2001年2月4日 「川を渡る」ヨシュア記3、4章

序.以前民数記から説教を取り次いでいたころに、クリスチャンの人生を旅になぞらえたことがありました。観光旅行ではなく、荒野の旅です。険しいところを通ることもあります。しかし、ゴールに向かって前進し続けることが大切です。と、言っても後ろから誰かが鞭をもって追いかけてきて、休むこともできない、のではありません。必要な休息はとりますし、時には留まったり静まるときもあるでしょう。でも、基本的には前進し続けるのが旅です。約束の地である天の御国に向かって進んでいく。そんなとき、通らなくてはならないところ、避けることの出来ない場所もあります。
 エジプトを出て、約束の地、カナンへと旅を続けてきたイスラエルの民。彼らにとってどうしても通らなければならなかったのは、ヨルダン川です。これを越えなければカナンの地に入れない。それが、今日学ぼうとしている3章と4章の出来事です。どのようにしてこのヨルダン川を越えたのか、またこの出来事にはどのような意味があり、私たちの人生の旅とどのように関係しているのか、そういった事を考えたいと思います。

1.神の業と信仰
   旅を続けてきたイスラエルの民はいよいよヨルダン川の岸辺まで来ました。川は今、一番増量していて、強い人でも歩いて、いえ、泳いで渡るのは簡単ではありませんが、弱い人々にとっては不可能に見えることでした。しかし、もう目の前に川が迫り、もうどうすることもできない、そのときに神様は前に進むように命じられました。どうすればよいのでしょう。神様の言葉を信じて前進したとき、川の水が少し上流で留まり、目の前の川は水が減り、やがて無くなり、そして川底が乾いて歩けるようになりました。そこで人々は徒歩で川を渡り、向こう岸へ行くことができました。これがヨルダン渡渉、あるいて渡った、という奇跡です。
 どのようにしてこんなことが起きたのか。科学的な説明を求める人がいます。しかし、どんな説明をしても、それがちょうどこのとき起きたことがやはり奇跡なのです。どんあ説明がありうるのか、詳しいことは「棕櫚の街から」という、父の本をお読み下さい。さて、この出来事が私たちにとってどんな意味があるのでしょう。
 普段は私たちは自分の力で歩んでいます。信仰生活も一所懸命に神様の言葉を守り、従おうと努力します。しかし、それが出来ないこともあります。クリスチャンの人生の基本は信仰です。しかし、信仰によって生きていこうとするときにどこかで行き詰まることがあります。自分の力ではどうすることもできない。そんなときに、それでも信じて困難を乗り越えなければならない。それが、このヨルダン渡渉です。
 こういった体験は人によって様々です。何回もこのような時を経験する人もいるでしょうが、少ない人でも一度は通るところです。自分の力や理解ではなく、神様を信じて足を踏み出す。救いの経験がそうです。救われた後でもそのような経験があるかもしれません。そんなときに私たちは、神様を信じて一歩を踏み出さなければなりません。
 さて、イスラエルの旅は通常、神の契約の箱、これは神様が彼らと共におられることを象徴するもので、かれらの信仰の土台です、この神の箱を中心としながら、旅を続けてきました。ところが、この大事な時、神様は神の箱が先頭を進むように命じられました。それは、この経験が神様によるものであることを民に知らせるためでした。箱を担ぐ祭司たちは、足を踏み出すように命じられ、ごうごうと流れているヨルダンに足を踏み入れました。足が濡れます。このまま進むとおぼれてしまうのではないだろうか。そんな時に川の水が堰き止められ、歩いて渡れるようになったのです。
 他の人たちは、乾いた川底を渡りました。それは簡単だったか。信仰の無い人にとっては、自分が渡っている間に水が元のように流れ出すのでは、と気が気でなかったでしょう。一人一人が信仰によって足を踏み出したのです。その代表となったのが箱を担ぐ祭司たちでした。信じているつもりでも、目の前の川はそのままです。しかし、一歩踏み出した時に神様の働きを見るのです。そこには、信仰による決断が大切です。
 救いは、神様の業です。自分の力で自分を救うのではありません。しかし、神様は信じて進むか私たちの決断に任せました。それは、その決断の時に信仰が生きて働くからです。もちろん、救われる前から信仰深い人はめったにいません。でも、信じる決心をするときは、じつはもう神様を信頼している。その意味で、最初の時も信仰による決断なのです。小さいかもしれないけれど心の中に芽生えている、この神様に対する信仰があります。その信仰、そして心の内で励ましていて下さるお方の声に耳を傾け、信じないのではなく、信じることを選んでいく。この決断が必要なのです。
 このような経験は、クリスチャンになるときだけではないかもしれません。人生のどこかで、純粋に信仰に立って歩むことを迫られるかもしれません。困難を乗り切るために、神様だけに頼らなければならない時があるでしょう。そういったとき、例え信仰が弱くても、幼くても、自分ではなく、先に歩まれる神様を信頼して一歩進み出る。そのときに、神様が道を開いて下さるのです。
 救いは神様の業です。また、クリスチャンの人生は全てが神様によって導かれている。ただ、普段はそれを忘れているかもしれません。しかし、神様は良い機会を備えて下さり、私たちが信仰によって決断し、一歩進み出すことで、神様への信仰を確認し、成長するようにチャンスを下さるのです。またそのチャンスに信仰をもって応答できるように、声をかけて励まし、必要なら助けを与えて下さいます。でも、決断し足を踏み出すのは私たちに選択を与えておられる。そんなときに神様を信じて進むなら、神様の栄光を見る、すなわち神様がともにいて下さることを知ることができるのです。

2.しるしと信仰
   ヨルダン川の水を堰き止めるというすごいことが起こった、ということを報告するのが、この3章、4章の目的なのではありません。この出来事がどのような意味を持っているか、それを知らせるのが4章です。そのことを目に見える形で表してしるのが12個の石です。4:1−7
 石と書いてありますが、小さなのもではない。記念として残すためですから、かなり大きなものだったでしょう。各部族の代表の名前が挙げられていません。民数記では代表者のリストがあって、その人たちはリーダー的な存在でもありました。しかし、このときは有名かどうかとか、指導力があるか、という基準では無く、一番力のある若者が選ばれたのかもしれません。ちょっと脱線でした。
 ここで覚えておくべきは、12個の石だということです。聖書の中で12というのは特別な意味を持つことが多い。この場合も、イスラエル12部族から一人ずつ選ばれ、一つずつ石をとった、ということはこの石はイスラエルを象徴している、ということです。これらの石が川底から持ってこられ、ヨルダンの西岸の置かれたのは、イスラエルの民がもしかしたらヨルダン川を渡れずに溺れて川底に沈んでいたかもしれなかったのを、神様が西岸まで持ち運んで下さった、ということを象徴しているのです。これが、しるし、あるいは記念ということです。神様の救いの業を忘れないように、ということです。
 人間は忘れやすい。その中でも私は物忘れがひどくて、三歩歩いたら何をしていたか忘れる。これは蛇足。 人間は救われたことも、救って下さったお方も簡単に忘れてしまうことがあります。忘れないように、神様は様々なことを用意して下さいました。例えば、教会の大切な式である、洗礼と聖餐。洗礼はそれ自体が救いなのではなく、救われた者がその救いを忘れないように、と体験するものです。聖餐は救って下さったキリストを忘れないためです。また個人的にも自分の内に神様がして下さった恵みを忘れないようにする。そのために役立つのが、証しです。自分の周りの人たちに伝えるのです。繰り返し語ることで、より過去の恵みが整理され、はっきりと理解できるようになる。ですから証は自分自身の信仰にとっても益です。
 ちょっと脇道にそれますが。今、私たちの教会では証をする機会が少ない。もちろん、個人的に他の人に証をしておられる方もいると思います。ただ、みんなの前で証をする、それも救いの証をする機会がもっとあったら良いと思います。私はもう十周年の記念誌に書いた、というひともいるでしょう。書かなかったひとは是非書いて見て下さい。今度は字数制限はありません。前に書いた人ももう一度書き直すともっと良くなります。言葉に出すにしても、書くだけにしても、勇気を出して証ししましょう。できたら教会のホームページに載せても良いかも知れませんね。
 話を聖書に戻しましょう。これらの石はそれ自身が救いの証しなのですが、さらにこの石を使って、子孫にも救いの業を語り伝えるようにと命じられています。同じ様な命令が4章の終わりにも繰り返されていますから、このことが大切であることが分かります。いまでも、イスラエルではこのような問答の形で父親が子供たちに神様の救い、ユダヤ人にとっては特に出エジプトの救いを語り伝えられています。しかし、これは子供たちがこのことを記憶するためではありません。それだけでは、歴史のテストで「1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見した」(本当は違いますが)を暗記するのと同じで、退屈なことです。この子孫にも伝えていくというのはもっと重要なことです。
 カナンの地に到着するというのはイスラエルにとって実はゴールではありません。これから、カナンの地を手に入れるための戦いがあります。それは簡単なことではない。でも、神様がともにいて下さり、約束通りにこの地を与えて下さる。そのことの保証として神様はこの奇跡を起こして下さったのです。でも、川がせき止められると言う奇跡自身は川の水が元通りになったときに、幻のように消え去ります。ですから、目に見える形で残された12個の石が重要なのです。また、戦いや困難はそれだけではありません。
 カナン定着後も、イスラエルは周りの国々に脅かされます。時には攻撃されてイスラエル自身が滅ぼされそうになったり、最後には滅ぼされて国が無くなります。また、他の国の支配下にあって神様を信じる者たちが迫害され殺されることも多くありました。そういった苦難の時代の人々にもこの奇跡は語り伝えられていったのです。神様に信頼する者のために神様が道を開いて下さったように、今苦難の中で、どうすることもできない人々に、それでも神様を信じ、従っていくために、この記事は勇気を与えたのです。

まとめ.  過去の救いについて語るというのは、決して後ろ向きのことではなく、新しい一歩を踏み出す力となるのです。自分にとっても力を与え、他の人にも勇気を与える。それが救いの証です。証だけではなく、聖書を通して、また様々なこと(聖餐など)を通して、神様の救いの業を知ることができます。そういった恵みに励まされてまた一歩を踏み出す決心を積み重ねていくとき、私たちは確実に天の御国に近づく旅を続けているのです。目の前には自分の力でどうすることの出来ない困難があるかもしれません。自分の足らなさを感じることがあるかもしれません。そういった時に、それでも神様を信じて行く決断をする。神様からの励ましの言葉をいただきながら、そうして行こうではありませんか。