礼拝説教2月6日 黙示録6〜7章 「神の怒りと慰め」
序.
先週、三浦綾子の本を、家内が読んでいた本ですが、ちょっとだけめくって見ました。詳しく読んだのではありませんが、その本では「なぜ正しい人が苦しむことがあるのか」といったテーマが扱われていました。これは大変難しい問題で、おそらく皆さんの中にもこの事を考えた事のある方は少なくないと思います。今日は、この問題を考えるつもりではありません。たぶん、一人一人が神様から回答をいただく方が良いと思います。この本の中でも実は旧約聖書のヨブ記が少し紹介されています。ヨブ記はまさにこの問題を扱った書です。その中には様々な議論が繰り広げられていますが、最終的な解決が出てくるのはヨブが神様からの言葉をいただいたときです。ですから、「義人がなぜ苦難に遭うのか」という問題を、もし本当に考えている方がおられたら、簡単な答を求めるよりも、神様から答えを頂く方が良いと思います。そんな訳で今日のメッセージのテーマは「義人の苦しみ」ではありません。もう少し身近なものです。それは、「クリスチャンの苦しみ」です。
いったい、クリスチャンになったら苦しみを味わう事はあるのか。逆の言い方をすると、イエスキリストを信じて生きるなら苦しみから解放されるのか、です。この問題に対する聖書の答えは明確です。それは「苦しみはある」です。クリスチャンになったら何も問題が無くなる、とは聖書は教えていません。もっとも、神様は私達に耐えられないような苦しみを与えることはありませんし、逃れる道も備えて下さいます。また、どんな問題のただ中にあっても、クリスチャンは神様からの平安をいただくことができますし、また感謝と喜びをいただくことが出来ます。何よりも、どんなことでも祈ることができる、特権をいただいています。ですから、いたずらに恐れる必要はありません。大切なのは、どのような苦難の中にいても、神様からの言葉をいただくことです。
一世紀後半のクリスチャンたちの多くは迫害という困難を受けていました。彼ら自身が原因ではありません。自分の罪が引き起こす問題もありますが、それはまた別の問題です。彼らの苦難は、彼らがイエス・キリストを信じているがゆえに起きた事でした。そんな彼らに対して書かれたのが、この黙示録です。黙示録は普通、世の終わりの事、未来の事が書かれていると考えられています。それは間違いではありませんが、でもちょっと違うと思います。未来の事について触れながら、それを通して、同時代のクリスチャンに対して語っているのです。そして、この書が聖書の中に置かれた時に、全ての教会に、そして現代の私達に対しても書かれたメッセージとなった訳です。
今日は、6章と7章を通して、クリスチャンが受ける苦しみと神様が用意して下さっている慰めについて学びたいと思っています。いつものように3つのポイントに沿ってお話しいたします。(週報に書かれています。)
1.神の怒り
さて、いきなり「神の怒り」というとなんだか恐ろしい気がします。でもその前にちょっと、この6章7章について説明しておきます。先週は4章と5章を読みました。そこには天上の礼拝が描かれていました。その礼拝の中で一つの巻物が出てきて、その巻物の中にこれから起こる、つまり世の終わりの事が隠されている用です。しかし、この巻物は神様の封印、7つの封印がついていて誰も開くことが出来ない。しかし、キリストがその封印を解く権威をいただいた。そしてその7つの封印を解いていくのが6章と7章、正確には8章の1節までです。そして6章ではその7つの内、第一から第六までの封印が順番に解かれていく。そしてキリストが封印を一つ解くごとに何かが起きる。いったいどんな事が起こるのでしょうか。
1節から8節では、第一から第四の封印が解かれていくときに一匹ずつ、4匹の馬が表れます。1、2節。子羊はイエス・キリストです。四つの生き物というのは4章に出てくる、おそらく天使の一種と思われます。それが「来なさい」と呼ぶ。(「来なさい」というのはなんだか、緊張感がない。古い翻訳のように「来たれ」という方が雰囲気が表されている。もっともこれは日本語の問題だが。)出てきたのは白い馬であり、それは勝利に次ぐ勝利を得るために出ていった。第二は赤い馬で、地上から平和を奪い、戦争を引き起こしに行きます。第三は黒い馬。おそらく飢饉を引き起こすようです。第四が青ざめた馬で、死をもたらします。一体これは何の事でしょうか。
黙示録を読むときに気をつけなければならないことがいくつかあります。まず、いつこれらの事が起きるかという問いには聖書は答えていないということです。それがいつなのかは誰も知らない、とイエス様ご自身がおっしゃっています。もう一つは、細かい部分は分からないということです。例えば2節で、白い馬に乗っている者が弓を持っています。この弓は一体何を表しているのか。またこの人は一体誰なのか。そういった事に関しておそらく何十種類の解釈があります。その内のどれが正しいのかを決めるのは大変難しい事です。しかしあまりその辺にこだわりますと、黙示録が伝えようとしているメッセージが分からなくなってしまいます。「木を見て森を見ず」です。ですから分からない所は分からないとしておいた方が良いと思います。個人的に聞いて下されば、私の知っている範囲でお答えすることが出来る事もありますが、おそらく「分からない」ということの方が多いと思います。
さて、この4つの馬がもたらす事ですが、簡単に言えば、勝利、殺し合い、食糧の不足、そして多くの人の死、です。これらは一世紀終わりの人々にとっては無関係な事ではありませんでした。「勝利」というと聞こえは良いのですが、「勝利の上にさらに勝利を得よう」とすることはちょっと意味が違います。当時、地中海世界はローマ帝国によって治められ、「パックス・ロマーナ」と言って、ローマによる平和があったと言われます。しかし、実際には、ローマ帝国自身が周辺の国を侵略して領土を広げようとしていましたし、逆に周りの国々の中にもローマ帝国を侵略して自分の国を大きくしようとする国が絶えませんでした。そういった覇権主義の結果として、いつも各地で戦争が起こり、またローマ帝国の中でも内乱がしょっちゅうありました。そのような争いの結果として、必ず食糧が不足する事態が起きます。また自然災害による飢饉もありました。それらが最終的にもたらすのは多くの人の死です。また特に、身分の高いものたちよりも、貧しい、身分も低い人々のほうが犠牲になることが多かったでしょう。クリスチャンたちの多くはそのような身分の低い人でした。ですから、この6章の出来事は、世の終わり、未来にももっと大規模に起こるのかもしれませんが、少なくとも当時のクリスチャンには現実の事でもありました。
第五の封印は少し様子が違います。そこには殉教した人たちの叫びが上げられています。9〜11節。そしてまだ殉教の死が続くと言い渡されています。第六の封印が解かれた時には、天変地異のような事が起きます。これらも小規模の物ならば、ローマ帝国のあちこちで起きた事でしょう。ですから、この部分を読みながら、当時のクリスチャンは、これらの事を自分の状況と結びつけたと思います。そして、ここに描かれている天変地異は、実はイエス様自身が福音書の中で世の終わりに起こる事として予告された事と良く似ています。おそらく、人々は、世の終わりが近いことを感じたに違いありません。黙示録の描いている様子は遠い未来の事と言うよりも、もう既に始まりつつある、そんな出来事です。それは、実は、一世紀末だけでなく、現代も同じかも知れません。覇権主義と戦争、飢餓と大量の死、これらはいつの時代にも世界のあちこちで起こり、世の終わりはいつ来てもおかしくない。だから、聖書はクリスチャンたちに「いつも目を覚ましていなさい」と警告しているのです。
ところで、この6章の様々なことに対して、17節に「御怒りの大いなる日」と表現されています。これらの災害や問題は、神の怒りなのでしょうか。特に「子羊の怒り」、つまりキリストの怒りというとちょっと奇異な感じがします。実は、この16、17節の言葉は、神様に従わずに生きている人々の言葉です。罪に従って生きている時に、人間は、様々な苦難を「神の怒り」と感じます。日本では「たたり」等と表現しました。普段は好き勝手な生き方をしていて、何か大変な事が起きると、神様の罰を受けたと思う。だったら悔い改めて神様に立ち帰れば良いのですが、なかなかそうしないものです。クリスチャンでもそんなことがあるかも知れません。何か苦難に出会った時に、ふと、「これは自分のあの罪に対して神様が罰を下されたのでは」と思ってしまう、そんな体験をお持ちの方もおられると思います。
ここで問題なのは、それは罪に対する罰というよりも、罪を悔い改めようとしない時に感じることだということです。神様は悔い改めるならば、その罪を赦して下さる。だから、心に引っかかっているならば、もう一度神様の前にでて祈れば良いのです。罪と、罪を悔い改めようとしない心が、苦難を「神の怒り」と感じさせるのです。
これは神は怒ることがないと言うのではありません。確かに神は罪に対して怒られます。そして、終わりの日はまさにその神の怒りが現れる時です。しかし、神は怒るに遅い、恵みに富んだお方であり、人々が悔い改めて立ち帰ることを願っておられるのです。ですから、苦難は神の怒りではなく、もし罪があるならば、悔い改めのチャンスでもあるのです。
もちろん、罪が原因ではなく、迫害のようにクリスチャンであるがゆえの苦しみもあります。そのような迫害のただ中にいたクリスチャンたちはどのような御言葉をいただくのでしょうか。
2.神の印(7:1〜8)
ここに「問題の」14万4千人が出てきます。これが何を表しているかは難しい事です。文字通りのイスラエル民族の中の14万4千人かも知れません。ただ、5節からの12部族のリストには実は問題があるのですが、今日はそれには触れません。興味のある人と神学生の皆さんは後で注意して見て下さい。ここで、14万4千人というのは12かける1万2千人だということが分かります。聖書の中で12と言うのは完全を意味することが良くあります。イスラエルの12部族というのも、12そろって完全、ということでもある。1000も同じ様な意味があると思われます。その1000の12倍の12倍、それが14万4千人です。ですから、本当にその人数なのかもしれませんが、全体、あるいは完全という意味を込めているのかも知れません。ですから、イスラエル民族の中で救われるのは14万4千人だけで、あとのイスラエルは滅びるという事であるよりむしろ、そのイスラエル人の救われる者の代表としての、そして全体を含んだ意味での14万4千人と考えられます。そして、民族としてのイスラエルだけではなく、新しいイスラエルとしての教会をも代表すると見たほうが良いだろうと思います。神の僕として認められるのが、たったの14万4千人だとすれば、これは少なすぎる数字です。ですからあまりこの人数に捕らわれずに見た方が良いかも知れません。
神様は、迫害や様々な苦難の中でも、神の僕と神に逆らって生きる者とを一緒くたに扱うのではない。神様だけに分かる印を付けておられる、というのです。ですから、その印を押してしまうまで、最後の害を押しとどめている、というのが7章前半の光景です。もちろん、これは一種の幻です。ですから、神様が災害を一時中断して一人一人の額に何かの模様か文字を書いて行かれる、ということではないかも知れません。しかし、神様は例え私達が苦難に遭っているときでも、決して私達を見放したり、忘れてしまっているのではないのです。
苦難の中でも、私達はこのことを忘れてしまってはいけないのです。苦難に遭ったときに神様の愛を疑うのではなく、逆に神の愛を前提として考えるならば、必ずそこに意味を見出すことが出来るのです。
親が子供に与える事の中には、子供にとってはいやなこともあるかも知れません。しつけや勉強はその一例でしょう。訓練の必要な事があります。もし、いやなことは何一つ無し、好きなことだけしていれば良いと言って子供を育てるならば、将来どんな人生を歩む事でしょう。ですから、厳しいことも言わなければなりません。また、冬になれば親が注意をしていても風邪を引きます。怪我もあります。でからといって親は子供を愛していないのでしょうか。何があっても親は子供を愛している、そのことを知っている子供は幸いです。それがしっかりと伝えられていれば、将来、たとえ反抗期やあるいは問題が起きても、かならず良い親子関係に戻ることが出来るからです。
神様も時にはクリスチャンに、愛する子として訓練を与えることがあります。また、全ての人が味わう苦難をクリスチャンも一緒に受けます。そうでなければ、苦難の中にいる人に福音を伝えることはできませんから。また、時にはクリスチャンであるが故に苦しむこともあります。迫害もその一つです。しかし、それは決して神様から見放されたのではない。神は私達を見失うことが無い、いつも目を向けていて下さるのです。だったらなぜ苦難があるのか、という問題に対する答えではありません。そうではなくて、苦難の中でクリスチャンは何を前提として考えたらよいか、なのです。例え全世界がひっくり返る事があっても、神様は私を愛していて下さる。そのことをしっかりと忘れないならば、必ず道は開かれるのです。
3.神の慰め
7章の後半は、再び神様の前での場景です。そこに数え切れないほどの大群衆が登場します。14節でこの人々の説明がされています。これは、迫害だけではありません。全てのクリスチャンが何らかの苦難を通って行きます。しかし、その苦難の中でも信仰をしっかりと持って歩み通すなら、神様のもとに行ったときに、こんなことが待っているのです。15〜17節。神様の前で天使たちと共に礼拝を捧げ、神様も私達と一緒にいて下さる。そこにはもはや苦しみはなく、神様が全ての涙をぬぐい去って下さる。これがゴールのテープの向こう側で私達を待っている事なのです。
クリスチャンの人生には苦難があります。悲しみや苦しみがあり、涙を流す事もあります。しかし、最後には神様が慰めを与えて下さり、それらの苦難を補ってあまりある祝福を用意していて下さるのです。もちろん、地上で生きている内にも慰めがあります。楽しいこと、喜びもたくさん神様は与えて下さいます。でもそれが最終ゴールではありません。楽しいことの後にはまた苦難があるかも知れません。ですから地上での慰めは永遠ではなく、最後に与えられる永遠の祝福の予告編にすぎません。いわば、休憩地点であって、いつまでもそこにとどまるのではありません。しかし、ゴールはそれとは違います。いつまでも無くならない祝福と喜びを神様は用意しておられるのです。
苦難や迫害の中にいるクリスチャンたちは時々このゴールの存在を忘れてしまいそうになります。そんな人々にこの大切な事を思い出させ、励ますのが黙示録の書かれた目的です。世の終わりの事が書かれていると言いましたが、それはこの後、8章以降で明らかになっていきます。そこには今までに人類が経験して来なかったような災害も含まれています。命がけの証と、それに対する迫害があります。しかし、どのような事が待ち受けていても、ゴールを見失わないならば、必ずレースを走り抜くことが出来ます。そのことを初めに伝えているのがこの6、7章なのです。
なぜ、苦難に遭うのか、という疑問に対する答えではありません。しかし、苦難は現実のことです。そして、その苦難の中でクリスチャンはどのように生きるのか、それは希望を見失わないことです。神の愛と約束を忘れないことが一番大切なことなのです。
なぜ、苦難が起こるのか、それは大きすぎる問題です。ただ、イエス様も苦難に遭われました。しかも、私達の罪の為です。そして、十字架の苦難を味わって下さったからこそ私達は救っていただくことが出来るのです。そして、そのイエス・キリストに従う者として、クリスチャンが苦難を味わうことは、理不尽な事ではなく、必ず意味のあり事だと思います。しかし、救われた者について言えることは、世の終わりに神が下される裁き、神の怒りを受けないと言うことです。その怒りはイエス様が十字架上で代わりに受けて下さったのです。罪人と言う点ではクリスチャンも罪人に過ぎません。しかし、神はその罪を赦し、最後の罰の代わりに永遠の祝福を約束して下さった。それが十字架の恵みです。
今日は聖餐式です。イエスキリストがその身を裂かれ、血を流して下さったのは私達の為です。そして、それは過去の出来事ではなく、いまも信じるものに救いが与えられる確かな土台であり、また、未来には永遠の救いが約束されている、その根拠なのです。苦難の中にいても、キリストの十字架を見上げて行こうではありませんか。