3月5日礼拝説教「聖徒たちの忍耐」黙示録12-14章
この黙示録を学んでいて思いますのは、難しいなということです。何でこんな難しい書を選んでしまったのだろうとつい思ってしまうのですが、しかし、わかりやすいところ、食べ物で例えるならば、柔らかいところだけ食べていますと体の成長のためにはよくない。クリスチャンも堅い食物も食べられるように成長しなければいけないと、聖書自身も教えています。そんな訳で、神様からの助けを頂きながら、メッセージの準備をしています。でも、説教者自身が難しいと思うのならば、聞いているみなさんにとりましても、きっと難しいんだろうな。よく忍耐しておつきあいして下さっていると、感謝しております。それで、ということではないのですが、今日のタイトルは「聖徒たちの忍耐」。
聖書の中で聖徒たちというのは、決して一部の人のことであるよりむしろ、すべてのクリスチャンのことをさしています。クリスチャンにとって忍耐というのは大切なことです。とは言っても、日本的な忍耐と混同してはいけないと思います。日本人というのは、私もそうですが、忍耐という言葉が好きで、テレビのドラマでも、主人公はじっと耐える。水戸黄門でも、悪人にやられてもじっと我慢をする。そして残り時間が5分くらいになったら一気に爆発して、悪者どもをやっつける。見ている人もそれですっきりとする訳です。そんな忍耐の好きな日本人も多いですし、
反対に忍耐なんて大嫌いと言う人も多いでしょう。でも、そういった日本的な忍耐と、聖書が教える忍耐と同じではない。迫害、あるいは困難の中にいるクリスチャンたちに対して聖書が教え、命じている忍耐とは何でしょうか。
今朝は黙示録の12章から14章を通して、迫害の時代の教会にヨハネが伝えようとした忍耐と言うことをテーマとして学んでいきたいと思います。
1.悪魔からの挑戦
さて、12章で、著者のヨハネは、天に不思議な光景が映し出されるのを見せられます。一人の女性がそこに出て来るのですが、これが一体誰なのかがよく分かりません。この女性が生んだ男の子の方は、後の方にもう一度出てくるキリストの姿と重なります。5節に「鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧する」というのがそうです。では、このキリストを生んだ女性というのは、あのマリアのことかというと、どうも違うようです。おそらく、イスラエル、それも真のイスラエルの象徴と考えるのが一番妥当なようです。つまりキリストはアブラハムとダビデの子孫とし
てイスラエルに生まれたことを指しています。また、12章の後ろの方では、この女性の子孫がクリスチャンだと書かれており、そういった点では、このイスラエルは教会の原型としてのイスラエルだとも言えます。聖書の中ではイスラエルも教会も女性に例えるケースが多くあります。しかし、12章の中心となるのは、キリストでもこの女性で
もなく、竜です。この竜についてははっきりとその正体が書かれています。9節で、悪魔とかサタンと呼ばれ、人を惑わす古い蛇とはあの創世記に出てくる蛇を指しているようです。この悪魔の頭である竜が天上での戦いに敗れ、地
上を荒らすために降りてくる、というのが12章のあらすじです。
竜ははじめキリストを殺そうとした。それに失敗すると今度はその女性を追いかけます。それにも失敗して、天での戦いに敗れたのと重なって怒り狂い、最後に竜が向かうのはイエスの証を守っている者たちです。12節。地と海とに災いが来ると言っています。この悪魔の攻撃にクリスチャンはさらされるのです。悪魔、ここでは竜の姿で登場しますが、それは決しておとぎ話に出てくるような者ではありません。悪魔が何をするかについては10節。悪魔を
告発する者と呼んでいます。神様の前で、私たちを訴えて、有罪にしようとするのが悪魔です。クリスチャンは罪を赦して頂いた。でも、失敗もします。そういった過去や現在の傷を指摘して、こいつは神の子ではないと言うのが悪魔です。神様の前だけではなく、私たちの心の中でもささやきます。「おまえはそれでもクリスチャンか、そんなことではもう失格だ」などと言って、クリスチャンを信仰から引き離そうとします。また、様々な手を使って罪を犯すようにし向け、神様から目を逸らさせる。悪魔は自分が神に滅ぼされるのを知っており、クリスチャンも道連れにし
ようとするのです。その攻撃にクリスチャンは耐えなければならないのです。しかし、恐れる必要はありません。なぜなら、勝利の秘訣があるからです。
11節。ここに出てくる兄弟たちというのは、死んで天に迎えられたクリスチャンたちです。彼らは悪魔にうち勝った、と書かれています。どのように勝てたかというと、それは子羊の血と証の言葉によってです。悪魔がどんなに私たちの罪を指摘して訴えても、キリストの十字架が無効になることはありません。十字架の血によって罪が赦される、この神の約束、すなわち新しい契約を忘れないならば、悪魔のささやきに惑わされることはありません。私たちが救われたのは自分の正しい行いのよるのではなく、キリストの十字架による。救いの土台を十字架に置くならば、揺るがされることは無いのです。そして、その救いを証すること。一人で心の中に秘めていると、悪魔の攻撃にさらされやすい。人に証をすることで、確信が強められ、また他のクリスチャンを励まし、自分も励まされる。それが証です。苦難の中でクリスチャンに求められている姿勢は、二つの面があります。それは動と静です。動的には証の生き方が求められています。それは先週にもお話ししました。そして静的な側面が忍耐です。時にはじっと忍耐しなければならない苦難もあります。しかし、それはただじっとしているのではなく、そのような嵐の中で動かされずにい
る姿を通して証をしているのでもあります。また反対に証をするときにも忍耐は必要です。聞いてもらえなくても、なかなか信じてもらえなくても、忍耐強く語り続ける。悪魔に勝利する秘訣はこの証と忍耐の姿勢であり、そしてキリストの十字架への信仰です。そしてそのようなクリスチャンは、迫害の時代にあっては、時に命を懸けなければならないこともありました。多くの信者が迫害によって命を落としました。しかし、それは敗北ではなく、悪魔への勝利でした。だからこそ、そのような時代に教会は消滅するのではなく、ますます救われる人が増えていったのです。
さて、2番目のポイントに移りたいと思います。一体悪魔はどのような手で攻撃してくるのか、それを13章から見てみたいと思います。
2.不信仰に対する戦い
13章には2匹の獣が出てきます。もちろんふつうの動物ではなく、恐ろしい姿をした、悪魔の手先です。この2匹が似ている部分があって少し紛らわしいのですが、ずっと後の方で、2匹目の獣のことを偽預言者と呼んでいます。また、1匹目の方は聖書の他の場所に出てくる反キリストと似ているようです。そしてこれらの獣、すなわち悪魔の手先の働きは、人々が悪魔である竜と、その1匹目の獣を拝むようにすることです。この獣が何かということについては、13章の18節に、有名な666という数字が出てきます。この数字の意味についてたくさんの説があります。当時は、今私たちが使っている数字、荒美や数字がまだ発明されていない時代で、その代わりにアルファベットを使って数を表していました。今でもローマ数字がありますが、同じようなシステムはいくつもの国であったようです。この獣の数字は、666である。一番有力な説明は、この666はローマ皇帝のネロを示しているというものです。確かにネロはクリスチャンを迫害し、また自分を神として拝むように強制しました。でも同じようなことをした
皇帝はいくらもいます。また実はこの説には少し無理がありまして、ネロというのはラテン語の名前ですが、それをギリシャ語風にして、その発音をヘブル語で表したのを数字にする。ちょっとこじつけみたいなやり方です。こじつければ他にも666にすることができる人物は多くいます。神学校で黙示録の勉強をしていたときにこの話が出てきて、試しに隣にいた友達の名前をこね回して、ヘブル語に直し、ちょうど666になるようにしてみたことがあります。本人は怒ってましたけど。でも、自分の名前でやってみてもうまくいかなかったもんですから。人名だけでなく、さまざまなものがこの数字と結びつけられてきました。最近では、バーコードというのがありますが、これも数字を表すのですが、ある数え方をすると666というのができてくるのだそうです。確かに、現代では商品にバーコードが必ずと言ってよいほどにつけられています。そのうち人間の体にもつけられてそれがついていないと買い物ができないようになったら、まさしく17節で言っているとおりになります。でも、明らかにこの解釈もこじつけです。
666が何を意味するかを考えるのはあまりうまくいかないようです。確かにこの恐ろしい獣の正体を確かめたい気はしますが、それよりもこの獣と偽預言者のすがたをよく見た方がよいようです。ある人は、この竜と獣と偽預言
者の関係は、神の三位一体の関係に似ていると言っています。それが本当かどうかは別として、とにかくいくつかの点で似ているのは確かです。獣には7つの頭があるのですが、その一つが致命的な傷を受けた。しかし、それが直ってしまった。これは、前の方に出てきた、屠られらように見える子羊、すなわちキリストのまねです。また偽預言者である2番目の獣の働きは、11章に出てきた神からの証人である預言者と似ています。これらの獣の正体は分かりませんが、彼らがキリストと神からの証人のまねをしているような存在であることは確かです。よく見ると明らかに偽物だが、多くの人がそれに惑わされ、ついていってしまう。それが13章です。
黙示録が書かれた当時もそうですし、また現代にも多くの偽キリストがあります。キリスト教を語った偽物が多くあります。そういった者にたくさんの人たちが騙されています。でも、宗教だけではありません。本当はそうではないのに、これこそ人類を救うものだと言って人を引きつけているものは他にも多くあります。たとえば、科学がそうです。人間の科学技術によって世界は幸せになると信じている人は今でも少なくありません。実際にはその科学によって不幸になった実例はいくらでもあるのに。また、お金です。経済的な発展こそが幸福だと、実際に口には出さなくても、信じられています。そのような間違った救い主に従う人がなんと多いことでしょう。そして人間は幸せになるどころか、社会全体はますます悪い方向に進んでいる。それが日本やアメリカの現状ではないでしょうか。 さて、そのような社会にあってクリスチャンの忍耐とは一体何でしょうか。人々がみな偽の救いを拝むようになり、また、その獣の力は大変に強く、戦っても勝つことはできない。そのような中で聖徒たちの忍耐という言葉が10節に出
てきます。この説の言葉にはやはりいくつかの解釈があり、新改訳の翻訳は、2つの有力な解釈を混ぜ合わせた形になっています。ひとつは、虜になるように定められた者は虜になり、剣で殺されるように定められたものは剣で殺される。すなわち、神様が定められた通りになっていく、ということです。一見、これは運命論のようです。苦しみにあるのは運命だからあきらめろということです。しかし、それと神様の定めということとは少し違いがあるのですが、それはまた後で話します。もう一つの解釈は、人を虜にする者は自分も虜にされ、人を剣で殺す者は自分も剣で殺される、という読み方です。このことは、イエス・キリストがゲッセマネの園で捕らえられる時に言われた言葉と一致します。これらの解釈はどちらも大切だと思います。というのは、私たちはそれと反対のことをしがちだからです。
私たちは、困難に遭ったときにそこから逃げてしまうことがあります。中には避けた方がよいこともありますし、
また私たちは自分で思っているほどの強くありませんから、わざわざ困難を作らない方がようでしょう。しかし、神様が私たちの成長のために与える困難もありますし、信仰を貫くためには避けて通れない苦難もあります。そういった苦難をすべて避けてしまうときに、私たちは偽の平安に陥ってしまいます。クリスチャンに与えられる平安とは、何も問題が無いという平安ではなく、問題のただ中でも神からの平安をもつことができるというものです。もう一つの間違いは自分の力で解決できると思いこむことです。もちろん神様が与えて下さった力によって解決すべきこともあります。しかし、大切なのは神様に信頼することであって、自分の力に頼ることではありません。自分でできると思うときに、信仰が間違った方に向いてしまうおそれがあります。これらの二つの態度は、自分だけは助かりたいという自己保身と、自分の力への過信で、それは自己中心や自己神格化といった罪の温床になるものです。実は、これこそ表面的な偽キリストよりも恐ろしいものです。
悪魔に支配された社会に生きているクリスチャンたちはこれらの間違った道に気をつけなければなりません。ローマ帝国の迫害にあってクリスチャンたちは、そこから逃げ出して自分たちだけのユートピアを作ろうともしませんでしたし、また自分たちの力、武力によって革命を起こして社会を変えることもしませんでした。むしろ、信仰と忍耐を持って迫害のただ中に生き、それが故に殉教もしました。そして、その方法でやがて勝利を得たのです。その勝利は、ローマ帝国がキリスト教を国教とするようになったこと以上に、かれらが天に凱旋したときに神から与えられた勝利です。それが黙示録の伝えていることなのです。
3.キリストによる審き
さて、14章では、著者ヨハネは、悪魔の支配する社会の恐ろしさから、もう一つの光景に目を向けさせられました。それは、天上の光景であり、キリストと、キリストに忠実に従ったクリスチャンたちが賛美を捧げているところです。これは未来における勝利を表し、天においてはすでに勝利が始まっていることを描いています。また6節からは6人の天使たちが現れます。その6人のちょうど真ん中、3人目と4人目の間にキリスト自身と思われる者が出てきて、この人を入れるとちょうど7人となり、黙示録での7のシリーズのひとつとなります。この御使いたちが語ったり行ったりすることは、神の最後の裁きということであり、キリスト自身も借り入れのための鎌を手にして登場します。例え今は悪魔が支配しているかのようであっても、必ず神様の正しい裁きが行われる時が来るというメッセージです。そして、そのときにはキリストは世界を裁くお方としてもう一度この世界に来られます。それが再臨です。キリストの再臨こそがすべての問題の真の解決が与えられるときであり、そのときまでクリスチャンの忍耐は続きます。今の苦難と迫害の中で信仰を捨ててしまうことの無いように戒めているのが9節からの第三の天使の言葉です。
その最後にもう一度、聖徒たちの忍耐という言葉が出てきます。そして、その忍耐、特に殉教の死に対して必ず神様が報いて下さることがその後の13節に約束されています。
さて、最終的な解決はキリストの再臨まで待たなければなりませんが、これは今を生きている私たち一人一人の困難に対する答えにも関係しています。すなわち、苦難の答えはキリストにあるということです。問題が起きたときにとってしまいがちな間違った対応について先ほどお話ししました。そこから逃げてしまったり、自力で解決しようとしてしまうことです。また他の人のせいにしてしまうこともあります。そうして、その問題を通り過ぎてしまうと、不思議なことに必ず同じような問題にまた出会います。いったいなぜでしょうか。それは別に神様が意地悪だからではなく、問題の中心は自分自身にあるからです。だから、形は変わっても同じような問題がまた降りかかってくるのです。それが解決されるのは、キリストによって自分自身を変えていただくこと、すなわち自分の内にある罪に気がつかされ、その罪を十字架によって取り扱われることが大切なのです。あるいはまだ捧げていない自分を十字架につけることが必要なのです。キリストにあうときに問題は解決されるのです。その経験が最終的に完成するのが再臨の時です。ですから、その日がくるまで、私たちはキリストにいかなる時にもついていくことが求められています。迫害の中でキリストへの信仰を守り通すこともそうですし、また様々な問題の中で、それでもキリストに目を向け御言葉に耳を傾けていくこともそうです。そうしてキリストに従って行った者の代表が14章の始めに出てくる14万4千人です。彼らは、他の者が学ぶことのできない歌を学んだとあります。苦難を通り信仰を守り通した者だけが味わうことのできる恵みがあるのです。忍耐によってしか学ぶことのできない賛美があるのです。
私たちの忍耐は、実はキリスト自身の忍耐にその起源があります。キリストは十字架を避けるのでも、力によって解決するのでもなく、神の御心に従いとおしました。そのキリストに従う者となることを私たちも求められているのです。十字架で私たちのために苦難を受けて下さったキリストを仰ぎ見つつ、歩んでいきましょう。