私たちはこの世界を神のみこころに従って管理
し、祝福するという神の奉仕をになっています。それは、毎日の家庭生活や職場での
生活によって日々なされるべき働きです。それらは全て主イエスの御名によってなさ
れ、父なる神を賛美するものなのです。
<結論>
ところが、もし教会がキリストの平和によって支配されず、神の共同体となって
いなければ、私たちはそのような奉仕に独りで出て行かなければならなくなってしま
います。ある意味で、クリスチャンが世の中で証し人となれないのは、教会がキリス
トの平和によって支配されていないからなのです。ですから、教会は単なる奉仕の場
であってはならないのです。教会は教会の発展や成長のために存在しているのではな
いからです。そこは無条件に受け入れられる場でなくてはなりません。むしろ、教会
で励まされ、養われて、愛されているからこそ、わたしたちは日々の生活の中で神の
奉仕をになっていく事が出来るのです。教会の中で互いに教えあい、戒めあい、愛し
合い、赦し合う事によって、私たちはキリストの証人となるのです。今日、多くのク
リスチャンが教会への奉仕や献身といったものによって自分の信仰生活を意味付けて
います。しかし、それはともすると、救いの確信のない、不安定な状態を表わしてい
るに過ぎないということがしばしば見られます。極端に言えばそれはむさぼりであ
り、偶像礼拝なのです。あたかも奉仕によって救われるかのような、救われる以前の
ような信仰生活に陥ってしまうのです。しかし、それは教会の本来有るべき姿ではあ
りません。
わたしがインタビューしたクリスチャンのサラリーマンの中に、こういう人がい
らっしゃいました。自分は学生時代には奉仕もたくさん出来たし、教会で過ごす時間
もたくさんあった。でも、会社に入って仕事が忙しくなるとだんだん教会の奉仕が出
来なくなって、自分の教会の中でのアイデンティティが失われていくような感じがし
てきた。でも、ある時、礼拝の中で、自分がクリスチャンであるという事の原点とい
うのはこの礼拝にあるということを教えられ、自分の奉仕は会社での仕事を主のため
にすることであると悟ったそうです。神のかたちを回復させられ、神の共同体によっ
て養われる時、人生の大部分を過ごす家庭生活と職場での生活は、神の奉仕の場とな
るのです。神が私たちを通してそこで働いて下さるのです。
今しばらくの間、静まって、まず、私たちの心のむさぼりを十字架につけましょ
う。私たちが今心を支配しているもの、第一としているものを見つけ出し、主にお委
ねして下さい。そして、主にある兄弟姉妹との人間関係の中で、うまく行っていな
い、赦せない、そのようなものがもしあるならば、今週そのことを取り扱って頂くよ
うにお祈りいたしましょう。主の言葉が与えられるようにお祈りしましょう。そし
て、今週一週間の家庭生活と職場での生活、学生であれば学校生活を主にささげて下
さい。そこが神の奉仕の場となりように、お祈りしましょう。
<祝福の祈り>