2002年2月17日『神にはどんなことでもできる』マルコ10:23〜31

@弟子たちの疑問と困惑
 「どんなことでも、神にはできるのです」の主イエスのことばにどれだけ信頼をして私たちは、日々生きているであろうか。いくら神様でも、無理なことはあるのだ、と思っていないだろうか。現実の社会を見ても、悪くなる一方であるし、自分のことに関しても全く良いことがないと、考えて殆ど流れに任せて生きていないだろうか。困った時の神頼み的な信仰で、普段は殆ど神に期待しないで自分本位な歩みになっていないだろうか。「救い」ということに関しても、家族の救いを考えると、自分の生活以上に期待せず、祈り忘れることがあるのではなかろうか。なかなか福音が届かない。それどころか無視されるような仕打ちを家族から受けるような経験をすると、心が萎えて、やっぱり神様にもできないこともある、と考えてしまうのではなかろうか。
 「だれが救われることができるのだろうか」の弟子たちの疑問は、私たちの疑問でもある。弟子たちのこの疑問の発端を見てみよう。
 弟子たちは、一人の青年の、寂しそうに帰る後姿を見た。22節「彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った」のである。この青年は、キリストのどのようなことばに顔を曇らせたのであろうか。また弟子たちは主のどのような教えに驚いたのであろうか。それは、「富める者が神の国に入ることは難しい」という教えであった。なぜ驚いたのか。ユダヤ人たちは、「繁栄は神の行為と祝福のしるし」と理解していたからである。申命記28:1〜6、詩篇128篇のことばがそれを裏付けている。さらに、その青年は小さい時から律法を守り、自分でも頑張って働きそれなりの地位や財産を得てきた。身なりもそれ相応のものと思われる。永遠のいのちを自分のものとする一番筆頭に上げられそうな青年のように思われる。しかし、主の答えは違っていた。21節「あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」と青年は言われた。青年はそのことばを受け入れられず、立ち去ったのである。
 小さい幼子でも入れる神の国に、裕福で道徳的に熱心な青年が入れない。しかも、その可能性が駱駝(パレスチナで最大の動物)が針の穴を通る可能性よりも少ないとなれば、「だれが救われることができるのだろうか」。神から祝福されている金持ちが御国に入ることが不可能に近いなら、いったいだれが救われようかと弟子たちは困惑したのである。

A主イエスの視点
 その困惑に対する答えが、27節の主のことばである。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです」。イエスは、救いは人の力によって獲得されるものではなく、神の賜物であると、説明されたのである。神の国に入ること、永遠のいのちを受けることは、人には不可能なことであり、金持ちであろうとなかろうと、またなしうるすべてを持ってしても、人間的な事柄を頼みとするなら不可能である。神の国を目指すには、富や生活の繁栄ではなく、まず神の国とその義とを第一に求めなければならない。この優先順位を崩す最大の危険は、世の富を慕う心である。心が世の富を慕えば、当然、それを愛し、それに依存し、仕えるようになるのである。人は富こそが命を豊かにし幸福の目標であるかのように勘違いするのである。富だけでなく、自分の自己中心な考え、神よりも自分を優先してゆくあり方があり、神を第一とせず、信頼もせず歩む危険がわたしたちはある。弟子たちは理解せず、去って行った青年と同じ視点で考え、自分の払った犠牲の大きさに応じて神からの報いがあるはずだと考えたのである。イエスは、弟子たちの視点を神の視点へと変えたのである。救いは、ただ神の可能性にあること、そして神の力と恵みに根拠を置く事柄であること、それに信頼する者に与えられる神の賜物である、と教えられたのである。

B私たち聖徒の視点
 財を捨てることができないで立ち去った青年とは対照的に、弟子たちは何もかも捨てて従ってきた。28節のように、従ってきたことを誇示する弟子たちに、人間的なそれらの犠牲をはるかに超える報酬を約束されたのである。29節と30節。従うために自分で捨てるものがある。また迫害の中で無理やり奪われるものがある。しかし「わたしのために」また「福音のために」これらを捨てた者で、その百倍を受けない者はありません、と語られた。何という祝福、何という恵みでしょう。「神にはどんなことでもできる」と信じて主に信頼する者に、家族に反対され迫害を受ける中で、大いなる祝福が与えられるのである。
家族がいつ救われるのかと、思い煩ってはならない。もうだめかもしれないと、諦めてはならない。こんな私のために十字架にかかってくださった主である。
こんな罪人の私のために、神は大事なひとり子を与えられたのである。どんなことでも神にはできる、ということをイエスを与えるということで神ご自身が証明されたのである。この造り主なる神が、私たちのことを放っておくわけがないのである。家族の救いや友人たちの救いに何の計画もないということは、ありえないのである。様々な苦しみや困難の中でも、私を愛し、どんなことでも乗り越える力を与えてくださるのである。神の国とその義とを第一とし、すべてを、主にゆだね任せて歩みつづけたい。
最後に、ジェームス・フーストン著の『神との友情―あなたを変える祈り』の中の、文章を紹介したい。
  「求めなさい。そうすれば与えられます。
   捜しなさい。そうすれば見つかります。
   たたきなさい。そうすれば開かれます。」
  私たちは、聖書が神について語ることを信じるよう求められています。
  人生は、お前はこれだけ傷ついてきたではないかと証拠を突きつけますが、
  神がどのようなお方かについての貧弱なイメージを信じてはなりません。
  神がどれほど惜しみなく与えてくださる方かを信じるのです。
  「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい」
  神は、私たち人間が日常生活で常用する、用心深い近視眼的なやり方には
  限定されません。馴染み深い貧弱で狭量な世界から私たちを取り出し、
  前途にはるかに広がる可能性の空間を神は示してくださるのです。