2000年3月18日 王室の結婚披露宴 コロサイ人への手紙 3章

本日、私達は王室の結婚披露宴に招かれています。 既に結婚している人には、この披露宴は心より楽しめるものだと思いますが、まだ独身の人には、これから来る最高の食事の一つを味わえる良い機会となるものと思います。  結婚している牧師として、私は、「結婚と家族というのは、神が人間のために造って下さった最高の制度である」と、神の恵みにより言い続けています。 天地創造の6日目に、神は人間をご自身のかたちに造られました。 神は人間を男と女に造られ、彼らに増えるように言われました。 7日目に神は休まれ、その日を礼拝のための聖なる日とされました。 聖さというのは、神が人間に望まれていることです。 天地創造のここに、私達の聖なる結婚の原点があるのです。  今日、もしあなたがたった一つのことを発見しさえすれば、この結婚という制度の中で、神の奥義・知恵を見つけることができると思います。

創造されてすぐ、アダムとイブは服を着ていませんでした。 でも、彼らは自分達が裸であることを認めなかった。 神のかたちに造られ、彼らはお互いの中に、ただ、神の清さの栄光の光だけを見ていたようです。 彼らは完璧な調和の中に生きていた。 罪に堕落した後、彼らはお互いが裸であることを認め、相手の態度を罪に定め、裁き会うことにより、戦いが始まりました。 相手の誤りを見て、なじったり責めたりすることは、罪にまみれた人間のやる、当たり前のこととなりました。 パウロはガラテヤ人への手紙、5:15でこのように言っています。 「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。」 この絶え間ない争いが、今日の、神のない、賢くない結婚へとつながっているのですが、神は私達のために、神の結婚披露宴の場に、その解決を用意して下さっています。 では、共に、その解決を探しに披露宴へと出かけましょう。

今日でもまだ、夫と妻は愛によって、結び会わされています。 そこには柔和さとあわれみが共に無くてはなりません。 妻は、従順な態度で夫と共に働く、夫にとっての最高の助け手です。 夫は、妻をリードし、妻とかたく結び合うのです。 この結び合うという言葉は、のりのようにくっつくことを表し、神の純粋な愛、特に墜ちた罪深い人間への神のあわれみだけがそれを可能にします。 それ故、私達クリスチャンの夫は、愛を持って妻をリードし、キリストが教会を愛したように妻を愛し、神の前に清く、責められるところのないものとして、彼女を立たせなくてはなりません。 私達は、キリストが教会にしたように、妻を養い、大切にするようにいわれています。 養うとは、食べ物を与えること、でもただの食べ物ではなくて、もっと重要な霊的な食べ物を与えるということです。 大切にするとは、妻の高い価値ある存在として取り扱うことです。 神様は、「妻を見つけた男は良いものを見つけたのです。」と言っています。 これらは重要な命令で、そのために花婿は健康的な料理メニューを整えなければなりません。 本日、私は聖書箇所をコロサイ人の手紙から選びました。 鍵となる箇所は、3章1−4節です。 ここはこの書全体の一種のまとめとなっているところです。

「もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。」 聖書を学ぶ上で、私にとってとても助けとなったのは、自分がクリスチャンとして、どのくらい成熟しているかを、聖書の中で見つけだすことでした。 どのようなライフスタイルが教えられているか、どのようにそのような態度を自分の生活の中で確立していくかといった事柄です。 自分の霊的に成熟してきた軌跡をたどるように、その成長のチャートをよく観察してみて下さい。 霊的な成長は、子供から成熟した大人に至る自然な成長と同じような軌跡をたどっていることに注意して下さい。 左側は自分に対して死んでいる状態、右側は他人のために生きている状態、すなわち、「神を愛し、自分の隣人を自分自身のように愛している」状態を表しています。 より神を愛せば、より他人を愛するようになります。 私達は信仰において成長し続けなくてはなりません。

「上にあるものを求め続けなさい。」 私達は十字架のいちばん右を目指し進んでいくのです。それは私達の隣人をいかにして愛すかを学ぶことです。 この学びは、信仰深い・忠実な人々を対象としています。 この手紙の挨拶の部分を思い出して下さい。 パウロはいつも通り聖徒達に向けてこの手紙を書いていますが、付け加えて、忠実な兄弟達へと書いています。 激しい苦しみが来ると、多くの人がその道を捨ててしまいますが、忠実なものは、それでも他人を愛することを求めて、イエスさまと共に歩み続けます。 「求め続ける」というのが、コロサイ人への手紙の鍵です。 神様は、私達が上にあるものを求め続けるライフスタイルを望んでおられます。 上にあるものとは、イエスさまがどういう方なのかということを、すなわち、イエスさま自身を勝利に満ちたものと為しているそのイエスさまの性質を求め続けることを示唆しているのです。

さて、いま、私達は王室の結婚披露宴に列席しています。 ユダヤの結婚式では、花婿に皆の注目が当たります。 詩篇19編を見てみましょう。 ダビデ王は、神の呼び声が全ての創造物に響きわたったとして、太陽をその例として挙げています。 「しかし、その呼び声は全地に響きわたり、そのことばは、地の果てまで届いた。 神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。 勇士のように、その走路を喜び走る。」 (詩篇19:4−5) 輝かしい花婿は、まさに勇士のように、その走路を勝利に向けて走りださんとしています。 選ばれた花嫁は、華やかなドレスに身を包み、彼をたたえるために花婿に出会います。 しかし、成長のチャートで、このあとに何が続くかちょっと見てください。 新しく結婚したカップルに待ち受けるのは、調整の時です。 彼らはまだ、待ち受ける多くの苦しみ、清い愛に溢れる結婚生活をもたらすため、罪に打ち勝っていく過程で味わう、その苦しみに対して、目隠しされているのです。

なぜ、今日、私はこの主題を選んだのでしょうか? それは、わたしが、結婚関係ほど、クリスチャンの人間関係の中で、その最も重要な問題を赤裸々に顕わすものはないと信じるからです。 私達の多くにとって、結婚は人生の大きなかなめとなる出来事の一つです。 結婚は私達の信仰のテストです。 今日、結婚とは世界中でもっとも難しいものとなって来ているように見えます。 離婚率は跳ね上がり、なんとクリスチャンもその例外ではないのです。 アダムとイブのように、私達もよく、危機的状況に直面するとき、間違いを犯します。 しかし、もし私達が聖書に注意深く学べば、神様は私達を神にある結婚へと導いて下さいます。 神にある結婚を手に入れれば、私達は神にある家族をもつこと期待できるし、それらを持てば、神にある、実をたくさん結ぶミニストリーをしていくことを期待できます。 ですから、今日、私は、聖書から、結婚関係において清い結びつきを始めることができるように、最高のメニューを選びました。 もちろん、これらの教訓を他の人間関係に応用することもできます。 それでは、いよいよ披露宴へと移りましょう。

コロサイ人への手紙の中心は、教会のかしらであり、花婿である栄光に輝くイエスさまです。 それが、この手紙の中で、どのように組み立てられているか見てみましょう。 1章の導入部分では、まず、そのための準備が為されています。 誰に向かってこの手紙は差し出されているのでしょう? 6節から、コンスタントに実を結んでいる健全な成長過程にある教会に宛てていることがわかります。 5節では、3つの恵み、すなわち信仰・希望・愛のうち、希望がその中心です。 希望はイエスさまの信仰が試されたときと関連させられています。 希望は私達の人生において、私達を前へ前へと進める原動力になります。 私達はみんな、27節にある、私達の中におられるキリスト、栄光の望みのことを聞きました。 その希望は、多くの厳しい試練に堪え忍ぶことを通してやってきます。 私達はあまりにもよく、途中で諦めてしまって、昔の古い生き方へと戻っていってしまいます。 ですから、パウロは2章で人間のむなしい哲学や、人の言い伝えに戻ってしまって、かしらであるイエスさまの奥義・知恵に焦点を合わせるのをやめてしまうことを警告しているのです。

それゆえ、パウロはこの教会のために、そのかしらに属することに神経を集中し続けることができるようにと祈っているのです。 身体に対してかしら、頭というと、どんな言葉が浮かんでくるでしょうか? 知恵とか理解とか知識などの言葉が浮かんできます。 私達は、神の意志は何であるかを知ることに励まなくてはなりません。 1章9−10節、「こういうわけで、私達はそのことを聞いた日から、耐えずあなたがたの為に祈り求めています。 どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。 また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。」 2章2−3節、「それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。 このキリストのうちに、知恵と知識との宝が全て隠されているのです。」 鍵となるのは、全ての霊的な知恵と理解において、知識が増し加えられることです。 エペソ人への手紙では、身体の働きについて語られているのに対し、コロサイ人への手紙では、かしらとしてのイエスさまの知恵を追い求めることが強調されています。 イエスさまは、私達が信仰によって付き従っていく、いわば、スーパーコーチのような存在なのです。

ちょっとこの関係を、マイケルジョーダンが居た頃の有名なバスケットボールチーム、ブルズでたとえてみましょう。 ジョーダンがいて、ブルズは立て続けに5回チャンピオンシップを制しました。 そして、1年間彼が居なかったとき、チームは破れました。 また、彼が復帰したとき、チームはまた勝ったのです。 何がジョーダンをして彼の能力以上に特別にしているのでしょう? ジョーダンはコーチを見ていたのです。 ブルズはトップクラスのコーチを抱えていましたし、チーム全体がトライアングル攻撃法という彼の新しいアイデアとともに、コーチを見ていたのです。 マイケル・ジョーダンはそのコーチ、ジャクソンの哲学とその人柄を認めていました。 彼はコーチ、ジャクソンの思いと心を知っていた。 そして選ばれたキャプテンとして、コートの中でのコーチとして、他の選手たちにアドバイスをしていたのです。 同じように、私達も私達のコーチであるイエス・キリストの思いと知恵を知る必要があります。 ちょうど、マイケル・ジョーダンやその他のチームメートたちが、もっとよくコーチの心を知る必要があったように、私達もその人柄、性質に顕わされているイエスさまの知恵をもっともっと探し求める必要があります。

1章はイエスさまが誰であるのか、私達の造り主であり、初穂であり、栄光をまとっておられる方であるということを記して終わっています。 イエスさまは、確かに身体である教会の適切なかしらであられます。 イエスさまの中にこそ、神の全てがあるからです。 (1:19,2:9,19をみよ) 2章は続けてイエスさまの知恵をこの世の愚かさ、すなわち空しい哲学や人の言い伝え、そして律法主義の欺瞞と対比させています。 この冬、よしこと私は日本で作られた映画を数本見ました。 私には、その中で繰り返される人々の怒りが信じられなかった。 そして、それを覆い隠そうとするプライドはとても破壊的で、必要もないさらなる深い痛みを引き起こしていました。 彼らは、真実に直面することを拒み、嘘に嘘を重ねていました。 そんな日本と同じように、ユダヤのプライドに満ちたパリサイ人の文化の中では、真実を覆い隠そうとする欺瞞と怒り、嘘に満ちていました。 よしこは私に、彼らはそれを嘘だとは思ってなくて、それを他人の気持ちを思いやっていると思っているのよと教えてくれました。 でも、神様は、私達に「お互いに自分の間違いを告白し合いなさい。」と言っています。

では、メインコースである3章へと移りましょう。 3章1−4節、「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。 そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。 あなたがたは既に死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストともに、神のうちに隠されてあるからです。 私達のいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストともに、栄光のうちに現われます。」

1. 古い自分を脱ぎ去る
2章で、罪深い古い自分が外側にどれほどプライドに満ちた現れ方をするかを見ました。 パウロは空しい言い伝えや触るな、味わうなという律法的な生き方について話したあと、私がしていることを見て下さいと訴えています。 自分が見えていないパリサイ人と同じように、私達もまた、他人と外側の見た目を比べてしまいます。 「主よ。私が他の悪人たち、詐欺師や正しくない人達のようでないことを感謝します。 私は週に2度は断食し、献金もちゃんと納めてますし…。」 しかし、ここ3章では、もっと心の中から出て来るものを見ています。 これはもっと大変なことですし、必要なことでもあります。 というのは、罪深い自分を空にしてしまうことは清さを求めて本当に飢え渇く前にどうしても必要なことだからです。 3章5節、「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。 このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」 先に述べましたように、結婚関係は、他の何よりもそのからだの部分をさらけだします。 お互いの罪を開かれた場で目にするのです。 もちろん、私達のプライドによって目隠しされ、私達が見るのは自分のではなく、他人の罪です。 時として、私達は前ほど自分の相手を信じられなくなり、自分自身の身勝手なやり方を押しつけようとするのです。 どんどんと強情に、そして冷たい人間になっていく、そして、自分でもそうなっているのがいやなのです。 犠牲的に使える仕え人の愛の精神も、その身勝手さによって、失われてしまうのです。 5節には、身勝手さ、むさぼりこそが、偶像礼拝であり、神の怒りを引き起こすのだと書かれています。

8節、「しかし今は、あなたがたも、全てこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。」 一番最初に書かれている罪がこの身勝手な怒りであり、その種の怒りは、あなたを死に追いやります。 念のために言っておきますが、これは何か改める必要のあるときの正しい怒りのことを言っているのではありません。
身勝手な怒りが起こったとき、続いて何が起こるか考えてみて下さい。 お互いに噛み合い、食い尽くし合うのです。 それは8節9節で言われている全てのことの始まりなんです。 身勝手な怒りは私達の心の中にある全ての汚らわしい罪を露わにします。 私はよしこに、「私達が怒りを発するときには、たとえそうしたくはないとしても、お互いを傷つけるありとあらゆる事を言い、またしているって事を覚えておかなくちゃならないんだよ」と言っています。 時々、私達は、一体なぜあのように行動したのかさえわからないときがあります。 なんて破壊的なリストでしょうか。 これらは悪魔によって誘惑された悪のおこないであり、私達はみんなこのジレンマに陥ります。 少なくとも私は自分が陥っていることを知っています。 そして、神の目から見たとき、自分がどれほど罪深いのかを認めることがよいことであることを知っています。 「主よ。 この罪人である私にあわれみをかけて下さい。」 神の御恵みの中にいるというのはなんて喜ばしいことなんでしょう。 というのは、神の恵みとあわれみにより、私達は上からの知恵、すなわち、私達のジレンマの答えへと移ることができるからです。

2. 新しい自分を着る。
悔い改めとそれを言い表すことにより、私達は古い自分を脱ぎ去り、新しい自分を着ることができます。 9−10節、「あなたがたは、古い人をその行ないと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。 新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」 この世の間違った哲学に相対して、私達の造り主であり、かしらであるイエスさまのかたちに似せられてますます新しくなり、それによって至るという真の知識という言葉に注目して下さい。 私達が焦点を据えなくてはならない聖なる知恵の宝物とは一体何なのでしょうか? ヤコブは言ってます。 「上からの知恵や愛はまず、純粋であり、そして、平安に満たされており、優しく、理にかなっており、あわれみ深く、よい実を結び、揺り動かされず、また、偽善でない。」と。

3. ですから、12−15節、私達が待ち受けているメインコースです。 私達は知恵の人、イエスキリスト人となり、性質の上に祝宴を張るのです。 「上にあるものを求めなさい!」 成長チャートを見て、大きな心をお持ちの父なる神の絵の中には、いったい自分がどこにいるのか考えてみて下さい。 3章12−17節、「それ故、神に選ばれたもの、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。 互いに忍び合い、誰かが他の人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。 主があなたがたを赦して下さったように、あなたがたもそうしなさい。 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。 愛は結びの帯として完全なものです。 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。 そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。 また、感謝の心を持つ人になりなさい。 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。 あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」 深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして、愛。

結論
私達の知恵とは、まさにこれです。 「上にあるものを探し求めなさい、探し続けなさい。」 「というのは、神の義に飢え渇いている人は、満たされるからです。」
本日、あなたがたと私は主の王室結婚披露宴に来ています。 焦点は教会の花婿に注がれています。 コロサイ人への手紙3章12−17節を何度も何度も読み返して下さい。 瞑想することは私達の日々の生活になくてはならないものです。 そして、このおしえを、特に妻たちへの、夫たちへの、父親への、子供達への、そして部外者への特別な教えを自分の生活に当てはめていくとき、神様がどれほど賢く、また、勝利に満ちた神にある結婚を、神にある家族を、そして実を結ぶミニストリーをもたらしてくれるかを知ることになるのです。