2000年3月11日「一つであるために」(ヨシュア22章)
序.私は父のスタイルに倣って、旧約聖書と新約聖書から交互に説教をしていますが、教会によってはあまり旧約聖書を開かないこともあります。恐らく、新約聖書が直接的にキリストのことを述べ、教会について語っているのに対し、旧約は間接的にキリストを描き、教会ではなくイスラエルについて書いてあるので、現代の教会に語るのが難しいからと思います。でも、神様が新旧約聖書全部をキリスト教会に与えておられるのですから、できるだけ旧約聖書にも目を向けるようにできれば良いと思います。
でも、イスラエルについて語っていることをすぐに教会に結びつける訳にはいきません。そこは注意して読まなければならないところです。今、私たちはヨシュア記を学んでいますが、ヨシュア記の主題はカナンの地の征服と土地の分配です。だからといって現代の教会が周りの人々に戦いを挑んだり、土地を奪って良いはずはありません。むしろ、カナンとの戦いは罪、あるいは悪魔との戦いを指し示し、征服や土地の取得は救いと関連していると見る方が良いでしょう。それぞれの場合ごとに、そこから私たち現代の教会に対して神様が語ろうとされている真理をくみ取っていく。それが説教者に与えられた課題です。
ところで、今日読んでいきます22章は、戦いも土地の分配も全て終わった時のことです。罪との戦いも救いを戴くことも、この世における人生で終わるのではなく、天国にいったときに初めて完了することですので、じゃあ、22章は天国でのことか、というと、違います。ここに出てくるのは今までとは違う主題です。それは、「神の民の一体性」ということです。イスラエルがある問題によって分裂しようとしている。何故そうなったのが、またどのように解決したか、ということが描かれている箇所です。教会も、キリストの体として、また神の家族として、一体であるべきですが、そこにひびが入りそうになることがあります。でも、そんなことになったら、それこそ神様を悲しませることであり、悪魔が喜んで付け入ってきます。ですから、この22章を通して、私たちの教会のあり方、また、もっと細かく言えば、私たちお互いの関係に関して、もう一度神様の御旨にかなったものとなるように、整えて戴きたいと思います。
いつものようにお話を三つに分けます。第一に「神の民の原則」について。第二に「神の民の崩壊」。最後に「神の民の修復」ということをお話します。
1.神の民の原則(1−9節)
22章を理解するためには民数記32章からお話しなければなりませんので、簡単に説明します。イスラエルがヨルダン川を渡る少し前の事です。ヨルダン川の東側に住んでいたエモリ人たちを滅ぼしました。ところがその土地はなかなか良い所でした。そこで、ルベン族、ガド族、そしてマナセ族の内の半分が、モーセに願い出て、その土地をもらおうとしました。まだ、神様の約束された地に入る前です。でも、そこが欲しくなってしまった。モーセは仕方なく、一つの妥協案を用いました。それは、ルベン族、ガド族、マナセ族の半分の、2部族半が、他の部族が自分達の所有地を手に入れる手伝いをする、ということでした。そこで、彼らは妻子を置いて、兵士だけが他のイスラエルと共にヨルダンを渡りました。実際、彼らはヨシュアの忠実な部下として良く戦ったようです。そしていよいよ戦いが終わり、彼らも自分の所有地であるヨルダン東岸に帰ろうとした。それがこの22章です。
一体、何が問題なのか、と言いますと、この2部族半は神様の約束を信じて待つのではなく、自分の欲しい土地を手に入れようとした。そして、その結果としてイスラエルがヨルダンの東と西に分かれてしまうことでした。これまでは戦いに明け暮れて、そんな問題は関係無かったのですが、いよいよ戦いが終わり、2部族半が東側に帰るときになり、問題が表面化してきます。でもヨシュアは、その問題を直視するより、問題が起きないように指示を与えました。それが5節です。5節。
ヨシュアは、2部族半の兵士達が良く戦ってきたことをねぎらい、彼らがモーセとヨシュアの命令に従い、神の命令に従ってきたことを強調しました。そして、これまでのように、神様の言葉である律法に従って生活するように命じました。確かに、2部族半が東側で土地を求めたのはいけなかった。モーセの妥協も問題でした。イスラエルの中には他にも様々な問題があった。でも、もし彼らが神様の言葉に従って生きるなら、それらの問題は決して致命傷には至らない。大切なのは、神様に従うことが神の民の本分だ、ということです。
私たちに神の言葉である聖書が与えられているのは、もし私たちがこの聖書に従って生きるなら、つまり、それは神様の御心にかなった生き方をするならば、必ず御旨が私たちの上に行われ、神様の祝福の内に生きることができるはずだからです。これが神の民の在るべき姿であり、原則です。神様を愛し、神様に従う。ところがそれが出来ない。そのために様々な弊害が生まれてきます。その影響が教会の中にも及ぶのです。その根本にあるのは罪の問題です。でも一言で罪といっても、実際はもっと複雑です。そこで、イスラエルの場合の原因をもう少し深く探って見たいと思います。
2.神の民の崩壊(10−20節)
さて、事件の始まりはこうでした。2部族半の兵士達は、自分達の家族の下に帰るためにヨルダンの西側から東側にいくわけですが、必然的にヨルダン川を渡ります。川を渡る前に、彼らは一つの大きな祭壇を築きました。大きさは書いてありませんが、とにかく遠くからでも見えるほど大きかった。そのころ、西側のイスラエルはシロというところで神様を礼拝していたようです。ですからそこにも祭壇があった。ではどちらの祭壇が本物か。こっちが大きいのだから「本家」だ。いや、こちらが「元祖」だ。そういった争いは良く在ります。西側の10部族、正確には9部族半ですが、彼らは2部族半と戦おうと集まったのです。このままだとイスラエルは東西に分裂して内戦が始まります。
実を言いますと、10部族側が怒った理由は、どちらの祭壇が本物か、ということではありませんでした。律法によりますと、イスラエルの中には祭壇は一つであるべきで、それも神様の定めた場所で礼拝をしなければならない。ですから、自分達の都合で勝手に祭壇を作るのは神の言葉である律法に反することになる。そして、もしイスラエルの一部が神に逆らう罪を犯した時には、神様の目にはイスラエルは一体であるから、その罪の故に起こる災いも全体に及ぶということを彼らは体験して来ました。ですから、この罪のために2部族半が滅びるだけでなく、自分達にもその災いが及んでくる。そこで、彼らはこの罪を止めさせるか、あるいはアカンの時のように2部族半を滅ぼすか、どちらかしかないと考えたのです。
確かに、御言葉に反する生き方、つまり罪が入り込むときに私たちの人間関係も、また教会も、さまざまな混乱を経験します。でも罪の問題は、悪いことをした、ということで片づけられることではありません。もう少し掘り下げて見る必要があります。
まず、何故2部族半は祭壇を作ったのか。その理由は10節には書かれていません。もちろん、後の方で明らかにされますが、ここに書いていないと言うのは、はっきりした理由も分からない内に10部族側は戦おうとした、ということです。確かに罪を犯すのは問題です。それは悔い改めて解決しなければなりません。罪を犯しそうになったなら、それを防ぐようにする。でも、罪かどうかも分からない内に罪だと決めつけてしまう。私たちが他の人を裁くときにも、そういうことがあります。本当にその人がいけないと明らかになっていないのに、悪いのはあの人だ、と決めつけ、レッテルを貼り、追い出したり攻撃したりする。また、確かめもしない内に人に悪口を触れ回し、問題を悪化させる。そういう事の方が、罪そのものよりも人間関係を壊すのです。罪が悪くない訳ではありません。でも、人間は誰でも間違いを犯す。そのときは十字架の贖いによって赦していただける。ところが、その救いの恵みを台無しにするものがあります。それは「愛の欠如」です。
愛というのは、もし相手が罪を犯したかもしれない、と知った時は、すぐに相手を裁くのではなく、本当にそれが明らかになるまでは相手を信頼するのです。また、事実でないことを人に触れ回って相手の立場を悪くするよりも、その人のために弁護をしてあげます。そして、罪が事実であることが判明したときは、相手のためにとりなしの祈りをし、他の人には告げる前に本人に忠告します。そして、罪を犯した相手を受け入れ、一緒に神様の前に進み出て悔い改めに導く。それが愛では無いでしょうか。愛が欠けているとき、相手を理解しようとしたり、思いやることが出来なくなります。その人や周りの人を配慮しなくなります。受け入れることができません。そういったことが人間関係を破壊し、キリストの教会さえもバラバラにするのです。私たちは、それに気を付けなければなりません。
さて、イスラエルは、このとき、偉かった。すぐに攻め上るのではなく、まず代表団を送って、事件を調査し、2部族半と交渉しました。それが良い結果につながった。彼らの言い分を聞いたことで、争いは回避されたのです。それぞれの考えを述べ合っていく。対話の大切さはもちろんのことです。でも、それだけで問題が解決するのではありません。どんなに対話しても平行線になってしまうこともあります。では、何が人間関係を保ち、教会を一体とするのでしょう。
3.神の民の修復(21−33節)
2部族半が祭壇を作った理由がここで明らかにされます。彼らの弁明は同じ様な言葉を繰り返し使っているので、よく注意して読まないと、こんがらがってしまします。一番簡潔に語っているのは28節の後半です。「これは全焼のいけにえのためでもなく、またほかのいけにえのためでもなく、これは私たちとあなた方の間の証拠なのだ。」
どういう意味かと言いますと、こんなことです。2部族半は、生贄を捧げる、つまり礼拝のために祭壇を作ったのではない。もし礼拝のために作ったのなら律法を犯す行為です。そうではなく、彼らは「証拠」として祭壇を作りました。何の証拠かというと、彼らがイスラエルと一体である事の証拠なのです。2部族半が心配したのは、ヨルダン川で隔てられているために、自分達が切り捨てられはしないか、ということでした。イスラエルの10部族から、「お前達はヨルダンのこちら側にいないからもう神の民ではない」、と言われてしまわないように、目に見える証拠が必要だ。そこで、彼らは祭壇を作ったのです。
祭壇とはイスラエルにとって何でしょう。単なるシンボルではなく、彼らが神様と交わる、すなわち礼拝するためのものです。神の民と神との関係を表すのが祭壇です。本来の目的で使われる祭壇はシロにあるものだけだとしても、同じ形の祭壇を間に置くことで、ヨルダン川で隔てられていても、同じ神を礼拝する者として一体である。そのことを示そうとした、それが「証拠」ということです。
では、私たちにとって祭壇とは何でしょうか。動物の犠牲を捧げるという儀式は教会では行いません。その意味で、直接的には祭壇は無用です。でも、旧約聖書の祭壇が指し示すものは重要です。それは十字架です。祭壇で罪の贖いのために動物が捧げられたように、神の子羊としてキリストが十字架に挙げられて贖いをして下さった。それによって私たちは救って戴き、神の民とされ、神様を礼拝できる特権を戴いたのです。イスラエルと神様の関係を象徴するのが祭壇であったように、私たちと神様の関係は十字架抜きにはありえません。そして、この十字架は神様との関係だけでなく、人間関係にとっても大切なのです。
私たちはお互いの間に十字架を立てなければなりません。私と「あの人」との間に十字架があるとは、どういうことでしょう。それは第一に赦しの関係です。例え「あの人」がどんな罪を犯したとしても、神様がその罪を赦された。裁くことのできる神様が赦されたのに私に裁く権利はない。もし「あの人」の赦しを否定するなら、それは十字架を否定することであり、自分の救いも否定することです。神様が自分を無条件で赦して下さった様に相手を赦す。それは十字架を見上げるときにしか出来ません。第二に、受け入れる関係です。相手を受け入れるのは痛みを伴います。でも十字架でキリストが受けて下さった痛みは私たちを受け入れるためです。罪人をそのままの姿で受け入れるために十字架にかかって下さった。だから、私も「あの人」を受け入れ、理解しようと努めるのです。第三に、十字架は愛の関係の土台です。神様の愛は十字架の上で表されました。それは自分を与える愛であり、神様の方から私たちに歩み寄って下さった愛です。自分の力では神様に近づくことができない罪人のために神自ら人間となってくださり、命を与えて下さった。私たちも、相手が変わることを待っていては人間関係は何時になっても解決しません。自分から相手に一歩近づくときに新しい関係が始まります。でもそれも神様から十分な愛を戴いていることを知らなければなかなか出来ない。だから、いつも神様の愛を思い出すために十字架が必要です。そして、最後に、再び赦しです。でもそれは相手を赦す前に、実は問題は自分自身の中にあり、愛が欠けていたことを気づき、自分こそ神様の前に出ていって悔い改めが必要であることを知るのです。そして、誰よりも私のために十字架があったんだ、私も赦されたんだ、という恵みを味わうのです。神様との関係が正された時、人との関係も変えられるのです。
もし、人間関係で問題を持っておられるなら、十字架を間に立てることです。相手の人を見るときに、その人との間に十字架を置くのです。そのときに、たとえそれが人間には修復できないようなこじれた関係であったとしても、神様がそこに介入してくださるのです。神様の赦しと愛を土台とした新しい関係を築き直すことができるのです。
まとめ. 神様に救って戴いた者はキリストの体の枝とされ、神の民の一員としていただきます。それが教会です。でも教会の中に罪が入り込み、お互いの関係が生身の人間同士の関係ならば、どうなるでしょう。神の教会であっても、問題が起こり、亀裂が生じます。もう一度十字架を思い起こし、十字架を中心とした新しい関係を築こうではありませんか。この教会がキリストを中心とした交わりになることを神様は願っておられるのです。そのような教会こそが神様の愛と憐れみを映し出すことができるからです。今、もし、他の兄弟姉妹に対して怒りや裁く思いがあるのに気が付かされたのでしたら、まず自分自身が十字架の前に進み出ましょう。また、もし誰かが問題を持っていることに気が付いたなら、その人のために取りなしの祈りを捧げようではありませんか。そして、一人一人のために十字架の上で贖いを成し遂げてくださったイエス様をもう一度主として仰ぎましょう。