2月20日2000年

キリスト者の霊的祝福シリーズ第5回
第5回 「キリストにある満たし」
コロサイ人への手紙2章4節―15節

序論
 まだ日本にいた時、マクドナルドといえばハンバーガーの代名詞でした。もちろん、
東京にはファースト・キッチンやロッテリア、もちろんモスバーガーもありました
が、アメリカらやってきていた舶来のハンバーガーといえば、まだバーガーキングが
日本にいく前の話しですから、何といってもマクドナルドだったのです。
なので、アメリカにやってきましても、ハンバーガーというのはジャンク・フードと
かファースト・フードとよばれるくらいだから、おいしさを期待するよりも速さや安
さを売っていると思ってました。ですから、初めの2ヵ月くらいはマクドナルドや
バーガーキング、ハーディーズやウエンディーズといった、ファースト・フードのお
店にしかいったことがありませんでした。ところが、ある日曜日の午後、ショッキン
グな出来事が起こったのです。教会の後、アメリカ人の友人が僕達をランチに連れて
いったのです。そこは小さなハンバーガー屋でした。ところが、ハンバーガーを注文
すると、How would you like your hamburger to be cooked?焼き加減はどのように致しましょうと聞かれたのです。そうです、僕はそのとき、自分が騙されていたということに気づかされたのです。マクドナルドは、すしで言えば回転寿司のようなもの
で、大衆普及版だったわけです。ハンバーガーはジャンク・フードではない、れっき
した食べ物で、ちゃんとしたレストランでももっともっと美味しいのが食べられるの
です。
 さて、これと同じようなことを私達はクリスチャン生活の中に見出します。キリスト
にあって満ち満ちているはずのクリスチャンが、満たされないものを抱いて生活して
います。本物のクリスチャン生活ではなく、偽物を与えられて、多くの人々が「まこ
としやかな議論」(4節)によって、また、「騙し事の哲学」(8節)によって何者か
のとりこになっています。現代風に言うと、マインド・コントロールにあっているの
です。「ハンバーガーといえばマクドナルド」というのと同じように、「クリスチャ
ンといえばこういう人」という考えに縛られているのです。(8節)クリスチャンで
ありながら、「キリストに基づかない人の言い伝えによる、この世に属する幼稚な教
え」にマインドコントロールされて、キリストにあって満ち満ちていると言う事実に
目をむけず、他のもので満足しようとしてしまうことがあるのではないでしょうか。
実は、このコロサイの教会のクリスチャンの間にも、キリストにあって満ち満ちてい
ることで満足せず、様々な宗教体験を求め、まことしやかな、騙し事の哲学に騙され
ている人が多くいたようです。しかし、パウロは、そのような中にいるクリスチャン
たちに対して、10節で、「クリスチャンはキリストにあって満ち満ちている」と宣言
しています。
今朝は、主にコロサイ人への手紙2章11節から15節のところより、キリストにある満
たしの3つの特徴を学びたいと思います。


「キリストにある満たし」のための3つのステップ
1. 「人の手によらない割礼(キリストの割礼)」2:11


ステップONE.。キリストにある満たしの第一のステップは、人の手によらない、
キリストの割礼を受けることです。
11節を一緒に読んでみましょう。さん、はい。
8節で、パウロが反対している「むなしい、騙し事の哲学」について、「人の言い伝
えによるものである」といっています。それに対して、キリストにある満たしは、人
の手によらないキリストによる割礼によるのです。
割礼というのはユダヤ人にとって神との契約のしるし、神の民であることのしる
しでした。これを受けていないというのは異邦人、すなわち、神の民ではないという
ことをあらわしていました。でもこれは男性だけでして、男性にしかない肉体の一部
を切り取るというしるしでした。
パウロはここで、クリスチャンは、この目に見える、人の手による割礼ではな
く、キリストの割礼を受けたのだというのです。「肉の体を脱ぎ捨て」とかかれてあ
りますが、肉の体というのは肉体ということではありません。だいたい肉体なんかど
うやって脱ぐの。今の体を脱いで、もっとおなかのやせた体を買ってきてきるなんて
ことは出来ないじゃないですか。肉の体というのは、生まれながらの、罪の性質を持
つからだということです。肉の体というのは肉体ではなく、生まれながらの自分、神
から離れ、罪に満ちた人間の性質のことを指しているのです。NIVという英語の聖書
はここを意訳して、sinful natureと訳しているのはそのためです。
ですから、あなたや私、人間が生まれながらに持っている罪の性質を脱ぎ捨てて受け
るのがキリストの割礼なのです。
私の友人の娘さんがまだ小さかったときのことです。その子のお母さんがその女
の子取ってはいけないといっておいたキャンディーをとっていったのを見つけまし
た。そこで、その女の子に、お母さんは、「キャンディーとったでしょう。」という
と、その女の子は、キャンディーをつかんだ手を後ろにして首を振ったそうです。
私達は誰でも罪人として生まれてきます。それは性質であって、教育によっても、、
人間の宗教によっても、そこから救われることはありません。誰も自分の子どもに嘘
をつくようにとは教えません。しかし、わたしたちはうそつきで、自分の身を守るた
めに平気で人を裏切ってしまう弱い存在です。
キリストの霊である聖霊が聖書にある神の言葉を通して、そのような汚れと罪の
性質を指し示すとき、その罪の性質を脱ぎ捨てて、悔い改めてイエス・キリストによ
り頼むこと、それがここでいうキリストの割礼です。
それに対し、「肉の割礼」は、人間の手によるしるしであり、人間の社会にある
伝統や文化や宗教を象徴しています。あるキリスト者は何とか教会によって満たされ
ている人がいます。しかし、そのような人がどれだけ自分の宗教に熱心で、どれだけ
教会に来て、どれだけ熱心に奉仕をして多くの献金をささげても、自分が罪に汚れ、
イエス・キリストが本当に自分の身代わりとなって十字架で死んでくださったという
ことを明確に信じ、キリストを救い主としてお迎えすることがなければ、キリストに
あって満ち満ちた人生を送ることは出来ないのです。キリストが私たちの身代わりと
なってその肉を刺し通され、砕かれ、死なれたので、私達が肉の割礼を受ける必要は
ありません。私達がしなければならないのは、自らの罪を認め、悔い改めてイエス・
キリストを信じることだけなのです。
しかし、多くの人たちが、キリストの割礼よりも、「人の手による割礼」を求め
ています。あなたのお金、子ども、仕事、教育、会社、恋人、宗教、何であっても、
キリスト以外の何かがあなたの心を支配しているならば、それがあなたにとっての
「人の手による割礼」なのです。それがあなたの宗教なのです。そして、あなたの宗
教は決してあなたを救いはしない。泥でいっぱいの手で顔の泥を拭こうとすると、顔
は泥だらけになってしまいます。罪にまみれた人間の宗教は人間を清くすることは出
来ないのです。十字架にかかられたイエス・キリストだけがあなたをあなたの罪から
救うのです。自分の宗教に頼るのは自分に頼っているのと同じです。聖書ではそれを
偶像礼拝といいます。その罪を捨てて、イエス・キリストを信じる時に、人は誰でも
その宗教から解放されるのです。キリストの割礼をうけていない人は全て、自分の宗
教の奴隷なのです。
人の手による割礼ではなく、キリストの割礼を受けてください。そして、既にキ
リストの割礼をうけている人は、人の手による割礼を退け、もう一度十字架を見上
げ、告白していない罪を告白して赦していただきましょう。内なるキリストに支配し
ていただきましょう。キリスト・イエスにある人が罪に定められることは決してない
のです。罪の赦しと解放、それがキリストにあって満ち満ちる第一のステップです。


2. 「神の力を信じる信仰」2:12


ではステップII。キリストによる割礼によって罪の赦しと解放を経験したら、今度は
キリストと共に死ぬことが必要です。12節を見てください。また一緒に読んでみま
しょう。さん、はい。
ここで、あなたがたはキリスト共に葬られとあります。キリストは十字架にか
かっていけにえとなって死なれたのですから、キリストと共に葬られるというのは、
キリストと共に十字架にかかると言うことを意味します。
8節で、パウロは、「騙し事の哲学」が、この世に属する幼稚な教えといっていま
す。幼稚な教えと訳されているこの言葉の意味は、この世を支配する霊の教えという
ことで、普通の人が共通して持っているような考え方ということです。少し難しい言
葉で言えば、folk religion 民俗宗教です。無宗教を公言する日本人でも、御利益を
得るためにはよいことをしなければならないとか、厄年には何か悪いことがあると
か、病気は先祖の悪行の報いだとか、お墓の方向が悪いとその家に不幸がやってくる
とかそういうことをぼんやりと信じているものです。もっと日本で普通にみんなが
やっていることだったら、神社に言って絵馬を書いたり、七夕に願い事を書いてささ
に着けたり、工場なんかの竣功式で神主が来てお払いしたりというようなことです。
これらはみんな宗教です。僕がまだ補習校で教えていたとき、中学生の女の子が、テ
ストの前に、「おばあちゃん、助けて」とお祈りしているのです。高校生に宗教につい
て聞いたら、みんな無宗教だという。でも、その彼らにお守り持ってる人と聞くと、
半分以上が持っている。アメリカに来ても、日本の何とか大社とか何とか神社のお守
りを持っているのです。これほど宗教的なことは他にあるでしょうか。横浜ベイス
ターズが頑張っていたときには、横浜駅に大魔人神社を作って、優勝を祈願する。
しかし、こういった日常の宗教行為は、こうすればこうなるという図式を人間が
勝手に作り上げただけで、実は何らの根拠もありません。目に見えない世界をも人間
の手でコントロールしようとしていうに過ぎないのです。そういうメカニズムが、例
えば病気になったとか、不幸にあったとかで、何とか自分の力で解決したいと考え
て、変な宗教団体や宗教まがいの人々にわけの分からないつぼとか印鑑とかお墓とか
仏壇を大金で買わされたりする訳です。実際に新宗教には要る人はまれであったとし
ても、目に見えないことを自分でコントロールしたいという考え方はこの世に属する
基本的な考え方なのです。宗教社会学者は、そのような一般的には無宗教だと公言す
る日本人をpractically religious、実際は宗教的な人々と呼んでいます。
キリスト信仰はこれら民俗宗教に見られるような、神々を利用する信仰ではあり
ません。神を利用する信仰なら、よく言うことをきいてくれる神様を出来るだけたく
さん持ってた方がいい。イエスさまもえべっさんも同じ。自分のいうことを聞いてく
れる神様を信じるというのは宗教的なコンスーマーリズムであって、そのような神々
はもはや神ではなく、人間の作った偶像にすぎません。それは信仰ではなく欲望で
す。欲望の追究は決して人に満足を与えない。
しかし、キリスト信仰はそのようなこの世に属する宗教ではなく、キリストを死
者の中からよみがえらせた偉大な神の力を信じる信仰なのです。この神を信じている
かどうかは、わたしたちがキリスト共に死ぬことが出来るかどうかによってのみわか
ります。もし、復活を信じ、キリストを死者の中からよみがえらせて下ったというこ
とを信じるなら、キリストと共に死ぬ者をも共によみがえらせてくださるということ
を信じることが出来るはずです。ですから、それは信仰告白なのです。そして、その
信仰告白の第一歩がバプテスマなのです。バプテスマによってひとは十字架で死んだ
イエス・キリストと共に死んで、新しく復活の主と共に生きることになったことを公
にするのです。「私はよみがえりです、いのちです。私を信じる者は死んでも生きる
のです」と約束されるイエスと共に死ぬことなのです。キリストの割礼を受けたか
ら、バプテスマは別にいいじゃないかという訳にはいきません。それはキリスト共に
葬られ、キリストと共によみがえる信仰の告白だからです。
今日でも多くの人が、国のため、会社のために、共産主義などのイデオロギーや
宗教のために死んでいます。しかし、キリストと共に死ぬということは、これらの何
かのために死ぬということは違います。昔、加川良という人が作った歌に、「いのち
は一つ。人生は一回。だから命を捨てない様にね。慌てると、ついふらふらと、お国
のためなのといわれるとね。」という歌がありました。これは1960年代後半の反戦歌
なのですが、その中で加川は、「お国は俺達死んだとて、ずっと後まで残りますよ
ね。失礼しましたで終わるほどいのちのスペアはありませんよ。」と歌っています。
国や会社や宗教のために命を捨てる人たちはそこにいのちをかけています。しかし、
その相手である国や会社や宗教はその人たちのために死んだりはしません。まして、
その人たちを死からよみがえらせるというようなことは出来ないのです。何と空しい
ことにいのちを使っているのです。ですから、主がよみがえられたという事実がなけ
れば、私たちの信仰もそれらの人たちの信念や信条と何の変わりもなくなってしまい
ます。しかし、素晴らしいことに、主イエスは事実死者の中からよみがえられたので
す。そういう訳で、「キリストのために死になさい」というメッセージは眉唾物で
す。そういう事を言って人をコントロールする教会の指導者にあったら注意した方が
いいでしょう。会社や国やイデオロギーのために死ぬように、教会という組織のため
に死ぬというようなことになりかねないからです。そうではない。私たちのためにま
ず死んでくださった、命懸けで愛してくれたこのお方、死者の中からよみがえって今
も生きておられる主イエス・キリストと共に今からのち永遠に生きるようになるため
に、わたしたちはキリストと共に死ぬのです。そこに神の力に対する信仰が求められ
るのです。


3. 十字架による勝利 2:13−15


ステップ3.ですから、キリストにあって満ち満ちるためには、まず初めにキリスト
にある罪の赦しと解放の経験、次に、キリストと共に死んでよみがえったことで始ま
る新しい人生の出発です。そのことは、13節を見てください。一緒に読みましょう。
さん、はい。
そして第3番目のステップは、十字架による勝利ということです。クリスチャンに
なって新しい人生をはじめても、古い性質がたくさん残ってますから、罪を犯しま
す。で、こんな罪を犯していて本当に自分はクリスチャンなのだろうかと思う訳で
す。そう思うのはごく当然の経験です。しかし、そこで律法主義的になって、自分の
誓いや努力でその罪を犯さない様にしようとしてもうまくいきません。で、ある人た
ちはクリスチャンらしく生きるためにいろいろな定めを設けはじめるのです。しかし
それらは、8節にあるように、キリストに基づくものではないのですから、それらの
定めを守ることでキリストにある満たしがえられるはずはありません。それどころ
か、それらの定めは私たちに、「クリスチャン失格者」のレッテルを貼りつづけるの
です。お前は失格だ、清くない、それでもクリスチャンかという具合にです。
ところが、それこそ悪魔のよくやる手口なのです。悪魔は私たちを訴えます。ク
リスチャンがそれでいいのか、そんなことなら辞めちまえという具合にです。時々そ
れを集団でやる教会があります。日本人は同じ形、ユニフォーミティが大好きなの
で、特にそうなりがちです。クリスチャンらしい髪型やクリスチャンらしい服装を勝
手に作り上げて、それをお互いに押し付け合って裁き合う訳です。そういう教会の人
が罪なんか犯そうものならもう大変です。ここぞとばかりに自分の正しさを証明する
ためにその罪人を利用するのです。人間の裁きは罪人を悔い改めには導きません。
神が私たちにしてくださったことは、取るに足らない罪に満ちた私たちを裁か
ず、私たちを責め立てる債務証書を無効にするために一人子であるイエスさまを十字
架につけてくださったのです。債務証書というのは借金の証書ですが、借金かえせと
責め立てる訳です。私たち人間は、天のお父様である神様に大変なお世話になってい
ます。この世界を作られた神は、私たちにいのちを与え、食べ物を与え、生きるため
に必要なもののすべてを与えて下っています。しかし、私たち人間はこの世界を自分
たちのものにしようとするのです。だから創造主である父なる神を否定し、そんなも
のはいないといいます。いわば、神の恩を仇で返し、恩知らずの状態にある訳です。
ですから、この神に対して借りを作ったまま返さずにほったらかしてある訳です。し
かし、そんな人間を悪魔は騙して、俺のところで一生懸命頑張れば神に対する借金は
返せるぞというのです。お前みたいな人間がそんなに簡単に神に赦される訳がない
じゃないか。第一お前のやった様々な神への反逆行為の落とし前はどう付けるんだ。
それが赦されるためには、もっと立派なクリスチャンにならなくてはいけない。その
ためにはもっと奉仕して献金しなさい。という具合にです。悪魔は教会を利用して、
十字架に示された天のお父様の愛ではなく、人間の宗教的な行ないにより頼ませるよ
うに巧みに誘導するのです。
しかし、13節の最後のところ見てください。なんて書いてますか?「それは、私た
ちの全ての罪を赦し」とかかれてあります。神はご自分が人間になされた多くの業の
見返りを求めてはいないのです。神様の求めておられることは、愛してやまない人間
が、この悪魔の支配から解放されることなのです。キリストの割礼を受けて罪の赦し
を経験し、バプテスマによってキリストと共に死んで、生きるようになった私たちキ
リスト者は、悪魔の支配から解放されているのです。キリストが十字架の上で死に打
ち勝ったので、死はもはや私たちを支配しません。それなのに、なぜまだ悪魔の支配
下にいるようにびくびくとした信仰生活を送る必要があるでしょうか。キリストに
あって満ち満ちていることを信じましょう。神は全ての支配と権威をこてんぱにやっ
つけて、私たちの勝利の凱旋に捕虜としてさらし者にしているのです。キリストの十
字架を見上げ、信じること、それが、わたしたちをキリストにある勝利の生涯への導
くのです。

<結論>
私達はキリストにあって満ち満ちたキリスト者でしょうか、それとも、教会マイ
ンド・コントロールにあっているクリスチャン律法主義者でしょうか。
キリストにあって満ち満ちていることを日々経験するためには、
1) 罪の赦しを経験する。そのためには隠されている罪を神に告白して清めていた
だく。
2) 復活の主キリストと共に生きる。そのためにはキリストを死者の中からよみが
えらせた神の力を信じ、キリストと共に十字架につけて頂くように祈る。
3) 十字架による解放と勝利を確信して歩む。そのためには、人間の言葉ではな
く、神の言葉への信頼と、祈りをとおして聖霊によって与えられた確信によって信仰
生活を送る。

教会は、そのために互いに愛し合い、励まし合うところです。もし教会がマイン
ドコントロ−ルのもととなっていたらいったいどういうことになるのでしょうか。今
週も共に励まし合い、ささえあって、キリストにあって満たされて参りましょう。