2000年2月11日ヨシュア記5、6章「戦いの前に」
今朝はエリコの戦いの話です。この戦いは世にも珍しい戦いでした。エリコの町はこ
れから攻めてくるイスラエル軍に備えて、城壁の門は堅く閉ざされていました。そこ
に、いよいよイスラエルがやってきた。さあ、どんな方法で攻めてくるかな。中の人
たちはそっと見ていたと思います。段々とこちらに近づいてくるぞ。あれっ? 途中
で横に向きを変えた。どこに行くんだろう。おやおや、戦いの隊列は町の周りを歩い
ていく。ラッパを吹きながら行進だ。とうとう、町の周りを一周した。それから、
...。なんだ、帰って行ってしまった。いったいあれは何だったんだろう。でも、きっ
と町の人たちは内心ほっとしたと思います。ところが、次の日もまたやってきて同じ
様に町の周りを一周。来る日も来る日も、とうとう六日間、同じことが繰り返されま
した。見ていた人たちもあきれたことでしょう。攻めてくる気が無いんじゃないか。
人々は城壁の上から馬鹿にしたでしょうか。ところが、七日目。その日はいつもより
早くから行進が始まりました。いつものように一周廻り終わっても、まだ行進は続き
ます。二周、三周、四周、五周、六周。見ている方は段々不安になってきます。一体
何が始まるのだろう。そして七週目。七周廻り終わったと思ったら、ラッパの音が長
く響き、それまでずっと黙っていたイスラエルの民が突然に叫びました。その時、城
壁はがらがらと崩れ、イスラエル軍がどっと攻め込んできたのです。誰も落とすこと
のできないと思われていた、エリコの守り。それは神様によって崩されたのです。こ
うしてイスラエルはカナンの地での最初の戦いを圧勝することができました。めでた
し、目出度し。
きっと子供達はこんな話を聞いて、家に帰ってから興奮してお父さん、お母さんに
話したでしょう。でも、もし両親がキリスト教に反対でもしていたら、大変です。な
んだ、教会では戦争を美化して教えているのか。こんな所に子供を行かせる訳にいか
ん。と、思われるかもしれません。実際、このヨシュア記を初め、聖書の中の幾つか
の箇所は、そういった批判を受けます。どうして戦争を肯定するような事が書かれて
いるのか。この疑問は避けて通れないものです。
戦争が良い事か悪い事か、答えは決まっています。ただ、そういった問題に答える
のは聖書全体から考えるべきで、このヨシュア記からだけでは答えられないと思いま
す。ヨシュア記はそういった問題に答えるために書かれたのではないからです。しか
し、ヨシュア記にはヨシュア記の目的があります。その中で、ではこのエリコの戦い
はどういう意味があるのか、それをまず考えなければ、この箇所を正しく理解できな
い。そこで、このエリコの戦いに代表されるカナン侵略の戦いの意味ということを見
て行きたいと思います。ただ、問題が大きいので、たぶん何回かに分けてお話するこ
とになります。今日は、エリコの戦いのもつ意味を見ます。そこには二つの大切なこ
とがあります。一つは聖なる戦いということ。もう一つは聖絶と呼ばれていることで
す。この二番目のほうは次回に回します。今日は、エリコ攻略は聖なる戦いであった、
ということに目を向けて行きます。
ヨシュア記の中で描かれているイスラエルにとって戦いというのは、良いか悪いか
とか、好きか嫌いかといったことではなく、動かすことのできない現実の問題でした。
またエリコの城壁は、大した武器は持っていない彼らにとっては太刀打ちできない、
文字通り、立ちはだかる壁でした。そんな情況の中にいる神の民に神様は何を命じら
れたのでしょうか。実は、このことは私たちにとっても無関係なことではありません。
私たちの周りにも多くの問題があり、その多くはどうすることもできないものです。
中には自分が原因で、自分から解決しなければならない問題もあるかもしれません。
でも、多くのことは自分の力ではどうすることもできない。そんな中に生きているク
リスチャンに神様は何を求めておられるか。そういったことを学ぶことができると思
います。
今日は、ヨシュア記の5章と6章から三つの事を考えます。まず第一に、この戦い
は聖なる戦いであった、という事です。第二に、聖なる戦いのためには準備が必要だ、
と言うこと。そして最後に、聖なる戦いをする前に必ずしなければならないこと、そ
れは主なる神の前にひれ伏す、ということです。
1.聖なる戦い
エリコの城壁を破るために神様がヨシュアに命じたのは町の周りを回る事でし
た。これには二つの事が含まれています。まず、この戦いは神様がする戦いだという
ことです。人間はそれを見ているだけ、あるいはそれに脇役として参加するだけです。
町の周りを回ったから、あるいは大声を立てたから城壁が崩れ落ちたのではない。神
様が壊されたのです。そして、この戦いは神聖な行為だということ。彼らは7日間廻
り、七日目には七回廻りました。7という数字は聖書の中ではしばしば神聖な数とし
て使われます。4節でその七を4回繰り返しているのは、イスラエル自身がそのこと
を間違いなく知るためです。七日間廻ったということは必然的に安息日が含まれます。
ご存じのように安息日は本当は働いてはいけない日です。町の周りを行進することも
戦うことも禁じられているはず。ところがここでは神様自らそうするように命じてお
られる。それは、この戦いは人間の働きでは無いからです。人間がしているのは、い
わば神様への礼拝なのです。ですから、祭司が中心となって行進したのです。この戦
いは軍事的行為以上に宗教的行為とされたのです。
断って起きますが、イスラエルではすべての戦争が宗教的行為だったのではありま
せん。事実、旧約と新約の間の時代に、イスラエルが敵に攻め込まれたことがありま
した。そのとき、敵軍はなかなかイスラエルの守りを崩せなかった。ところが、どこ
からかユダヤ人は安息日を守ることを聞いた。そこで半信半疑、安息日に攻めてみた。
そうしたら、何の抵抗も受けずにイスラエルを倒すことができたそうです。もっとも、
後からユダヤ人もこれではいけないと思って、安息日規定に戦争の時に攻め込まれた
場合は例外とするようにしたそうです。それでも攻めていくことはしなかったようで
すが。
しかし、このエリコ攻略だけは特別です。これは宗教的な行いであり、神様への礼
拝の形で行われた。それが聖なる戦いという意味です。神様のために行うことなので、
決して自分たちの利益のために行ってはいけない。ですから、エリコの戦いでは、彼
らは何にも手を出してはいけないと堅く命じられます。もったいないけど、全て焼い
てしまいます。それはこの戦いが人間のための戦いではないことを彼らが自覚するた
めです。そしてエリコの戦いは、その後のカナンでの全ての戦いの代表でもあります。
実際は彼らはカナンの地を手に入れる。その意味では侵略戦争なのですが、そうでは
なく本当はこの地は神様のものであることを示すのが聖なる戦いの意味する事なので
す。これは来週お話しする聖絶ということとも関係してくるので、詳しくはそのとき
にします。
ところで、この聖なる行いというのは、私たちにとっても大きな意味を持っている
と思います。私たちは礼拝と言えば日曜の朝に教会ですることと考えています。しか
し、本当は一週間、私たちが行う全てが神様のためでなければならない。神様は日曜
だけの神様ではありませんし、教会の中だけにおられるのでもないからです。仕事も
学びも家庭も、すべては神様のものです。私たちがすることは全て神様のためにする
のであり、実は私たちではなく神様が全ての事の内に働いておられる。私たちを用い
て、私たちのする事を通して、神様が働いておられる。ですから、私たちは神様の栄
光のために生きるのです。でもそのためには忘れてはいけないことがあります。それ
は自分自身が聖なるものにならなければならない。自分勝手なことばかりしているな
ら神様の栄光を汚すことになります。ですから、まず神様の基準に即して自らを整え
なければなりません。
そこで、二番目のこととして、この聖なる戦いのための備えということを見たいと
思います。そのために少し戻って5章を見ます。
2.戦いの準備
その前に、これまでのイスラエルの姿は聖なる民として相応しいものだったで
しょうか。決してそうではありませんでした。むしろ、彼ら自身が滅ぼされるべき行
為をしました。実際イスラエルは半分滅ぼされました。エジプトから救い出された第
一世代は神様に逆らい続けたために40年間荒野をさまようことになり、その間に二
人を除いて全員が滅んでしまいました。そして第二世代がここまで来たのです。神か
らの罰としての40年間は過ぎました。しかし、彼らはあるべき姿になったとは言え
ない。そこで、神様は40年の放浪生活に完全に終止符を付けるために命令を下され
ました。それが5章の2節です。1−9節。
ヨルダンを渡った奇跡を伝え聞いてエリコを始め、カナンの諸民族は気落ちしてい
た。人間的にはこのときが攻め入るチャンスです。ところが神様は割礼を命じられた。
これをすると少なくとも三日間は傷が痛んで動けない。その間に相手が攻めてきたら
どうするんだ。でも、これは戦い以上に大切なことでした。これ抜きには彼らは聖な
る民に相応しいと言えないからです。
ところで、9節で神様はこの時のことを指して「エジプトのそしりを取り除いた」
とおっしゃいました。これがどういう意味かは良く分かりません。でも、おそらくこ
ういうことかと思います。イスラエルはエジプトから救い出され、神の民となる契約
を神様と結んだ。それが出エジプトの目的でした。ところが彼らは罪を犯し、契約を
破ってしまった。これでは出エジプトは無駄となってしまった。その意味で「エジプ
トのそしり」となったのです。しかし、ここで第二世代となったイスラエルともう一
度契約を交わし、神の民に正式に復帰するために神様は割礼を命じられたのです。そ
の意味で「エジプトの恥を取り除いた」、すなわち「転がし去った」。そこからこの
場所をギルガル、これは転がすという意味です、と呼ぶようになったということです。
実際は、割礼が契約そのものではありません。その一部です。しかし、契約を結ぶ
ために不可欠なことです。アブラハムの子孫のしるしである割礼を受けた彼らが、次
にしたことは過ぎ越しの祭りでした。10節。これこそ彼らがエジプトから救い出さ
れたことを記念することです。実に40年ぶりに祭りが行われ、神様との正しい関係
が再スタートしたのです。この過ぎ越しの食事は割礼を受けていない者は受けられな
い。ですから、この二つの行為は切り離せない、ワンセットなのです。神様は彼らに
これらのことを行わせて、罪の過去と決別し、神様との正しい関係を取り戻させて下
さったのです。
ところで、この二つの事は、新約聖書の光に照らすならば、私たちにとっても大き
な意味があります。もちろん過ぎ越しは十字架のモデルです。そしてそれを記念して
毎年行う過ぎ越しの祭りは聖餐式を指し示していると考えられます。そしてその聖餐
を受ける前提となる洗礼式はクリスチャンとなることを形で表したものであり、ユダ
ヤ人のアイデンティティーである割礼に匹敵することです。儀式として関連している
だけではありません。このときのイスラエルがこれらの儀式によって罪の過去と決別
し神様との正しい関係に入ったように、私たちもこれらによって、正確には正餐と洗
礼の指し示す、十字架と救いによって罪から救われ神の子としていただくのです。
私たちの人生という戦いにおいて、神様の戦い、すなわち神様の栄光を表す生き方、
勝利の生き方を歩んでいくために必要なのは、十字架によって罪を赦され、神様との
正しい関係に入ることです。神様に逆らって来た過去と決別することです。神様が与
えて下さった十字架の救いを受け取ることです。洗礼はそれを公にする式です。また、
すでに救われた人は、それを忘れず、新たな気持ちで神のために生きるために毎月の
聖餐式で十字架の恵みを確認するのです。これが私たちのなすべき準備です。
3.戦いの主
ところが、せっかく救われてクリスチャンとなったのに、どうも神様の栄光を
表すどころか、神様の恥となってしまうような気がすることはないでしょうか。勝利
の生活ではなく、敗北を味わうことが無かったでしょうか。誰でも経験することです。
では、どうしたら神の戦いを、勝利の人生を送ることができるのでしょうか。
ヨシュアは、神様から命じられた割礼をすませ、過ぎ越しも行い、これで宗教的準
備は全てできたと思いました。そして、「ではどのようにエリコを攻めようか」と考
えながら町を眺めていました。そのときに起こった不思議な出来事が13節から出て
きます。13−15節。ヨシュアが見ていると、一人の人が近づいてくる。旅人では
ない。剣をもち、戦う体制です。いかにも強そうだったでしょう。しかし、ヨシュア
は不思議な何かを感じたようです。このままではいけない、彼はそばによってこの人
が何者かを確かめようとしました。味方なら心強い。しかし敵なら大変です。そのこ
とをストレートに尋ねてみた。その答えは「どちらでもない、主の軍の将だ。」 彼
は恐らく天使だったでしょう。しかし、同時に万軍の主と呼ばれる神様ご自身の代理
でもあり、その意味では神様がヨシュアの前におられることに匹敵します。そして、
モーセに神様が現れた時におっしゃったのと同じ事を言いました、「履き物を脱ぎな
さい、そこは聖なる場所だから。」
これこそ、ヨシュアに必要なことだったのです。確かに彼は神様の命令を良く守り
ました。割礼も過ぎ越しもイスラエルに行わせました。できる限りのことは準備した。
でも、尚足らないことが彼の内にあった。それは履き物を脱ぐことでした。履き物を
脱ぐとは、僕の姿です。神様の前にひれ伏して、神の僕となること、これこそ勝利の
秘訣です。クリスチャンになっても神の僕であることを忘れて自分勝手に生きるなら、
決して勝利はありません。罪にうち勝ち、神の栄光を表す人生を送るためには神の僕
として生きることがカギなのです。
僕となるとは、言い方を変えると、自分ではなく神が主である、ということです。
ヨシュアは「あなたは敵か味方か」と尋ねました。敵ならばやっつける、味方ならば
利用する、これは自分が主となっている姿です。そうではない神様の方が主なのであ
り、私たちに味方するか敵するかは神様の決めることで、人間がとやかく言うことで
はないのです。ところがとやかく言うんですね、私たちは。自分にとって良いことな
らば受け入れるが、いやなことなら拒絶する。自分の基準で測って善し悪しを決め、
自分の考えで行動する。例え自分では正しいと思ってそうしていても、主人公は自分
なのです。自分が主であろうとするとき、私たちは神様すら思い通りにしようとしま
す。問題があると、なんでこんなことがあるんだ、私の思い通りにしろ、と神様に突
きつけるのです。言葉では「神様お願いします」と祈っても、実は神様を僕のように
扱っている。それでは神様の栄光を表すことも、真の勝利もありません。どんなに、
こうして欲しい、ああなって欲しい、と願っても、それが良いことだと考えているこ
とでも、結局は自分の願いを押し通そうとするなら、自分が主なのです。
まとめ. 私たちは神様の前に履き物を脱ぐ必要があります。例え、それが自分の
思い通りにならなくても、僕として神様に従う決心が必要です。そうでないと聖なる
戦いをしているつもり、神様のために戦っているつもりであっても、いつの間にか、
自分のための人生、自分の願いを通すための戦いになるからです。そんな自己中心の
自分、自分を主としたい高慢な自分を神様の前に脱ぎ捨てて降服するとき、本当の勝
利が与えられるのです。