2001年2月18日「御言葉に従う」ヨシュア記7、8章
序.皆さんは失敗をなさったことはありませんか。まあ、全く失敗が無いという人も珍しいでしょうが、私はたくさんあります。言わなければ良いことを言ったり、しなくても良いことをしたり、しなければならないことを忘れたり、数え切れないほどです。誰でも、失敗は忘れてしまいたいものです。でも、忘れて同じ失敗を繰り返すのでは困ります。失敗を教訓にするのが知恵です。旧約聖書の中には、イスラエルの犯してきた様々な失敗が書かれています。それは、その失敗を通して過去に学ぶためであり、またその失敗さえも救いに変えて下さる神様の恵みを知るためです。
今日は、そのような失敗の一つを、ヨシュア記7章、8章を通して見てみたいと思います。一体なぜ彼らはそのような失敗をしたのか、また、その失敗の結果どうなったのか、そして神様が下さった解決は何か、そういった事を考えて行きます。
1.罪による失敗 (7:1−9)
この箇所はよく「アカンの罪」と題名が付く箇所です。アカンという人が悪いことをした。やっぱり名前がアカンだから、あかんことをした。なんて言ったら、今は日本に帰ったF先生が喜んで下さるところですが。アカンのしたことはこうでした。前回、6章からエリコの町を攻め落としたところを学びました。その時、神様が命令したのは、「町のあるものは全て火で焼き尽くしなさい。もったいないと言って自分の物にしてはいけない」。これを聖絶といいます。(この聖絶については今日の2番目のポイントの中でお話しますので、ちょっと置いといて。) ところがアカンは良い物を見つけてしまった。当時最高級と言われたバビロニアのコートを一着。いいなあと思って手に取ったら、そばに銀貨と金の延べ棒があるではありませんか。みんなが大騒ぎをしている内に彼はそれをこっそり持ち帰って自分のテントの中に隠したのです。そして何食わぬ顔で戻っていった。でも神様はそれをご存じだった訳です。そこで神様は怒られた。それで、次の町、アイという名前の町ですが、そこを攻める時、神様は共におられなかった。そのためにイスラエルはさんざんな負け方をしてしまったのです。「そうか、やっぱり悪いのはアカンだ、アカンがあかん」とは書いてありませんが。(すみません、これ英語には訳せないですよね。)
ではアカン一人が、悪いのか。よく読んで行きますと、どうもそうとは言い切れないのです。実は問題はイスラエル全体にも、そしてヨシュアにも在ったのです。2節、3節。どうもヨシュアと言う人はスパイを送るのが好きだったようです。そのスパイが帰って報告した。アイという町は、人口が1万2千人位だった。(聖書のどこかに書いてあります、後で家に帰ってから探して下さい。) その内、戦う事が出来るのは、まあ300人位だろう。だからこっちも3000人いれば、あのくらいの町は倒すことが出来る。
彼らは奢っていたのです。自分たちはあの大きな町エリコすら倒したじゃないか。だからアイ位の小さな町は簡単だ。でも、そうじゃ無いはずです。神様がエリコに勝たせて下さった。それを考えないのです。人間というのは誰でも、ちょっと物事が上手く行くと、自分の力で全部できた、と思いがちです。それが出来るための能力や健康は誰が下さったのか、環境を整えて下さったのは、また助けを送って下さったお方は誰か。今の自分があるのは実はそれ自身神様の賜物、ギフトなのです。それを忘れたイスラエルは、エリコでの成功に酔っていた。自分たちは強い。実際の実力以上の存在だと思い込んでいる。そんなときには失敗しやすいものです。
また彼らの中に不満が起こりそうになっていた。「民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。」 彼らは何をしたというのでしょう。「いやあ、あれは大変だった。毎日毎日、隊列を組んでエリコの周りを回らなくちゃならなかった。最後の日は7回も。そして大声で叫んで、...。」 エリコの城壁を崩すのは神様がして下さったことです。それを自分たちの手ですることを考えれば、彼らのしたことは楽なこと、そして勝利という恵みを神様からいただくための働きだったはずです。それなのに、あれは疲れたから、今度は簡単にしよう。神様の恵みを忘れると、不満が沸き上がる。出エジプトをした第一世代がそうでした。せっかく奴隷の苦しみから救われたのに、その恵みを忘れてしまった。そして神様とモーセに呟いた。
戦いに出る前から、彼らはすでに神の民に相応しい状態ではなかったのです。決してアカンだけが問題ではなかった。戦いに出ていった3000人は、負けて逃げ帰ってきた。それで、人々はすっかりしょげてしまいました。それでヨシュアは神様に祈った。7節。これは民数記に出てきたイスラエルのつぶやきに、そっくりではありませんか。これではヨシュアも指導者失格です。しかし、これらは表面に出てきた罪です。罪の根はもっと深いところに在りました。ヨシュアが呟きながらも、祈って行った時、最後に神様は答えて下さった。そしてアカンの罪が明らかにされていったのです。しかし、もし、ヨシュアが最初に祈ってたらどうでしょう。「神様次は何をすれば良いでしょうか」と。そうすれば神様は答えて下さったでしょう。「まず、自らを清めなさい、自分の中の罪を取り除きなさい、戦いはそれからだ。」 ところが、ヨシュアは祈らなかった。そこにあるのは、神様への服従の欠如です。まず、神様から御言葉を戴いて、それに従う。それを忘れていた。御言葉への不服従、それがアカンにも、イスラエルにも共通していたものなのです。1節に出てくる「罪を犯した」という言葉は、普通旧約聖書で罪を犯した場合に使う言葉ではなく、神に対して不真実、不忠実である、という意味の言葉です。不忠実という点ではアカン一人ではなく、イスラエルの子ら全員が罪を犯したのです。
神様の御言葉に忠実でないとき、神様の御言葉を軽んずるとき、私たちも罪の道を進んでしまいます。そして、罪の故の失敗を重ねていくのです。そして、その失敗の結果、どうなってしまうのか。それを次に見てみたいと思います。
2.罪の結末 (7:10−13)
神様の御言葉に直接的に背いたアカンが滅ぼされます。その理由が神様のおっしゃったことです。アカンは取ってはいけない聖絶の物を取ったため、自分自身が聖絶となった。それ故、彼自身が滅びの対象となった。では、その聖絶とは何でしょう。
この聖絶という言葉ですが、実はどの国の言葉にも訳し難い言葉ではないかと思います。ですから、いろいろな翻訳を比べて見ますと、いろいろな訳し方をしている。その中でこの新改訳の「聖絶」というのはなかなか良い訳だと思います。「聖」、聖いと言う言葉と、「絶」、絶やす、すなわち滅ぼすという言葉を組み合わせた物です。でも、これは作った言葉で、日本語には元々無い。ですから、始めて読む方は何だか分からないと思います。ですから、ちょっと長くなるかもしれませんが、聖絶とは何かについてお話しします。途中で眠くなったら寝て下さい。寝ている間に聖絶されたりしませんから。
聖絶という言葉は旧約聖書の中に大体102回位出てきます。その内、一番多く出てくるのがこのヨシュア記です。次に多いのが申命記、これはヨシュア記のすぐ前の書物です。この申命記とヨシュア記で聖絶がどのように書かれているかと言いますと、滅ぼし尽くす、完全に滅ぼす、という意味で使われているようです。ですから、物は全て、動物も滅ぼす。人間も剣で殺し、そして全てを火で焼き尽くす。そう聞きますと、残酷な印象を受けると思います。ところが、聖絶にはもう一つの意味が込められています。それはヨシュア記なのでは少し隠されていて良く見ないと分かりません。ところがそのもう一つの意味がはっきりと表れているのがレビ記です。レビ記、ものすごく退屈なところです。決して読んではいけません。ダメだというと読みたくなるのが人間です。へそ曲がりです。でも、ここにおられる皆さんは素直な方たちだから、読むなと言うと本当に読まないかも知れない。読んで下さい。面白いですよ。家に帰ってからでいいですが、レビ記の27章です。
そこには土地の聖絶ということが出てきます。この場合、滅ぼすという事ではなく、完全に神様の物とする、という意味で使われています。神様の物、すなわち聖なる物になったら、人間は勝手に使ってはいけない、売ったり買ったり出来なくなるのです。ですから、聖絶には、滅ぼすという意味と、聖なる物、神様の物にするという二つの意味が含まれているのです。神様の物を自分の所有物にしようとすると罪になります。その罪を取り除くため、今度はその盗んだ人が聖絶されて、イスラエルは神の民として聖さを保つことができる。ですから、自分が聖絶されないように、決して聖絶の物に手を着けてはいけない訳です。
そう説明されても、なお残酷な気がします。それは、人間は全員、つまり戦わない人も、特に小さな子供達まで滅ぼされるからです。それを理解するには、もう一箇所見なければなりません。ほら、長くなって来たでしょ。でも、これを聞かないと家に帰ってから気になってしまいますね。
もう一箇所、というのは、開かなくて良いですよ、良く知っている箇所ですから。それは創世記19章、ソドムとゴモラの滅亡です。そこには聖絶という言葉は出てこないのですが、起こったことは似ています。つまり全員が殺され、しかも町ごと火で焼かれて滅んだ、ということです。違うのは神様が天から火を降らせたということです。これも残酷だと言われる箇所かもしれません。では、なぜ神様はこの町を滅ぼしたのか。それはソドムの罪深さのためでした。そして、エリコの町は似たような状況だったのではないかと思われるのです。アブラハムの時代には、まだソドム以外の町は、ソドムに比べれば「まし」だった。ところが、神様がアブラハムにこの地を彼の子孫に与えると約束した時、「まだアモリ人(これはカナンの住民の総称です)の悪が満ちていないから」とおっしゃったのです。でも400年後、子孫がこの地に帰ってきた時にはそうではない、つまり悪が地に満ちて、ソドムの様になる。そのときには、神様はカナンの国々を滅ぼされる、ただし天からの火ではなく、イスラエルを用いて、です。
その滅ぼされるほどのソドムの罪とはどのようなものであったのか。ソドムの性的な罪は有名です。性が乱れきっていた。実際、カナンの土着の宗教は性的な罪と結びついていました。神様を礼拝に神殿に行きます。そうしたら必ず娼婦と関係を持つ。そういう娼婦が神殿にたくさんいて、女だけでなく男の娼婦もいた。そういった狂った関係が社会全体にはびこっていた。それがソドムの罪でした。でも、それだけではありません。ソドムの町で唯一救い出されたのはロトと彼の家族でした。彼の生き方も余り誉められたものではありませんでしたが、それでも聖書の中では彼は義人と言われています。で、その正しい人がソドムではどのように扱われていたか。彼が正しいことを語ったときに人々はそれを拒否し、正しいことを語ったロトに危害を加えようとしたのです。正しい者が罰を受けるのです。
神様から離れた社会がどのようになるかといいますと、最初は「ちょっとくらいのことだたら、悪いことでも多めに見よう」と言う様になります。それは、まだましです。というのは、それが悪いことだと自覚があるからです。まだ良くなる可能性がある。ところが、その内、それが段々「ちょっと」という範囲が広くなっていき、やがて、「何でも良いじゃないか」となります。さらに悪化しますと、正しいことを聞くと自分が責められるから、正しいことを封じ込めようとする。そのために、正しいことを言う方が間違っている、と言う意見が強くなってくるのです。それが行き着く所まで行き着くと、良いことは悪い、悪いことが良い、と善悪の基準が逆転するのです。私たちの社会はどこまで来ているのでしょうか。善悪が逆転した社会は悲惨です。特に悲惨なのは、そこで生まれ育たなければならない子供達です。子供達はそのような狂った価値観を教え込まれ、それこそが真実だと思い込むようになります。そうなったら、例え神様が正しい道を教えても、それを受け入れられなくなる、つまり救いの可能性が全く無くなるのです。ですから、そんな社会に生まれた子供は、罪に染まる前に滅びるほうが、まだ幸せかもしれない。
でも聖絶の場合は、もう少し違います。滅んだだけでなく、聖とされ、神のものとされたのです。もし罪の無い子供であったら、神様は、罪人と正しい者を一緒に滅ぼすことは無いと書かれていますから、そのような子供は神様の御手の中に入れられたことでしょう。もちろん、聖絶されたもの全員が救われた、とは言えません。誰が救われ、誰が滅びなければならないかを決めるのは神様だけですから、私たちはとやかく言う資格は持っていません。
むしろ、滅びなければならないのは、私たちの方ではないでしょうか。ソドムよりは自分の方がましなのでしょうか。どんな人でも、もし神様の光で心の奥底まで照らされたら、そこにはやはり罪が潜んでいる。そして、神様から見るならば、どんな罪でも、罪は罪、程度が違うと言っても、大した違いではない。そしてどんな罪人も滅ぼされて当たり前の存在なのです。しかも、罪の罰としての永遠の滅びに定められても、誰も文句は言えない。それが私たちではないでしょうか。それをただ憐れみの故に救われたのです。ロトがソドムから救い出されたように、ラハブがエリコから救い出された様に、私たちも滅びるはずのところから救っていただいた。その恵みが本当に分かったら、感謝せずにはいられない、賛美せずにはいなれない。ただ神様の愛の故に、憐れみの故に救われた者であることを覚えれるなら、他の人を裁いたり、神様に文句を言ったり、もう、する必要がなくなるのではないでしょうか。
なんだか、もうこれで今日のメッセージはお終い、みたいな気がしますが、ここまでが脇道で、本論に戻ります。
さて、罪の結果は滅びです。ですから、イスラエルも聖絶を受けなければならなかった。でも、神様は救って下さった。どのようにしてか、それが最後にお話することです。
3.御言葉に帰る (8章)
私たちが失敗したからと言って神様は捨てたりはなさらない。忍耐を持ってやり直しの機会を与えて下さいます。神様はセカンドチャンスと神です。でも、やり直しといって、また同じ失敗を繰り返していてはしょうがない。やりがちですが。家の子供達も、やっちゃだめだよ、と言っているのにやるんですね。それで、親に怒られたりして、それでもまた同じことをしたりする。どうも学習能力に欠けるのかなと心配したりします。でも、私に似ているのかも。とにかく、いつまでも同じでは困ります。
では、神様はどのようにすることを求めておられるのでしょう。それは、神様の御言葉に帰ることです。
8章を少しだけ見たいと思います。詳しくは家に帰ってからどうぞ。1節、2節。すっかり自身を失ったヨシュアとイスラエルに神様は「恐れるな」と1章の言葉を繰り返します。それから、「アイの町をあなたに与えた」とエリコ攻略の前にヨシュアに語った言葉と同じ事を語ります。神様はもう一度やり直しをさせようと語っておられる、ですから、その神様の言葉に従えば良いのです。2節には具体的な作戦まで与えています。3節以降は、戦いの様子を淡々と描いています。余りドラマティックではない。どうしてかな、と思うと、それは神様の命令、そしてそれを伝えたヨシュアの命令通りに行動しているので、意外性がないからです。それほど、ヨシュアもイスラエルも神様の御言葉に忠実に従います。戦いが終わってから、ヨシュアは民を集めてモーセを通して神様から戴いた律法の言葉を読み聞かせます。これも申命記でモーセから、カナンの地に入ったらこれを行いなさい、と命じられたことを忠実に行ったのです。もう一度、神様の御言葉に従う、イスラエルは神の民として相応しい姿勢に戻ったのです。
でも、神様の御言葉に従う、というのは厳しいこともあります。8章にくる前、7章の最後ではアカンの一家が滅ぼされます。これも神様の命令です。なぜ、アカン一家は助からなかったか。実は、もう一つ、旧約聖書の特に前半では、主に、イスラエルを民族として救うということが取り扱われています。それが後半に進むにつれて、徐々に個人の救いということが考えられるようになり、新約では信じる一人一人に救いが与えられるようになっていきます。でも、まだこの時代はイスラエル全体としての救いです。その意味では、彼らの中にある罪を取り除く、というのがアカン聖絶の意味なのです。それでも、一族の中の者を滅ぼすというのは、周りの民にとっては辛い事でもありました。私たちも、自分の中の罪や間違いを御言葉を通して教えられ、それを取り除くことを示されたとき、それは決して簡単ではありません。神様の御言葉に従って自分の生き方、考え方を捨てるというのは痛みを伴う事もあります。しかし、それでも神様の御言葉に従うことを優先させる時に勝利が与えられるのです。
まとめ. 神様の御言葉に従うことを徹底させたのがこの7章8章の事件でした。また、そのことを後の時代の民に教えるために、この書が書かれたのです。神様がこの書物を聖書の中に入れて下さったのは、私たちに御言葉に従うことの大切さを知らせるためでした。なぜ、御言葉か。それは御言葉こそ私たちを造り替える力があるからです。自分で自分を新しい存在にすることはできません。神様の御言葉が私たちの心に入るとき、私たちは神様の求めておられる姿に変えられていく。私たちを救おうとされている、その神様の言葉だから、それに従うことが大切なのです。語られる神様の御言葉に喜んで従う、そのようなものとなりましょう。