2002年2月3日『問われる視点』ヨハネ4:27〜38
私たちは、様々な視点を持って生きている。ちょうど今から7年前、阪神・淡路大震災があった。その一年後の朝日新聞<天声人語>にその特集が載った。その特集読者の意見が紹介されていた。その一つに、次のようなものがあった。蓄えを使い果たして震災直後より苦しい高齢者多し。「震災後」がいま毎日はじまっている。それは共感の視点に立った意見であった。またその一方で、少数ながら厳しい批判の視点に立つものも紹介されていた。震災、震災と言い続けて、現地の人間を甘やかすなというものであった。被災者の側に立つ視点、また対岸に立つ視点である。日常生活においても、父親の視点、母親の視点、子どもの視点、先生の視点、隣のおじさんの視点などある。また教会の中でも、牧師の視点、信徒の皆さんの視点、代表者の視点などである。
私たちはいろいろな視点でものを見ることが大切であるが、一番大切なものは、神様の視点、イエス・キリストの視点を知り、その視点ですべてを見ることである。そしてそこに立って歩んでゆくことである。本日は、サマリヤの女を導いたイエス様と弟子たちの会話から「問われる視点」と題し、みことばを取り次ぎたい。
@ サマリヤの女と主イエスとの出会い
スカルという町の井戸のところで、イエスは、その町に住む一人の女の人に
声をかけられた。
「わたしに水を飲ませてください」
「あなたはユダヤ人なのに、どうして昔から付きあいのない、それも犬猿の仲のサマリヤ人の女の私に、飲み水をお求めになるのですか」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかった。第列王記17章によれば、次のような経過であった。BC721年、北王国イスラエルの首都サマリヤはアッシリアに占領され多くの民が捕虜として捕まり連行された。やがて新しく移住してきた他の民族との雑婚によって、サマリヤ人は混血民族となったのである。その時偶像礼拝が入り込んだ。そのため、人種的純粋性を尊んで、それを失わなかったユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑・蔑視し、それ以来両者の対立と反目は根深いものとなった。――
この会話を始めて、イエスはこの女の本当の必要、魂の本当のやすらぎについて語られた。「生ける水」――神に対する人間の霊的な渇きをいやす「いのちの水」、つまり御霊による新しいいのちについて語り、この女を救いに導いたのである。初めは、飲み水のことばかりに気を取られていた、この女の視点を、霊的ないのちへの視点へと導いたのである。「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言って、彼女の実際的な罪の問題をきちんと悔い改めに導いて、救いを与えられた。そこへ弟子たちが買い物をして町から戻ってきたのである。
A 弟子たちの視点
弟子たちは、イエスが女の人と話しているのを見たのである。27節<〜(そ
れを)不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか」とも
「なぜ彼女と話しておれるのですか」とも言わなかった。>とあるように、誰も質問しなかったのである。その場面を見ない振りをしたのか。当時女の人と一対一で話すことはなかった。特に先生と呼ばれる者は、路上では女の人と、それが自分の妻であっても、話すことを禁じられていた。何かに関わり合ったらいけない、変な噂を立てられたら困ると自己保身に思いをはせたか。いや善意に考えて、主が一所懸命話しているのを邪魔してはいけないと思ったか。いずれにして、弟子たちはイエスと女の横を通り過ぎていったようである。何も関心がなかったのであろうか。何を見ていたのであろうか。何を心の中で考えていたのであろうか。
弟子たちの視点は女には無関心で、<食べ物を買ってきた自分の奉仕>にあった。31〜33節を見よう。「先生、召し上がってください」とお願いしている弟子たち。おそらく何kmも歩いて買ってきたのであろう。暑い真昼時、女が誰も水を汲みに来ないを見計らうような暑い昼の時間、町から戻ってきたのである。イエス先生の喜ぶ顔が見たかった。一所懸命買ってきたのです、一言お褒めのお言葉を、と言って欲しかった。でも、イエスの答えは違っていたのである。32節「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」とあっさりと期待はずれの言葉であった。そして弟子たちは互いに言い合うのである。「だれか食べる物を持って来たのであろうか」と。弟子たちは口に入れる食べ物に気をとられているだけでなく、他に誰か奉仕した者がいるらしいぞと、自分の奉仕に関心があった。女のことより、女の悩み、必要、ましてや女の救いより、自分に心の目が行っていたのである。ではイエスの視点は何だったのであろうか。
B 主イエス・キリストの視点
第一に、<人の心の飢え渇きに目を向けておられた>のである。一人一人の
救いを心から願っていた。人の本当の必要、飲み水より食べ物より、何よりも
主イエスによる救い、それを通しての神との関係回復、神を礼拝し歩むことこそ大切と考えておられたのである。「目を上げて畑を見なさい。刈り入れるばかりになっています」と言われた。救いを求める人で溢れているよ、さあ、自分のことばかりに捕らわれていないで、父のみこころを行おう、とおっしゃったのである。第二に、働きを共にすることの喜びに目をとめておられた。種を蒔く者、それはイエス・キリスト、刈る者、それは弟子たちである。共に父なる神のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることをともに喜びたいと考えられていた。自分の使命を心得られ、神と人に仕え、へりくだっておられる主。自分の思い、やり方を優先するのはなく、一人を大事に、一人の救いを最優先に考え導かれるイエス・キリストの視点に私たちは立たねばならない。私たちは、救われて行く人と共にその喜びを分かち合い、またその十字架の主を宣べ伝えてゆきたい。そして互いに仕えてゆきたい。
最後に、私の母校の神学校に伝わる逸話を紹介したい。それは、新約学のヘンリー・綾部という先生の言葉である。新約学では他の追随を許さず、謙遜さではその右に出る者はいない、という先生である。そして宿題の数では群を抜いており、徹夜をして仕上げる学生もいたという。
ある学生が宿題を忘れた時の師の言葉「何をしているの。主の面前でしょう」
と叱られた、という。
ある学生が徹夜をして目を赤くして宿題を提出した時の師の言葉「何をやっているの。自分のためにやっているの」と諭された、という。
そして最後に、「すべて主のためでしょう。頑張ってください」と言われたそうである。私は、それを聞いて自分の献身の視点がもう一枚加えられた気がした。私たちキリスト者は、常に自分の見ている視点を問い、主の視点に気づかされ、謙遜に歩む者でありたい。