2001年2月25日
ヨシュア記9−12章「救いへの選択」
序.今年の初めからヨシュア記を学んでいますが、もう2ヶ月たちました。そろそろ、
長いなと感じる方もおられるかも知れません。一体いつまで続くのだろう。ヨシュア
記は全部で24章あるのですが、その内容は二つに分けることが出来ます。前半の1
2章は、イスラエルがカナンの先住民族と戦ったことです。後半は、その勝ち取った
土地をみんなで分配することです。今日は、主に9章と10章を開きますが、11章
と12章にも触れますので、戦いについてお話しするのは今日で終わりです。次回か
らは、ヨシュア記のもう一つのテーマであります「土地の相続」を中心にメッセージ
を進めようと思っています。
さて、ここまで、イスラエルはエリコの町と戦い、それからアイの町と戦いました。
カナンの地には何十という都市国家がありましたので、全体から言えばまだごくわず
かと戦ったに過ぎません。この調子だと何章あっても戦いは終わりません。でも、ヨ
シュア記の目的は戦いの記録ではありません。ですから、ここからはあっさりと書か
れています。と言いますのは、カナンとの戦いに関して重要な事は、ほとんどエリコ
とアイとの戦いの中で書かれているからです。それは聖絶ということでした。あとは、
その原則に従って全ての町々を倒していく。ですから、後は簡単に書いてあります。
でも、最後にもう一つだけ詳しく書いてある事件があります。それが9章にでてきま
す、ギブオンの町と講和条約を結んだことです。と聞きますと、ちょっと変だと思わ
れるかもしれません。神様が命令されたのは、カナンに住む全ての民族を滅ぼし尽く
すことでした。エリコの町からラハブ一家が救われたのは例外ですが、でもこれはい
わば個人的な事です。ところが、ギブオンの場合は明らかに一つの町全体が滅びを免
れる。神様の命令に反するようですが、一体何故、そんなことになったでしょうか。
今朝は、このギブオンの事件を通して、一つの事を考えたいと思います。それは今
までずっと棚上げにしてきた問題です。すなわち、何故、戦争なのか、という問題で
す。ここまでは、戦いはある意味で前提としてお話ししてきました。つまり、戦うの
は避けられない事実であって、その中で、どのように生きるか、何が神様の御旨なの
か、といった事を考えてきました。でも今日は「そうして戦わなければならなかった
のか」、あるいは「何故、カナンの国々は滅ぼされたのか」という問題と向き合って
行きます。もちろん、戦いの原因の一つは、カナンの国々の罪に対する裁きでした。
彼らの罪故に滅ぼされなければならない。それなのにギブオンだけは助かった。他の
国々は滅ぼされた。一体何故なのか。そのことを9章から12章を通して見ていきま
す。
今日はお話を二つに分けます。まず最初は、ギブオンに与えられた救いです。「滅
びからの救い」ということです。それから、他の国々との戦いです。そこから「滅び
に至る罪」ということをお話しします。
1.滅びからの救い
さて、9章から12章にかけては沢山の地名が出てきます。当時はカナンの地
にはいくつもの都市国家がありました。それぞれの町に王様がいて、小さな国をなし
ていた。でも、どの町も私たちにはなじみの無い名前ばかりです。この書物が書かれ
た当時の人なら、それが何処にあったのか分かって読めたのでしょう。ちょっと余談
になりますが、「レフト・ビハインド」という小説を読まれた方もいらっしゃると思
います。シリーズ物なのですが、私も1巻だけをちらっと見ました。聖書に書かれて
いる「世の終わり」、すなわち「終末」をテーマにした小説ですが、その主人公がシ
カゴに住んでいる。ですから、マウント・プロスペクトとか、ノースウエスト・コミュ
ニティー・ホスピタルとか、それからセントラル・ロードまで出てくる。ここに住ん
でいる私たちは良く知っている名前なので、読みながら風景が目に浮かぶようです。
でも、もし日本にいる人が読んだら、全部「カタカナの名前」で、何のイメージも沸
かないだろうと思います。私たちがヨシュア記や他の聖書の箇所を読んでいて、色々
な地名が出てきても何だか分からないのと同じです。出来れば地図でも見ながら読み
進めると良いのですが、ヨシュア記の場合ですと、今から3000年以上昔の事です
し、ほとんど滅ぼされた町なので、多くはそれが何処にあったのか正確には分からな
くなっています。でも、大まかな事は分かります。
ちょっと、地図の話になります。歴史も地理も嫌いだったと言う人は寝てていいで
す。(先週もそんなこと言いましたが、本当に寝てた人はいませんでした。) 9章
から12章に出てくる地域をちょっと説明します。カナンの地というのは縦長、とい
うか南北に伸びた地域です。イスラエルはそこに東側から入って来ました。大体真ん
中よりちょっと南のあたりです。そして最初にぶつかったのがエリコの町。そのまま
西に進んだ所にあったのがアイです。その先にあるのが今日お話する、9章のギブオ
ンです。10章ではそこから南に進んでカナンの南半分の国々と戦います。11章は、
今度は北半分の国々との戦いです。まあ。ざっと、本当にざっとですが、そんな事を
頭に入れて置いて下されば結構だと思います。
さて、エリコが倒れ、アイが倒れて、順番では次はギブオンです。こういう順番は
いやですね。良いことのための順番なら嬉しいのですが、滅ぼされる順番。今度は自
分達がやられる番だ。そこでギブオンの人々は考えました。どうしたら助かるか。そ
して一つの計画を立てました。それはイスラエルを騙す計画でした。どこで聞いたの
か、イスラエルがカナンの全ての国々を滅ぼすように神様から命じられていることを
彼らは知りました。だから、助けてくれと正面から交渉してもダメです。正面がだめ
なら横から行って見よう。彼らは計略を立てました。古い服を着て、古い物を持って、
薄汚れた格好でヨシュアの所に行く。そして、遠くから来たと嘘をつくのです。カナ
ンの地に住んでいるのではなく、遠くから来たと言えば、油断するかもしれない。そ
こで講和条約を結んで、自分達を滅ぼさないように約束させるのです。カナンに住ん
でいることがばれたら、契約を結ぶことは出来ないが、遠くの国となら大丈夫だろう。
そういう計画です。
嘘をついてまでして、助かろうとするなんて、みっともないと思うかも知れません。
でも、ギブオンが救われた理由はここにあるのです。滅びから救われるために、格好
とか、プライドに拘るのではなく、必死に救いを求める。彼らはイスラエルの神の力
を知りました。自分達が滅ぼされる存在で在ることも知りました。でも、彼らはイス
ラエルの神に救いを求めにやってきたのです。方法に問題が無いわけではない。ラハ
ブの場合もそうでした。でも彼らは他に方法が分からなかった。でも、神様は救いを
求めて来る者を決して蔑ろにはしない。昔も今も変わらない真実です。
さて、イスラエルの人々はどうしたか。良く考えれば子供でも見抜けるような嘘で
す。事実イスラエルも少し疑いました。でも、詳しく調べることもしなかった。何よ
りいけなかったのは、神様に尋ねることをしなかったのです。神様の命令に従うべき
ことを何度も学んだ。それなのにまた失敗です。でも、良く考えると、私たちの救い
も同じかもしれません。神様が義であることを深く考えるなら、私たちは罪人ですか
ら決して赦されることは出来ない。ギブオンと同じく、救いは不可能なのです。とこ
ろが、神様は私たちのために救い主を送って下さった。でも、この救い主は殺されて
しまった。人間的な見方をすれば、失敗です。ところが神様はその失敗を成功に変え
て下さった。その十字架を通して私たちを救って下さり、赦されるはずのない、救わ
れることのできない、私たちを、赦し救って下さった。実に不思議な神様の御業です。
ヨシュアやイスラエルのリーダー達のしたことは明らかに失策です。でも、救いを求
めて来たギブオンのために神様はその失敗さえ用いたのかも知れません。
二、三日たって、やっぱり嘘はばれました。ギブオンはイスラエルのすぐそばに住
んでいる。それなのに彼らと講和条約を結んでしまった。世論が批判しました。その
とき、指導者達は妥協策を立てました。それは、ギブオンの住民をイスラエルの奴隷
とすることでした。具体的には、彼らは薪を集め、水を汲む係りとなりました。今と
違って、ワンタッチで火をおこし、蛇口を捻れば水がでる、わけではありません。結
構辛い仕事です。でも、神様を礼拝するためにはどうしてもしなければならない。当
時は、礼拝とは動物を火で焼いて神様に捧げることです。そのために薪が沢山いる。
また、牛や羊の血で汚れます。洗うための水がいります。その働きをギブオンの住民
にやらせよう。何だかギブオンから言えば嬉しい話ではなさそうです。でもそうでしょ
うか。
世の中の価値観から見れば、奴隷とされるなんて滅ぼされるのと対して違わない。
でも、本当は大きな違いがあります。ギブオンは絶滅を免れたのです。滅びから救わ
れたのです。それだけでも大きな事ですが、さらに彼らは神様に仕える者とされたの
です。主の祭壇に仕えるというのは、いわばレビ人だけに与えられた特権です。その
特権に、異邦人であるギブオンが与った。ですから、これは神様から与えられた祝福
でもあるのです。
私たちは救われる資格が無いのに救われました。そして神の民とされ、神に仕える
祝福に与った。でも、それが祝福であることが理解できるためには、実は私たちの価
値観が変えられる必要があります。世の中の価値観では、自分が中心です。自分のた
めに他者が存在する。だから、仕えるというのはいやなことです。ところが聖書を学
んで分かるのは、自分が王様、自分が中心であるときに、人間は罪に支配され、間違っ
た生き方をしてしまう。その行き着く先が滅びです。それが、神様に仕え、お互いに
仕える者とされたというのは、そのような自己中心の生き方から解放されたという事
なのです。そして、「僕達は知っていた」という言葉が聖書にありますが、仕えるこ
とでますます神様の恵みを知るようになる。ですから、奉仕をすることもお互いに仕
えることも、素晴らしい祝福なのです。これが救われた者の価値観であり、存在意義
なのです。クリスチャンとなったというのは、この新しい価値観に生きる、新しいア
イデンティティーに生きることです。そうするときに、古い目で見たならば理解でき
ないことが、実は大きな恵みであることを悟るのです。
ギブオンは、独立国家からイスラエルに支配される者となったのか。彼らは自由人
なのか、奴隷なのか。そうではなく、彼らは神の僕とされた。それこそ本当の救いで
あり、自由なのです。
さて、こうしてギブオンは救いを受けました。では、なぜ他の国々は救いを与えら
れなかったのか。そのことを次に見て行きます。
2.滅びに至る罪
ギブオンの救いというのは、カナンの国々から見ますと、裏切りです。これか
らイスラエルと戦おうとしている時に一つの町が寝返った。普通の戦いなら、こうい
う場合、どうすればよいか。まず、これ以上寝返る者が出て戦いが不利にならない内
に早く勝負に出る。それから、寝返る者が起こらないようにする。それが10章の始
めに出てくる事件です。1−4節。エルサレムの町は、順番から言って次、という訳
ではありませんが、距離的には近いところにあります。そこでエルサレムの王が中心
となって、南部の5人の王が連合を組みました。そして彼らが攻めたのはギブオンで
す。これにはさっき言った二つの理由があります。イスラエルの同盟国となったギブ
オンを倒すことで、イスラエルの力を弱める。それと同時に、他に寝返りをしそうな
人々への見せしめにする。そこで5人の王の軍勢はギブオンを包囲しました。ギブオ
ンは同盟国であるイスラエルに助けを求め、ヨシュアが駆けつけます。ギブオンはイ
スラエルの手から救われただけでなく、他のカナンの国々の手からも救われることに
なるわけです。が、それは置いといて。
急な戦いでしたが、イスラエルは神様の奇跡的な助けがあって連合軍に勝つことが
できました。そして、エルサレムを除く他の町々を一気に攻め、南部を征服しました。
11章に進みますと、この状況を聞いた北部の国々がもっと強力な連合軍を形成し、
戦いに出てきます。イスラエルはそれにも勝つのですが、北部の王達との戦いは時間
がかかったようです。しかし、やがて、北部連合をうち破り、11章の最後には「そ
の地に戦争はやんだ」と書かれています。12章は、民数記からの戦いの総復習です。
カタカナの名前がずらりと並んでいますので、読まないでおきましょう。でも、何故、
これらの国々は滅ぼされたのでしょうか。
10章の始めで南部の5人の王が手を組んだときと、11章の始めで北部の連合軍
が出来たときで、共通する言葉が出てきます。それは、どちらも、「聞いた」という
ことです。イスラエルがエリコとアイを倒したことを聞いた。またイスラエルが南部
の国々を一気に倒したことを聞いた。ところが、9章の3節を見ますと、ギブオンの
住民も「聞いた」のです。同じ事を聞いて、ギブオンは救いを求め、他の国々は戦い
を求めた。そして自ら戦いを挑んできて滅びを早めました。どうも、そこに一つの違
いがあるようです。どちらもイスラエルの神の力を知りました。自分達が滅ぼされよ
うとしていることも聞きました。しかも、ギブオン以外の国々は、ギブオンが降服し
て助かったことも聞いたのです。つまり、救いの可能性を知ったにも拘わらず、なお
神様に逆らうことを選んだ。これが彼らの滅んだ理由でしょうか。でも、疑問が残り
ます。ギブオンが救われたのなら、なぜ神様は他の国々も滅ぼすことを中止しなかっ
たのか。そもそも、何故神様は彼らを聖絶しようとされたのか。罪が在るのはギブオ
ンも同じ、イスラエルも同じではないのか。神様が戦いを始めなければ良かったので
はないか。
そういう事を考えるときに、一つ気になる箇所があります。それは11:20。こ
れを読むと、最初は、神様が彼らを滅ぼすために彼らに戦いの心を起こさせた、と思
います。じゃあ、人間が罪を犯すのも、神様がそうさせたのか。それなのに滅ぼすな
んて、神様は酷いことをする。この理解は、半分は正しく、半分は間違っています。
一面では、神様は全ての事を支配しておられ、カナンの王達が救いも降服も拒み、戦
いに拘ったのは神様から出ている。人間が罪を犯すのも神様の支配の中にある。とこ
ろが、もう一面では、罪を犯すのは人間が選んだことであり、戦いを選んだのは王達
だったのです。これは、難しい言葉で言えば、神の主権と人間の自由意志の問題と言
われる問題です。
神様が全てをコントロールしておられる、ということと、人間には自由意志があり、
自分で何をするかを選べる、ということは、一見相反することです。これを片方だけ
強調すると、変な結論になり得ます。もし、神様の主権だけを強調すると、人間の救
いも滅びも神様が決めなさったことだから、人間にはどうすることもできない。救わ
れる者は放って置いても救われるし、救われない者は何をしても救われない。伝道す
るのは無意味となります。また、罪の責任も最終的には神様のせいになる。でもこれ
は行き過ぎた理論です。反対の極端は、全て人間の自由意志にしてしまう。人間は自
分で自分を救う道を選ぶことができる。だから、救いは自分の力によることになる。
これも聖書の主張から外れます。
これが問題になるのは、神様の主権と人間の意志とを同じレベルで戦わせるからな
のです。神様が支配しておられると言うことと、人間が自らの意志で行動することと
は、全く次元が異なる話なのです。
良い例か分かりませんが、食べ物の事を考えて見ましょう。私は、スパゲッティー
とカレーくらいしか作れません。後は何を作っても美味しくない。でも、グレンビュー
のご婦人方は素晴らしい腕を持っておられる。同じ材料を使っても、皆さんが作られ
たら美味しいご馳走になるでしょうが、私が腕をふるうと食べられない代物ができる。
犬も食べない、とか、猫またぎ、なんて言葉もあります。でも材料は同じなんだから、
おなかに入れたらみんな同じ。いや、物理学の世界では、素粒子レベルで考えれば、
食べ物も、石や土も、同じものから出来ている。だから何でも同じ、何でも食べられ
る。そうではありません。違う次元の話を一緒にしてはいけないのです。
神様が全てを支配しておられるのは真理です。しかし、どのように支配しておられ
るかは、人間の理解を超えた所です。ですから、私たちは、神様が全てを支配してお
られることを、信仰によって告白することは出来ますが、それを完全に理解しようと
したり、理解しているつもりで批判することはできません。人間の理解できるのは、
私たちには自由意志が与えられており、救いの道を選ぶか、罪の中に留まるか、とい
う選択が目の前に置かれている、ということです。救いは神様が与えて下さることで
す。恵みも神様から来るものです。でもそれを受け取るかどうかを決めるのは人間に
与えられた自由意志によって選ぶことです。
ギブオンが救われたのは、彼らが神様に救いを求めることを選んだからです。他の
王達が滅ぼされたのは彼らが救いの方法を知りながら罪の道を選んだからです。そし
て、それこを滅びに至る罪なのです。確かに、ソドムやエリコのようにカナンの罪は
酷かった。でも、程度こそ違え、イスラエルも罪人です。神様から見れば同じです。
でも、救いを拒絶する罪は、確実に滅びに至るものです。
まとめ. 選択はいつでも私たちの目の前にあります。もし救いを求める道を選ぶな
ら、例え時間はかかっても必ず救いにたどり着きます。いえ、それを選んだ時から救
いはスタートしているのです。救われてからも選択はあります。何か問題が起きたと
きに、それを御言葉に従って考えることを選び、神様の御心を求めるか、それとも世
の中の価値観の中に留まり、不平不満に進むか。恵みから恵みに進む道を選んでいく
ならば、神様の祝福を、さらに豊かに味わうことができるのです。「求めなさい、そ
うすれば与えられる」とおっしゃる神様の前に進み出ようではありませんか。