2月26日 黙示録8-12章「暗闇に輝く世の光」


 今日は礼拝後に月1回の証祈り会があります。もちろん、この時の証というのは、その後で共に祈るための祈祷課題をあげることでありますから、どちらかというと近況報告的なところがあります。このような機会を通して自分の信仰に関わることを人前で語ることに慣れていただいて、やがて自分の救いの証を語れるようになっていただきたいと思っています。証といいますと、グレンビュー教会では、どういう訳か、帰国前に礼拝で証をしていただくのが何となく慣例になっているみたいです。本当は最後の証ではなく、普段からみんなが証をできるようにすることが大事ですし、さらに教会にきたことのない人の前でも証ができるようになることが目標だと思います。でも証というのは場慣れや訓練も必要な側面がありますので、機会あるごとに証をすることに挑戦していただきたいと思います。
 さて、こんなことを言いますのは、実はクリスチャンにとって証というのはとても大切なこと、いえ、なくてはならないものだからです。昔、神学校で学んでいた頃、よく聞かされたことに、証というのは何かということがあります。よく救いの証といいますが、その中で、「私はこんな風だった、でも今は私はこうなった」というように「私のこと」が中心になって、さもすると自慢のように聞こえるケースもあります。でも、証というのは、本当は「私のこと」を語るのではなくて、私を救ってくださった方、つまりキリストのことを語る。だからキリストについての証言な訳です。自分のことを語っているようでいて、いつのまにか自分の姿は消えて相手の耳にはキリストだけが残る、そんな証ができたら理想的かもしれません。クリスチャンはキリストの弟子、いえキリストのものとされた存在です。ですからクリスチャンが語る言葉は、その根底にキリストがおられる。それが証ということです。
 さて、今までヨハネの黙示録という書物からメッセージを続けてきました。その中で、この黙示録はある意味では手紙であり、迫害の中にいた教会に対して書かれたものだとお話ししました。迫害と苦難の中で生きていたクリスチャンたちを励ます手紙です。でも励ますというのは、ただ単に、「つらいけどがんばって」とか「忍耐して」ということをいうだけではない。そのような中でもなおクリスチャンとして光り輝くことができるように、命のあふれる存在としていきることができるように、書かれたのです。今日のメッセージのタイトルは「暗闇の中で輝く世の光」と
いうことです。イエス様は私たちに、「あなた方は世の光です」と言われました。その光を輝かすことが、特に光の元であるキリストを指し示すことが証です。言葉によると行いによるとを問わず、光として輝くクリスチャンと、私たちも慣らせていただきたいと願います。
 今日は、少し長いのですが、8章から11章を通して、証と言うことについて学んで行きたいと思います。

1.かたくなな時代(8,9章)


 ヨハネという人は神様から天井の世界の光景を見せていただいた。そこで世の終わりについて書かれている巻物があり、キリストがその巻物につけられた7つの封印を順に解いていく度に様々な災害が起きて行きます。そこら辺のことが6章に書かれています。そしていよいよ最後の、7つ目の封印が解かれる。そのときどんなことが起きるのだろうかと思うと、今度は7つのラッパが吹き鳴らされます。そしてラッパが一つずつ吹き鳴らされる度に、災害が起こります。それが8章と9章に書かれています。ところが、いよいよ7つ目のラッパが鳴らされて、これで世界の終わりかと思うと、今度は「神の怒りの満ちた7つの鉢」というのが15章にでてきます。なんだか、同じようなことが繰り返されるので、ある人は、これは同じ出来事を繰り返して描いているのだと考えますし、いやそうではない、これは実際にこの順に起きることだとも言われます。あまり、そこいらへんの議論には立ち入りません。ただ、これは単純な繰り返しではなく、7のシリーズの度に災害が激しくなっていき、まるで、もしこれがドラマならばだんだんとクライマックスに向かって行くかのよう書かれている気がします。
 さて、今日は、7つのラッパの部分ですが、ラッパが吹き鳴らされる度に起こる出来事を細かく説明はしませんし、あまり細部にこだわりすぎるとこの書物が伝えようとしているのとは違った方向に行ってしまうことがあります。
 たとえば、8章の10,11節を見てみましょう。 ここに「苦ヨモギ」という名前がでてきますが、それが、ある国の言葉ではチェルノブイリと訳される、だから、この燃えて落ちる星というのは原子炉を積んだ人工衛星で、それが落下して水を汚染して多くの人が死ぬんだ、などと説明する人もいます。もちろん、この読み方は一種の時代錯誤であり、正しくはありません。このような読み方でこの8、9章を読むのは問題があります。9章には、イナゴがでてくるのですが、このイナゴはサソリのように人を刺し、馬に似ており、顔は人間のよう。また9章の後半には軍馬がでてきて、その口からは火と煙と硫黄が吹き出されている。なんだかSF映画のような場景です。これらのものが具体的になんなのかは、今は分からないと言う方がよいと思います。でも、このラッパの災害全体を通して二つのことが考えられます。
 第一に、これらの災害はいったい何なのか、ということです。もう少しはっきり言うと、この災害は神が引き起こされたものか、ということです。6章の終わりではもうすぐ神の怒りが来ると言っていますが、この言葉は神に従わない人々が恐怖に陥っていったせりふです。ですから、実際にこれらのラッパの災害が神の怒りと言うことではありません。反対に、この8,9章では、注意深いほどに、これらの災害が神によって引き起こされたということを書かないようにされています。それは神の使いである天使についてもです。天使が災害を引き起こしたのではなく、ラッパを吹いたときに、災害が起きていく。誰が起こしたかという主語が避けられているみたいです。もちろんある意味ではすべてのことは神様の手の中にあります。しかし、だからといって神様が喜んで災害を下したとか、神の怒りがぶちまけられたのだと結論づけるのは短絡的です。それこそ、この8,9章が注意深く避けている結論です。実は、本当の神の怒りは最後に明らかにされるのです。それまでは、これらの災害が何なのかについては、結論を下さないようにされているのです。むしろ、神が怒っておられるかは、人間の応じ方に掛かっているのです。もし神様が人間の罪に対して怒っておられるならば、今すぐにでも人類を滅ぼすこともできる。でも神様は忍耐を持って待っておられるのです。
 第二は、これらの災害に対する人々の反応です。9章の最後にこのラッパ「シリーズ」の結論が出てきます。20,21節。 人々は、これらの災害を神からのものと思ったら、悔い改めて立ち返る選択もあったのです。しかし、そうしなかった。さて、これは、災害は神様が人間に対して悔い改めを促すために送られるものだと言うのではありません。でも、様々な機会に、神様は人間が立ち返るチャンスを用意しておられる。災害とか困難とかに限らず、神様に目を向ける機会は多くあります。しかし、なかなかそれができない。それは罪のためであり、不信仰によるものです。昔の人は無知だったから簡単に神を信じた、なんていうのは現代人の偏見です。昔から人間は不信仰であり、その心は頑なでした。神の民と自負するイスラエルですらそうでした。そして、時代が変わっても、その頑なさは変わりません。黙示録の、いわば世の終わりの世界の中でも、人々は頑なです。神の怒りかと思われるような災害の中でも本当の意味で神の立ち返らない。「今の時代は不信仰だ」とキリストが言われた言葉は、昔も今も、そして世の終わりまで真実です。
 そんな不信仰の時代にクリスチャンは証をするのです。語っても語っても、なかなか信じる人が起こされないかもしれない。では、どうしたら証を続けることができるのでしょうか。


2.神からの言葉(10章)


 さて、この10章で、著者のヨハネは主に二つのことを体験します。そして、その二つとも言葉に関係します。第一は7つの雷の言葉です。7という数は黙示録の中にしょっちゅう出てきますが、ここでは7つの雷が何かを語ります。しかし、その言葉を書き記すことは禁じられます。一体何を言ったのでしょう、気になります。もしかしたら、世の終わりがいつ来るかが語られたのかもしれません。聖書の中には書かれていない秘密が明らかにされたのでしょうか。人間というのは、「教えない」と言われると何故かますます知りたくなるものです。へそ曲がりなのです。勉強しろと言われると、したくない。勉強するなと言われると、...やっぱりしたくない? とにかく、世の終わりに関すると思われるこの秘密は気になります。この知りたいという気持ちは、私たちの好奇心です。神様は私たちに必要なことはすべて聖書を通して語ってくださいます。ところが人間はそれ以外のことを知りたがる。神様が世界を造られた。だったら、その前には神様は何をしていたとか、神様は誰が造ったとか。これらは、面白い問題ではあっても、私たちの救いには関係がないのです。本質的に大切なことではないことで、命よりも大切なことをおろそかにしては、残念なことです。もちろん、好奇心によって様々なことを探求する自由と力をも神様は与えてくださいまし
た。でも、こと救い、人間にとって無くてはならない問題については、神様の方から語ってくださいます。ですから、救いを伝える私たちの証の言葉も、それは神様が選ばれた言葉を使うべきなのです。自分勝手に神のメッセージを変えてしまってはいけないのです。
 第二に、ヨハネは巻物を食べなさいと言われます。これとそっくりのことが旧約聖書のエゼキエル書に出てきます。また、似たようなモチーフはほかにも旧約中に出てきます。神様から言葉が与えられ、それを託された人は、そのメッセージを語らずにはおられなくなる。この黙示録では、食べる巻物が「口には甘いが、腹には苦い」とされています。口に甘いとは、神の言葉を聞くことが喜びであり恵みである、ということかもしれません。腹に苦いとは、おなかが痛くなるのか気分が悪くなるのか、よく分かりませんが、とにかく食べたらそのままではいられないということなのでしょうか。詳しいことは分かりませんが、とにかく、彼は神のメッセージを人々に語るように命令を受けます。神様の言葉を聞いたものは、やがて語らずにはいられなくなる。それが証です。証とは、神様からの恵みを頂いたときにそれをほかの人に伝えずにはいられないから語るのです。もちろん、周りの人に、神の恵みを知ってもらっ
て救いを受けてほしい。だから、分かってもらえるために、どのように語るかは、神様から知恵を頂く必要があります。でも、結果を求めて証をしていくと、証をし続けるのは難しくなります。語っても分かってもらえない、受け入れられない、救われる人はなかなか起こされない。でも、伝えずにはおられないから語るのです。
 でも、そのときに気をつけなければならないことがあります。神様からたくさん恵みを頂くと語りたくなるのですが、あまり焦ってはいけません。私の卒業した日本の神学校では、授業というのは時にはメッセージのようになり、本当に恵まれることがよくあったのですが、そうするとそのことを人にも話したくてたまらなくなる。神様はこんなにもすばらしい方なんですよ、救いはこんなにすごいことなんですよ。でも、それは授業の中で、いろいろな知識を学んだという前提の中で理解した恵みですから、そのまま話しても相手には理解しがたいこともあります。つまり、生のままだと消化不良になってしまうのです。ですから、その恵みを時にはゆっくりと熟成させる必要がある。する
と神の言葉が自分の血となり、肉となります。知識としてだけではなく、生活と結びつき自分自身の言葉で伝えることができるようになる。生きたメッセージとなるためには時間がかかることもあります。反対にあまり時間をおきすぎて腐ったり忘れたりするのも困りますのですが。大切なのは、聞いたこと、体験したことをただ語るのではなく、それが自分自身を変えるようになったとき、証は、言葉と生き方が結びついたものとなる。そのためには時間がかかることもあるということです。語っても語ってもうまく伝わらない、そういう経験をすることで、やがて自分の内面が探られ、御言葉によって内側から作り変えられていく、そういうプロセスがあるのです。そのことを三つ目のポイントの中でお話ししたいと思います。


3.迫害と十字架(11章)


 さて、この黙示録が書かれた時代は大変に厳しい迫害の中に教会はおかれていました。そんな時代には証をすることを文字通り命がけです。でも、その命を懸けた証が用いられ、救われる人は後を絶たなかったのです。現在、一部の国を除けば、クリスチャンが同じような迫害を受けることは少なくなりました。でも、クリスチャンとして生きていこうとするときに摩擦が生じることは、決して無くなったわけではありません。もちろん、自分に問題があり、それを周りから避難されるというのではありません。本当に正しく、また愛に満ちた生き方をしていても、反発を受けることはあります。クリスチャンの証の人生にはある意味で迫害は不可避なのです。あまり脅かすつもりはありません。でも、周囲の人に、また特に家族に証をしようとするときには何らかの障害を覚悟する必要はあります。よいこ
とを伝えているつもりなのに、何故受け入れられないのか、なぜ反対されるのか。そんなことで悩むことがあるかもしれませんが、でもキリストと反対の方向に向かっている世の中では、摩擦はあるのが当たり前と思っても間違いではありません。
 10章では、ヨハネが神からの言葉を頂き、それを伝えるようにされました。ところが、11章で実際に証人となって証をするのは彼ではなく他の人でした。ここに二人の証人が登場します。36節。この二人を見ていると、旧約聖書の中の偉大な人物、モーセとエリヤを彷彿させます。数々の奇跡を行って、神から遣わされたことを示しながら証言をする。しかし、そのパワフルな証でも人々は悔い改めないのです。定められた期間が終わると、彼らは殺されてしまい、人々は彼らの死を喜び祝います。二人の死体は三日半の間、さらしものにされます。ところが、神様はこの二人を生き返らせ、そして天に引き上げる。この辺の下りは、今度はキリストの十字架と復活、そして昇天を思わせます。実際、8節では主の十字架に言及して読者が連想し忘れることのないように書いています。
 証の故に受ける迫害というのは、実は十字架と密接に結びついているのです。キリストご自身が、神の言葉を伝えたために迫害を受け、十字架につけられた。もちろん私たちの受ける苦しみは他の人の罪を贖うことはできません。
でも、人が救われるまでにクリスチャンは多くの犠牲を払うことがあります。それを通して神の愛がどのようなものであるかを私たち自身が味わい知るのです。理屈ではなく体験を通して十字架の愛を理解するようになるのです。そしていつしか私たちのうちにキリストの姿が形作られるまでに変えられる。それが迫害の中の証がクリスチャンにもたらすことなのです。でもその課程は迫害以上に苦しいこともあります。たとえば、他の人のために犠牲を払うということを話しましたが、そうしていながらいつの間にか自己満足を求めたり偽善を感じたりする事もあるかもしれません。あるいは、こんなにも私が尽くしているのに相手は変わらないと文句を覚えることもあります。人間は神様ではありませんから、その愛にも限界があります。そのときに私たちは自分の罪深さをもう一度示される。そしてそんな自分を愛して十字架にかかって下さったキリストの愛をこれまで以上に実感する。こうして十字架の愛がもっと深いところに刻み込まれていくのです。
 神様は私たちをキリストの証人としてたてられたとき、決してノルマを達成するように放り出したのではありません。実は証をすることで私たち自身がキリストの愛をさらに知らされ、その愛が私たちの内側に刻み込まれ、キリストの似姿に変えられていくことを願っておられるのです。そしてキリストが私たちの内側に形作られていったとき、私たちは言葉ではなく私たちの存在自身を通して証をする、いえ、キリストを映し出す者となるのです。


まとめ.

 私たちは結果をおそれる必要はありません。人の救いを願い祈り、伝道をし証をしても、相手が救われる
のには神様の時があります。でも例え結果がすぐに出なくても、その証は神様の目からは無駄ではありません。恵みを頂いて証しを続けるときに、神様の恵みはさらに豊かに増し加わるのです。私たち一人一人、そしてグレンビュー教会も世の光として証をし続けて行きたいと思います。そしてキリストの愛と神の栄光を表すものとしていただきましょう。