2002年3月17日『一粒の麦』ヨハネ12:20〜36
あるラジオ番組で、「日本の福祉はヨーロッパのそれに比べると、13年遅れている。心が変わらなければ、物事は変わらない」という言葉を耳にした。またあるトーク番組のゲストであった数学者の秋山仁は、ある受験生の質問に答えていた。その質問はこうであった。「受験へのアドバイスを一つ聞かせてください」。それに対して秋山氏は、「成績を上げるのは簡単。100日間頑張れば一つのランクアップは可能である。でも大事なことは、自分の生き様を変えることだ」と答えた。
私たちは、自分の生き様を変えたい、自分の行き方を変えてゆかなければならない、と思っている。何かにぶつかり、自分の弱さを経験した時は尚更である。あなたは、そのような時どう判断し、自分の人生を生き、変えてきたであろうか。その場で何も考えずに成り行きに任せたであろうか。それとも、神に尋ね求めたであろうか。ここに、自分の生き方を尋ね求めてきた異邦人の幾人かが登場する。本日は、彼らの来訪を受けたキリストのご自身から、キリストによる救いのみわざについて学び、主の十字架を見上げて歩むことの大切さを考えたい。
@ ギリシャ人たちの来訪
20節を見ると、ここに登場するギリシャ人たちは、過ぎ越し祭の時に礼拝に上ってきた人々に混じっていた人々である。彼らは弟子の一人であるピリポのもとにやって来てイエスに会いたいと告げ、その橋渡しを頼んだのである。そこで、ピリポともう一人の弟子アンデレは彼らの希望をイエスに取り次いだ。彼らは、どういう人物であったのかはここには書かれていない。ただ一つ分かることは、彼らのキリストへの理解である。21節を見てみよう。<この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ>とある。この中で、彼らはピリポを「先生」と呼び、それに対してキリストにはただの「イエス」と言っているということから、ピリポへの尊敬はあるが、キリストへの理解は殆どないのである。しかし、この来訪が大きな意味があるのである。
この福音書では、ここで異邦人が登場することに重要な意味を持たせている。このことを一つのきっかけとしてイエスはご自分の時がきたことを明らかにされたからである。23節を見てみよう。<すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。>と言われた。それまでのイエスの宣教活動は、その対象の殆どがユダヤ人に限定されていた。異邦の民として、ユダヤ人と大きな宗教的隔たりを持つギリシャ人の来訪は、イエス様の
福音の世界的広がりを示すものである。人の側で、何気ない出会いと思えるようなことが、実は神の側では、神ご自身をその人が見出す大きな尊い計画であることを私たちは知るのである。
A 一粒の麦としてのキリスト
主の言われた「栄光の時」とは、十字架の死の時のことである。それまでのしるしからずっと、イエスの時がまだ来ていないと言ってきた、この福音書の記者ヨハネは、ここに至ってついに「イエスの時」の到来を声を大きくして宣言するのである。「人の子」は当時のユダヤ人にとってメシヤの称号として受けとめられ、人の子の到来は、ローマの圧制から解放し王国を再建する栄光の時と結び付けて考えられていた。しかしイエスの言う「人の子」は、十字架の死によって罪と死に対する勝利がもたらされる栄光の時と結びつくものであったのである。
イエス様はご自分の十字架の死を<一粒の麦>に例えて、その意味を説き明かされた。24節「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」と言われた。新しいいのちがイエスの死を通してもたらされるという、深い真理をあかしされたのである。人の子イエスは、苦難を受けるしもべ、犠牲の小羊として十字架上で死ぬことによってこの世にいのちと救いをもたらしてくださるのである。
このことは、一人一人の人間にも適用されることを、次の25節で主は語る。利己的に自分を愛する者は、真のいのちを失い、不毛の生涯を送る。しかし、自己中心の生き方を捨てて、神のために利己的な関心を犠牲にする者は、実り豊かないのちの内を歩むことができる。生き様を変換させるのである。価値観を変えて歩むのである。イエス・キリストの歩まれた十字架の道は、主だけが歩まれた道ではなく、イエス様に従うすべての者の道なのである。また死による豊かないのちの原理は、イエスに従う私たちに約束された霊的な祝福と実り豊かな生涯を送らせる原理でもあるのである。ガラテヤ書の5章19節から23節前半のみことばがそれを証明している。<しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です>。私たちはこの主の一粒の麦としてのイエス・キリストを心に信じ、信頼し歩む者でありたい。
B 主の思いと願い
この福音書には、他の福音書にはあるゲッセマネの園におけるイエスの祈り
が記されていないことが分かる。しかし27節と28節はそれの相当していると思われる。主イエスの内なる苦悶である。『父よ。この時からわたしをお救いください』のことばは真の人となられたイエス様の苦悩があかしされている。しかし、主の思いはそれでは終わらない。28節「父よ。御名の栄光を現わしてください」。イエス様は十字架をはっきりと受け入れられたのである。この時天からの声があった。それは、神がこれまでに御子を通して多くの奇蹟によってその臨在と力を現したように、この時十字架を通してその栄光をさらに現そう、という約束の声であった。
群集はイエスが御自分の死について語っておられることに気づき始めていたが、彼らの思惑とイエスの言葉にあまりにも食い違いがある。そこで、彼らは人の子とはいったいだれのことなのかと改めて問いただした。イエス様はその問いには直接答えず、35〜36節で「あなたがたに光ある間に、光の子どもとなるために光を信じなさい。」と訴えられた。イエス・キリストを信じてイエス様に従うその第一歩を踏み出すのだ。今がその時だ、と。13章は弟子たちと最後の晩餐の章である。群集にとってこの12章の勧めは最後の機会である。今、決断の時、光であるイエスを信じるときであると。
私たちは、この主イエス様の思いと願いをどう受けとめるのか。生き様を変える時が今である。一粒の麦として私のために地に落ちて死んでくださった主を、今信じ受け入れたい。またその主に心から従い日々変えられてゆく者でありたい。