2002年2月24日「イエスキリストにとどまる」ヨハネ15章1ー17節
イントロ
「クリスチャンにとって、最も心がけるべきことは何ですか?」と質問されたら、あなたならどう答えるでしょうか? 「主の戒めに従うこと」、「兄弟・姉妹に親切にすること」、「まだキリストを知らない人に福音を伝えること」、「主の御姿に近づくこと」等、様々な答えが返ってくることと思います。 これらは全て大切なことです。 しかし、イエスさまは、たとえを用いて、私達が本当に心がけるべきことを教えて下さっています。 本日は、イエスさまのぶどうの木のたとえ話を通して、私達の最も心がけるべきことについて、共に学んでみたいと思います。
背景
本日の聖書箇所であるヨハネ15章1−17節は、イエスキリストの送別説教、十字架につけられる前の日、すなわち最後の晩餐の夜、弟子達に語られた一連の説教の中に含まれています。 最後の晩餐の時ですので、私たちも聖餐式でなじみ深いように、イエスキリストが、ご自分の血と肉によって、新しい契約を弟子達と結ばれると話された時です。 本日取り扱うぶどうの木のたとえは、まさにこの新しい契約の中核について、イエスさまが語られているところです。
旧約聖書の中では、ぶどうの木というのは、神に選ばれた民、“イスラエル”をずっと表してきました。 しかし、このぶどうの木は、罪を重ね、良い実を結ばすことができず、荒れ果ててしまいました。 それに対し、イエスさまは、ご自分のことを、「まことのぶどうの木」と呼ばれています。 良い実をならすのに失敗してしまったイスラエルとは違って、良い実を豊かに実らせることのできるまことのぶどうの木だというのです。 神さまの私たち人間との新しい契約とは、イスラエルという民族に属することによってではなく、このキリストに繋がることによって、成り立つものであるということを、このたとえは、強烈にアピールしています。
確かに、新しい契約の中核は、このまことのぶどうの木であるイエスさまにしっかりと繋がるところにあるのです。 本日、共に見ていくこのぶどうの木のたとえは、新しい契約の下に生きる私たちクリスチャンにとって、この上なく大切な事を教えてくれます。 それは、「イエスキリストに繋がること、それこそが、私たちの霊的生活の始めであり、また、全てである。」ということです。
では、このたとえから、4つの質問 ― 1)キリストに繋がった結果、一体何が起こるのか? その結果について、2)どのようにして、キリストにとどまるのか? その方法について、3)何が私たちをとどまらせしめるのか? その動機について、4)何のために、私たちはキリストにとどまり、実を結ぶのか? その目的について、をテキストを追いながら、順番に答えていきたいと思います。
まず始めに、本日の聖書箇所であるヨハネの福音書15章1節から17節までの構成について、少し触れたいと思います。 この箇所は良く読んでみると、大きく分けて二つのパートより成り立っていることに気付きます。 1−8節までと9節―17節の二つのパートです。 前半は、ぶどうの木のたとえを紹介しているパートであり、後半は、そのたとえを解説しているパートです。 前半でわかりやすく絵画的表現を用いて、クリアーなイメージを持ってもらい、後半で、その意味するところを具体的に解説しているわけです。 ですから、本日は、前半と後半を折り交えながら、話をしていきたいと思います。
I. 結果:どどまった結果、何が起こるのか? (1−7)
では、まず、そのたとえで用いられている絵を共に描いてみたいと思います。 目を閉じて、ぶどうの木を想像して下さい。 大きな幹に無数の枝がついている。 そして、その枝には、良く実ったおいしそうなぶどうがたくさんなっている。 とても素晴らしいぶどうの木だな、と見とれつつもっと近寄ってみると、木全体、全てが素晴らしいのではないことに気付く。 よくよく見てみると、素晴らしい実を付けた枝と、そんな素晴らしい枝の影で、全く実のなって無い枝とがある。 すると、農夫がやってきて、実のなって無い枝と切り落とし、実を結ぶものが、さらに多くの実を結ぶことができるようにと刈り込みをする。 そんな絵が想像できたでしょうか?
イエスさまは、ご自分がそのぶどうの木そのものだと言っています。 木の幹と考えた方がいいのかも知れません。 そして、私たちは枝です。 実を結んでいる者と実を結んでいない者がいるわけです。 枝が実を結べるかどうかは、幹にちゃんと繋がって、そこから必要な水や養分を吸い取っているかどうかにかかっています。 4節後半、「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。」 当然の自然原理です。 このように自然界で当たり前のこと、小さな子供達でも簡単に理解できる原理を、私達は自分の霊的生活でなかなか当たり前のことと受け入れられないのです。 5節後半、「私を離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」 これはもちろん、クリスチャンとして霊的な実を結ぶことができないと言っているのです。
実を結んでいない枝は、見た目は幹に繋がっているように見えるけれど、実際中身は死んでいて、あるいは、付け根の部分で折れてしまっていて、幹からの養分を吸い取っていないのです。 同様に、キリストに繋がっているように見えるけれども、実際はキリストから何も受けず、実を結んでいない者がいる、ということです。 その実を結ばない者の行く末が、2節と6節に描かれています。 父がそれを取り除き、投げ捨てられ枯れてしまい、ついには火に投げ入れられて燃えてしまう。 “火に投げ入れられ燃える”という表現は、聖書の中でたびたび登場する“神の裁き”を表す表現です。 実を結ばない者は最後の裁きにあうということです。
そうなると、心に不安が立ちこめてきます。 クリスチャンでも裁かれるのか? しかし、他の聖書箇所で、キリストの贖いを受けたものは、決して裁かれないと明言されています。 ですから、クリスチャンが裁かれることはないのです。 クリスチャンとは、全ての養分の源であるイエスキリストにしっかりと繋がり、イエスキリストがその人の中にとどまっている人のことです。 しかし、クリスチャンぽく振る舞うことは、イエスキリストに本当に繋がっていなくてもできるのです。
3節、イエスさまは弟子達に、「あなたがたは、私があなたに話したことばによって、もうきよいのです。」と語っています。 この“きよい”と訳されている語と、2節の“かりこみをする”という語は、同じ語源の言葉が用いられています。 この弟子達は、「あなたがたは、すでに刈り込みをされた実を結ぶ枝なんだよ。 繋がっているんだよ。」と言われているわけです。 13章で、イエスさまは同じようなことを言われています。 ちょっと、13章10節後半を見て下さい。 「あなたがたはきよいのですが、皆がそうではありません。」 13章と15章では、聞いている弟子達の顔ぶれに若干の変化があります。 一人足りなくなっているのです。 13章11節、「イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいのではない。」と言われたのである。」とあります。 イスカリオテ・ユダが減っているのです。 ユダは、12弟子の一人として、いつもイエスさまの側にいました。 周りの人達には、「あの人は、イエスさまの選ばれたお弟子さんだ」と際だって映っていたことでしょう。 「きっと、イエスさまのことをとても良く知っていて、付き従っているんだな」と。 ところが、そうではなかった。 3年もの間、苦楽を共にしながらも、ユダはイエスさまに繋がっていなかった。 ユダには何の実もなっていなかったのです。 繋がるとは、ただ知っているとか形だけで従っているとかいうものではないのです。 繋がるとは、イエスさまから実を結ぶための養分を、自ら進んで、積極的に得ることなのです。 繋がるとは、選んですることなのです。 自動的に繋がっているなんてことはないのです。 だからこそ、15章4節で、イエスさまは、「私にとどまりなさい。」と命じられているのです。
ところで、実を結ぶとありますが、ここでいう実とは一体何なのでしょうか? トリニティ神学校にいらっしゃる新約の権威であられるカーソン教授は、その実とは、“従うことであり、愛することであり、霊的に成長することであり、そして新しい信者を得ることである”と解説書に書かれています。 全て、クリスチャンとして、追い求めて行くべきものです。 しかし、気をつけなくてはならないのは、これらの実は、あくまでも、キリストに繋がったことの結果であって、それ自体目的ではないということです。 15章、始めから終わりまで、イエスさまが、「実を結びなさい。」と命令されているところは一つもないのです。 これらの実は、キリストに本当に繋がることにより、聖霊の働きを得て、クリスチャンの生活の中で当然見えてくるべきものなのです。 なぜなら、7節、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたの欲しいものを求めなさい。 そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」 そのような実は、神様が祈りを通して、与えて下さるからです。 私達にとって、最も大切なのは、キリストにとどまること。 「私にとどまりなさい。」というのがイエスさまの命令なのです。
私たちは、日々、キリスト者として、主の御姿に近づこう、主と共に歩もうと奮闘しています。 しかし、それは、キリストに繋がろうという努力でしょうか? 実を得ること自体を目的としてはいないでしょうか? イエスキリストを抜きにして、良いことを行うことだけに熱心になっていないでしょうか? 人に福音を伝えようとするとき、キリストと共にではなく、一人で、自分の力や知恵をもってやろうとしてはいないでしょうか? あるいは、自分の力できよくなろうと、禁欲に励んでいないでしょうか? 実はあくまでも結果です。 私たちが追い求めるべきものは、実自体ではなく、その実を結ぶのに必要な全てを与えて下さるイエスキリストに積極的に繋がること・とどまることなのです。
II. 方法:どうやってとどまるのか? (9―10,12―13、17)
次の質問に移りたいと思います。 イエスキリストに繋がること、とどまることが最も大切なことだということを学びましたが、では、どうやってとどまればよいのでしょうか? その方法について、見てみたいと思います。 9節で、イエスキリストにとどまるとは、キリストの愛にとどまることだ。」と言っています。 愛の中にとどまる。 これまた、よくわからない表現です。10節、「もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたは私の愛にとどまるのです。」 イエスキリストの愛にとどまるとは、イエスキリストの戒めを守ることだ、と言っているわけです。 では、イエスキリストの戒めとは何なのでしょうか? 12節、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これが私の戒めです。」とあります。 イエスキリストの愛にとどまるとは、私たちが互いに愛し合うことだと言っているわけです。 ここで、イエスさまが律法を持ち出してきて、一つ一つ戒めを並べ立てていないところに注目して下さい。 イエスさまの戒めとは、ただ一言、“互いに愛し合うこと”なのです。 それは、イエスさまが最も大切な律法について質問を受けたとき、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とおっしゃったのとつじつまが合います。
「なあんだ、ただ愛し合えばいいのか、結構簡単そうじゃないか。 しかも、前半の神を愛せという部分はなしで、後半の隣人を愛せというところだけだし…。」なんて感じられた方もいらっしゃるかも知れない。 確かにあれしちゃいけない、これしちゃいけないという律法を持ち出されるよりは、少なくとも前向きに感じられるとは思います。 しかし、イエスさまは、律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているとおっしゃっているのです。 愛することは全ての律法の基なのです。 そして、実は、この神さまへの愛と隣人への愛は、お互いに深く結びつき合っていて、切っても切れない関係にあるのです。 イエスさまは、どういった意味合いで、この“互いに愛し合うように”という戒めを与えられたのでしょうか? 次の節を読むと、その意味の深さに驚かされます。 13節、「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません。」 突然、簡単には感じなくなったのではないでしょうか? イエスさまの言う愛は、無条件・絶対の愛です。 それは、自分自身よりも、他を優先させる愛です。 その究極的な形が、その友のために命を捨てるという行為なのです。 このレベルに於いて、愛せとおっしゃっているわけです。 ただ、教会で会った時に親しく挨拶するとか、困っている時に自分の計画や生活パターンを崩さない範囲内で助けてあげる、といった次元ではないのです。
私たちには、そのような深い愛を実践できるのでしょうか? 自発的に、自分の命を犠牲にして、他人に仕えることなどできるのでしょうか? 自分中心に生きる私達人間には、実際、できないことです。 自分自身が自分のど真ん中に君臨して、自分に都合の良いように周りを動かそう、変えようとしている者には、不可能なことです。 だからといって、自分の中心に、自分自身の代わりに他人を入れるなんていうことは、なおさらできることではない。 もし、できるとすれば、それは、取って代わる相手が、自分よりもずっとずっと優れた存在で、自分の財産・家庭・将来・そして自分の存在さえをも、全て責任を持って面倒見て下さる方だと心から信頼することのできる方であった場合のみであり、また、聖霊が心の中で働いて下さってそれを可能として下さった場合のみです。 他の人間を、自分の中心に据えるというのは、洗脳されたりすれば別ですが、自発的にというのであれば、まず不可能でしょう。 自分の中心に自分以外の者に座ってもらうというのは、言い換えれば、自分自身を死に渡すという行為でなのです。 自分自身に死んでいなければ、人のために死ぬことなどできない。 したがって、他人のために命を捨てるためには、まず自分自身に死んでいなくてはならない。 すなわち自分自身ではなく、神さまに自分自身の中心に座っていただいていなくてはならないのです。 自分自身の中心に神さまに座っていただく、すなわち心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、主を愛さない限り、隣人を自分自身のように愛すことはできないし、また、隣人を愛するという行為が見えてこないと、本当にそのように全てを尽くして神を愛しているかどうかはわからないわけです。 このように、この二つの戒めは、相互補完関係にあり、どちらか一方だけを満たすことなど実際にはできないのです。
イエスさまは、まさにこのことを実践されました。 自分自身の中心に父なる神を置き、神の御心を行うことを一番とされた。 そして、自ら進んで、私たちの身代わりとなって、十字架上で命を投げ出すことにより、私たちへの愛をまさに余すところなく示されたのです。 イエスさまは完全な形で、神への愛、人間への愛を実践されました。 神さまは、私たちにも、イエスさまの模範にならって、同じように完全な神様と隣人への愛を実践することを期待されています。 心から望んでいらっしゃるのです。 しかし、また、私たちがそれを完全には実践できない弱い者であることもよく御存知です。 神様は、完全にできないから、また弱いからといって、それをもって、切り捨てたりなさる方ではありません。 むしろ、完全にはできなくても、うまくできなくても、ただひたすら完全を目指すその心を見られる方です。 何回失敗しても、あきらめてしまわず、何度でも立ち上がるその意気を見られる方です。
私たちは、お互いに愛し合うよりも、お互いを競争相手と見てしまったり、お互いを裁いたり、けなしたりしがちな者です。 本当に愛する自分の家族、配偶者、親、子供、兄弟にでさえ、一日のうちで、愛を示している時間と、裁いたり、いらだったり、怒ったりしている時間のどちらの方が多いか、じっくり考えてみて下さい。 深く反省させられます。
しかし、できていないこと自体が悪いことではありません。 自分には向いてない、そのように生まれついていない等と言い訳を並べて、諦めてしまうことがいけないのです。 うまくできなくても、失敗しても、何度でも挑戦を繰り返すことが大切なのです。 できていないなと自覚したとき、すぐに、正直にイエスさまに立ち返り、自分の中心に座ってもらうことが重要なのです。 イエスさまにとどまる方法は、私たちがお互いに愛し合うこと、そして、その為に、何度も何度も自分自身に死を言い渡して、神様に自分の中心に座っていただくことです。
III. 動機:何が私たちをとどまらせしめるのか? (11、14−15)
失敗しても何度でも立ち上がって、イエスさまにとどまろうとするには、それを可能にせしめる強い動機が必要になります。 次の質問は、何が私たちをキリストにとどまらせる力になるのか? 私たちがとどまろうとする動機について見てみたいと思います。 私たちはなぜ、キリストにとどまろうとするのでしょうか? 裁きが怖いからでしょうか? キリストの命令だから、しょうがないからでしょうか? キリスト者として当然で、守るべき事柄だからでしょうか? しかし、先程から私は、“自発的に”という言葉を用いています。 神様は私たちに義務感や恐怖からではなく、自発的にキリストにとどまり、神を愛し、隣人を愛して欲しいのです。
では、何が動機となりうるのでしょうか? 11節、「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」とあります。 その動機とは、喜びです。 しかし、自分を殺して、神と人とを愛すというのは、決して、楽しいばかりの経験ではないですよね。 楽しいよりも、むしろ苦しい、大変な思いをすることの方が多いと思うのです。 どうやって、自分を犠牲にして、喜ぶことなどできるのでしょうか?
ポイントになるのは、イエスさまの言う“私の喜び”という言葉の中にあるようです。 キリストの喜びとは一体何なのでしょうか? 9節、「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛しました。」 10節、「それは、私が私の父の戒めを守って、私の父の愛の中にとどまっているのと同じです。」とイエスさまはおっしゃっています。 父なる神は、一人子イエスさまを心より愛されました。 そして、イエスさまを信頼し、大切なミッションに送り出しました。 イエスさまは、その父の思いを知り、また深く愛されていることを感じつつ、そのミッションを忠実に果たしました。 確かに、そのミッションは困難や苦痛を伴うものでした。 しかし、それを上回る喜びがイエスさまの心を支配していた。 それは、父との深い愛の上に成り立つ信頼関係です。 父なる神とイエスさまはまさに文字通り一つになっていたのです。 たとえどのようなことが起きようとも、決して変わらない深い関係は、強固な一体感を生み出します。 全能の神、決して裏切ることのない父との一体感こそが、イエスさまの喜びの原点なのです。 どのような困難や苦痛が伴おうとも、自分自身を否定して、父の御心を行うことこそが、その信頼関係をさらに深め、その絆を強くするのだという確信があったからこそ、イエスさまは、喜ぶことができたのです。
私たちが本当に求めているものとは、一体何なのでしょうか? 心の満たし、平安、安らぎ、安心感、そういった類のものなのではないでしょうか? そういったものが満たされたとき、本当の喜びを感じるのではないでしょうか? ところが、そういったものはお金では買えません。 また、自分に能力や知識があるから勝ち取れるというものでもありません。 そういったものがあればあるほど、むしろ遠ざかるものなのではないでしょうか? いつ、私たちは、心の安らぎを得るのでしょうか? 子供の時を思い出して下さい。 不安なとき、傷ついたとき、悲しいとき、何が一番の癒しになったでしょうか? お父さん、お母さんの抱擁ではなかったでしょうか? 自分を良く知っていてくれて、心から愛してくれていて、全て委ねることのできる存在に、そっと抱きしめられることほど、心に安らぎを与えるものはありません。 イエスさまの言う、「私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされる」とは、まさに、イエスさまが味わっている父なる神さまとの絶対的な信頼関係、その一体感が生み出す安らぎのことを言っているのです。
また、14,15節で、イエスさまは私たちのことを“友”と呼んでいます。 「私があなたがたに命じることを、あなたがたが行うなら、あなたがたは私の友です。 私はもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。 しもべは主人のすることを知らないからです。 私はあなたがたを友と呼びました。 なぜなら、父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」 イエスさまが私たちを友と呼んだからといって、私たちとイエスさまが横並びの関係になったということでは、もちろんありません。 イエスさまはあくまでも私達の王である神の御子です。 言ってみれば王子なわけです。 でも、王子も友を持ちます。 王子の友はしもべの一人ではあるけれども、ただのしもべの持ち得ない特権を有しています。 しもべは、ただ、主人の言うことを行うだけの存在ですが、友は、主人の思いを知り、その信頼を得、誇りを持って仕えます。 イエスさまは、まず、弟子達を、そして私たちを信頼し、父の御心を知らせました。 命令されるしもべという扱いではなく、信頼できる同士としての扱いをされたのです。 父とイエスさまのその一体感の輪の中へ入れて下さったのです。 私たちが、喜びを持って、試練に立ち向かうことができるように。 どのような困難が来ようとも、どんな誘惑に会おうとも、父なる神との、そしてイエスさまとの信頼関係を優先できるように、また、その危機を乗り越えたときに味わえるさらなる強い一体感に包まれ、喜びにあふれるようにと。
あなたの主と共に歩もうとする動機は、どこから来ているでしょうか? 義務感からでしょうか、周りからのプレッシャーでしょうか、それとも、主との一体感から来る喜びでしょうか?
わたしは、サウスダコタにいたとき、その喜びの片鱗を感じたことがありました。 実は、その喜びが感じ取れたからこそ、神にフルタイムで仕えていく決心ができたのです。 忙しい日本でのビジネスマン生活から離れ、サウスダコタに来て、時間的にも心情的にもゆとりが与えられ、自分の人生を振り返る良い機会が与えられました。 また、本当のクリスチャニティ、神と人との温かい愛に触れる機会も与えられました。 自然と、神様が自分をこの地に送られた意義について考え始めました。 そして、徐々にそれが、自分が肌で体験したキリストの愛を日本に戻って伝えることではないかと思うようになりました。 しかし、私はそれがどうしても嫌だった。 「自分は人前で話したり、人の問題に頭をつっこんだりするのが、何よりも好きじゃないし、得意でもない。 ミニストリーなんてその嫌いなことのかたまりのような仕事じゃないか。 どうか神様、それだけは勘弁して下さい。」 半分祈るような気持ちで、その湧き起こる気持ちを否定しようとしていました。
ところが、ある夏、シアトルの方へ仕事探しに行こうと考えていたのが突然だめになり、すぽっと空いた夏の日々を何か為になることがしたいと探していた折り、牧師からCEF
(Child Evangelism Fellowship)がサマータイムワーカーを募集しているから応募してみたらどうだと言われました。 CEFとは、サマーワーカーを訓練して、夏休み中の子供達に福音を伝えようとする働きをしている団体です。 私は、今もそうですが、当時、まだ英語がさっぱり話せず、せめて英語を上達したいと考えていたので、その助けにもなるかと思い、恵美と共に応募しました。 そして、その訓練のために合宿に行ったのですが、その時に大変な目に遭いました。
そのサマーワーカー達というのは、大方、中学生で占められていて、私達のような中年はほとんどいないのです。 もちろん外国人は私達だけ。 自分の息子・娘でもおかしくない子供達に囲まれながら、しかも、彼らの方が遙かに上手に何でもこなすのです。 こちらは片言のめちゃくちゃな英語で話したり、紙芝居をするときでも、裏に全部書いておいて、それを悟られないように読むのが精一杯です。 それに対し、彼らはおもしろおかしく、自分の言葉で話すのです。
私はその事でかなり落ち込みました。 自分の築き上げてきた自信ががたがたに崩れたのです。 「自分は日本にいたとき、たくさん稼ぐことのできた優秀なビジネスマンだったんだ!」 崩れそうになりながら、そう自分に言い聞かせて、プライドを保とうとしましたが、現実、私はその中学生の1/10も仕事をこなせなかったのです。 私が初めて、ただの人間としての無力な自分を意識したときでした。 こんな仕事受けなきゃ良かったと後悔しつつ、子供達の前でしどろもどろに話す自分を情けなく思いながら、何日か経ちました。 ただ、義務感で毎日、子供達を教えに出て行っていたのです。
ところが、ある日、考えられないことが起こったのです。 このプログラムは、あるホストの人が近所の子供達を集めて、その方の家あるいは裏庭で、月曜から金曜まで5日間、同じ場所で同じ時間に、私達ワーカーがチーム単位で派遣されて、紙芝居をやったり、歌を歌ったり、暗唱聖句をしながら伝道するのです。 私は、とにかくうまく話ができないので、水曜日だけ紙芝居をして(というのは、水曜日は中日でどちらにしても中だるみするので大して重要ではない)、あとの日は、簡単な大してしゃべらなくてもいい仕事を割り当ててもらっていました。 紙芝居は一応、毎日のメインイベントであって、お話しした後、子供達にキリストを受け入れるよう促すのです。 ある水曜日、しどろもどろになりつつも、お話をした後、子供達に主を受け入れるよう促しました。 すると、なんと、2人の男の子が手を挙げるんです。 私はびっくりしました。 別に今日じゃなくてもいいのです。 昨日は、ずっと聞き易かっただろうに、明日はまた、もっとよくわかるお話だろうに。 でも、彼らはその日、私のしたしどろもどろのメッセージに対して、応答したのです。 その瞬間、彼らの永遠における運命は変わったのです。 その時、私は確信しました。 私が自分で話していると思っていたこのメッセージは、実は神様が話されていたんだな。 また、このようなぼろぼろで小さい者をも、神様はご自分の栄光のために用いられるんだなと。 その瞬間、神様の大きな計画と愛の中に入れられている自分に気付き、何とも言えない充実感と喜びに包まれたのです。
そして、その喜びが、私に、神様の召しの呼びかけに対し、「こんな私ですが、あなたが用いようと思われれば、用いられることもできるとわかりました。 何ができるかはわかりませんが、とにかくあなたが私を呼ばれるのであれば、付き従います。」と答えさせたのです。
喜びや一体感による安らぎは、私達をイエスキリストにとどまらせようという、本当に大きな原動力となります。 イエスキリストに繋がれば繋がるほど、その喜びは大きくなり、また、その喜びのゆえに、さらなる試練へと立ち向かえるようになるのです。
IV. 目的:何故とどまり、実を結ぶのか?(8,16)
では、最後に何故、私たちはキリストにとどまり、実を結ぶのか? その目的について、見てみたいと思います。 8節、「あなたがたが多くの実を結び、私の弟子となることによって、私の父は栄光をお受けになるのです。」 私たちが、キリストにとどまること、また、その結果として、多くの実を結ぶことによって、神様が栄光を受けるのだというのです。 栄光は、神様の全ての行いの原点になっています。
神様はご自分の栄光を顕わすため、全宇宙を創造されました。 そして、その最高傑作として、人間をご自身のかたちに似せて、お創りになりました。 罪によって堕ちてしまった人間を贖うために、すべての計画を立てられたのも、そしてそれを歴史の中で実行に移されたのも、ご自身の栄光を顕わすためでした。 その贖い主として、この世に送られたイエスさまが、十字架で血を流されたのも、父なる神の栄光を顕わすためでした。 そして、その計画の一番最後のフィナーレは、天の御国での、全ての創造物による、地を揺るがすような、心を尽くした神への礼拝です。 その時こそ、神の栄光は完成されるのです。 そのフィナーレへの最後のステップとして置かれているのが、私たちがキリストにとどまり、実を結ぶことによって顕わされる神の栄光なのです。 この最後のステップ無しに、神の栄光は完成されないのです。 私たちは、神様の長年を費やした壮大な計画の大切なとりの部分を担っているのです。
私たちは自分の力でその計画の一部に入ったわけではありません。 イエスさまが、私たちを選び、その計画の一部に携わることができるよう、任命して下さったのです。 16節、「あなたがたが私を選んだのではありません。 私があなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」 神様は、自分の罪の中に滅び行く私たちを愛をもって選び、恵みをもって救い出し、このように頼りない私たちを信じ、神の壮大な計画の最後の部分を飾る大切な仕事へと遣わして下さったのです。 私たちは、もう一度、神様が、どれほど私たちを愛し、信頼し、期待して下さっているかを思い返すべきではないでしょうか?
私達がクリスチャンとして、多くの実を結ぶこと、すなわち、主に従い、神と隣人を愛し、霊的に成長し、多くの人をキリストに導くことも、また、神様の壮大な計画の中で重要な役割を果たしていくことも、すべて、キリストにしっかりと繋がるところから始まります。 まさに、キリストに繋がることは、私達クリスチャンの霊的生活にとって、始めであり、また全てなのです。 私達は、神様の恵みと憐れみにより、既にそのキリストの中に入れられています。 私達の為すべき事は、ただ、しっかりとキリストにとどまることです。 キリストをいつ何時も自分の中心に据えて、神と隣人を愛することです。 そして、それが神様との、そしてイエスキリストとのさらなる強い一体感となって、私達の心を包み、喜びに満たしてくれます。 その喜びをもって、私達は、苦しみにもがき苦しんでいるときでも、打ちのめされたときでも、再び立ち上がることができるのです。 その繰り返しの中に、私達は、実を豊かにならしていくのです。 そして、その実こそ、神様の栄光を完成させる最後の大切な1ピースなのです。