2000年1月30日 黙示録4〜5章 「天上の礼拝」

 序.「ヨハネの黙示録」は大きく分けて2つの事が書かれていると言われています。一つは「今ある事」、すなわち現在の事。もう一つが「この後に起こる事」、すなわち未来に関することです。未来と言っても、例えば2000年の2月1日には何が起きるか、ということではありません。ノストラダムスの預言ではありませんが、人間の好奇心はどうもそんなことに興味を引かれます。しかし、神様が私達に知らせようとされるのは、好奇心を満たすためではなく、私達にとって大切な、また必要な事です。この書物の最初の読者は、迫害の厳しい時代のクリスチャンです。彼らにとってこの未来に関する知らせが何を意味していたのか、そして、それを通して、私達にとっては何なのかを考えて行きたいと思います。
 さて、今日は4章と5章について学びます。1章は黙示録全体のいわば序文です。2〜3章は主に現在の事、特に現在の教会の姿が描かれています。そして、いよいよ将来の事が始まるのですが、それは実は6章からで、この4、5章は第二部、「未来について」の序文のようになっています。そして、ここに書かれているのは「天上における礼拝」の情景です。いったい、未来のことと天上の事とどんな関係があるのか、またこの天上の礼拝は地上の私達にとってどんな意味がるのか。今朝は、そういった事を考えていこうと思います。

1.創造主なる神
 さて、1節では「天に一つの開いた門があった」と始まっています。と言っても空の雲の上にお城が在って、というのは神話の世界です。聖書で言う「天」とは神様のおられる所であり、神様ご自身が人間の目には見えない方であり、もし見えることが出来たとしても、罪のある生まれつきの人間が聖なる神様を直接に見ることがあったら、すぐに死んでしまう。丁度、太陽を身近に見に行くような者です。その見えないお方、そして見ては行けないお方が、人間に御自分を特別にお見せになるケースが何回か聖書の中に出てきます。その場合には、見えないものを見せるのですから、ちょっと無理があります。そこで実際には、相手にとって理解できる姿となって御自分を示して下さる、あるいは一つのイメージを見せて下さる、ということだと思います。ある人はそれを「幻」と呼びます。ただ、幻というと何かえらくあやふやな、夢のようなものと思われがちですが、この黙示録ではかなり細かい点まで表現されている、そういった意味では特殊な幻かもしれません。大切なのは見たもの、この黙示録の場合はヨハネという人であり、1世紀に生きたユダヤ人であった彼が理解しやすいイメージであり、それを彼の持っている知識やボキャブラリーによって表現しているということです。そこで、時には現代の私達には理解しにくい表現も出てきます。正直に言うと、分からないこともあります。でも聖書の他の箇所を学ぶことで、多くのことが理解できます。例えば、今日の礼拝の初めに司会者の方に詩篇の104編の最初の数節を読んでいただきましたが、そこには神様が「光を衣のように着」ていると書かれています。これは、どうやって光で衣を作るのか、ということではなく、神様の素晴らしさを言葉によって表現しようとしたものだと思います。光輝く姿、といった事でしょう。そういった旧約聖書の表現に慣れ親しんでいたヨハネや初代のクリスチャンたちには神様はそれにそった姿で御自分を、いわば「見せて」下さった。それが、たとえば3節です。宝石の輝くような、いやそれよりも何百倍も強く輝いている姿を描いている。ですから、ここでこの碧玉はどんな意味があるかといったことまで考えようとするとこじつけになってしまうかも知れません。ちょっと話が脇にそれてしまいましたが、そのような天上での世界でヨハネが見たのは、光り輝く神様を、さまざまな者たちが礼拝している場面でした。
 4節に出てくるのは24人の長老です。これが誰なのかは色々な節がありますが、人間かあるいは天使だと思います。これが12人でしたら、旧約聖書の中では12というのはイスラエルの12部族と関係することが多いのですが、その倍の24人というのはあまり例がありません。ある人は、24人の半分はイスラエル12部族の代表であり、あとの半分はそれに対して新しいイスラエルとしての教会の代表なのではと説明します。もちろん、それが正しいか分かりません。でも長老というのは旧約時代のイスラエルにとっても、また教会にとってもリーダー的な役割を果たしていましたから、ここでわざわざ「長老」といっているのは、彼らは人間の、あるいは神を信じる者達の代表であると考えて良いのではないかと思います。その24人の長老が神様の前で礼拝を捧げている。でもそれが地上の私達にとってどんな意味があるのか。
 さて、プロテスタントの教会ではあまりなじみが無いのですが、カトリック、あるいはオーソドックスの教会では、会堂の中に昔の聖徒たちの絵や像が置かれていることが在ります。ギリシャ正教、これはオーソドックス教会のひとつですが、そこには聖人たちの絵が掲げられていて、イコンと呼ばれています。それについてこんな説明を聞いたことがあります。このイコンは聖人たちを奉っているのではなく、礼拝を捧げるときには過去の聖人たちも一緒に礼拝しているの考えるのだそうです。大変意味深いなと思います。実際に礼拝堂のなかにいる人数は例え少なくても、そこには過去の聖人たちを加えて多くのクリスチャンが共に神様を礼拝していると言うことです。ある教会で、ある日曜に礼拝をしてとき、その日は牧師とその奥さんだけしかいなかったそうです。奥さんが「今日はたった二人ですね」と言った時にその先生は「いや、父御子御霊の三位一体の神様もおられる」と言ったそうです。私達は礼拝を捧げる時に目に見える部分にだけ目が向けることがあります。すると、今日は人数が多かったとか少なかったとか、あるいはわたしの隣の人は居眠りをしていたとか、(わたしも学生時代はよく居眠りをしていましたが)そんなことに目がいってしまう。でも、本当は目には見えないけれども、ここにおられる神様を礼拝しているのであり、その神様から見るならば礼拝しているのは私達だけではない、すべてのクリスチャンたちが場所や時間帯は違っても、共に礼拝を捧げている。ですから、この部屋で日本語による礼拝がささげられ、またサンクチュアリーでは英語の礼拝が捧げられている。これらは別々なのではなく、主に在って一つの礼拝であり、それはこのグレンビュー教会の中だけにとどまらず、全世界、そして天の上でも礼拝が捧げられている。私達はその一部なのです。
 初代の教会の人たちは迫害の厳しい中で礼拝をしていました。時には地下の穴に隠れて礼拝をしなければならないような事も在りました。そんなときに、こんな穴蔵の中で礼拝をするなんて、なんだか惨め気持ちもしたかもしれません。でも、本当はこの礼拝は、天上の光り輝く礼拝と繋がっているんだ、同じ神様を礼拝しているのだ、と思うならば、たとえ場所はどこであれ、目に見える状況は何であれ、それは素晴らしい礼拝であると理解できたと思います。そして、そればかりではなく、礼拝を受けておられるお方がどんな方かを考えるときにもっと励まされた事と思うのです。
(すこし長くなりそうなので、ポイントに絞ってお話します。)
 まず、礼拝を受けていられる方は、創造主なる神様だと言う事です。7、8節になんだか不思議な生き物の姿が書かれています。翼の周りも内側も目で満ちていた、というのを創造するとなんだか不気味です。もちろん、それは一種のシンボル的な表現であり、何かの意味があると思うのですが、それには触れません。ただ、この生き物は旧約聖書のエゼキエル書に出てくるケルビムという天使や、イザヤ書に書かれているセラピムという天使と似ているので、やはり天使の一種であるのは確かだと思います。その彼らは昼も夜も叫び続けて、神を賛美していた。その言葉が8節の後半です。また24人の長老たちも神様を賛美した、それが11節です。神様は世界の創造者であり、支配者である。それが創造主ということです。目に見える状況は、初代のクリスチャンたちはローマ帝国、その皇帝からの迫害を受けていた。しかし、世界の支配者は神様であり、時が来れば神様が正しい裁きを行って下さる。一時的には混乱に満ちた世界も、神様はこの歴史の全てを支配しておられる。  今朝は、雪のために教会に来るのが大変だった方もおられたでしょう。以前にカプリスというでっかい自動車に乗っていたのですが、あの車は良く滑りまして、おかげさまで、随分慣れました。慣れないと、雪道で滑った時に急ハンドルを切ってよけいに危なくなることがあります。慣れてくると、多少横滑りをしてもちゃんと車をコントロールできる。でも知らない人が横に乗っていたら怖いかも知れません。でも運転手が上手な人だったら安心ですね。この世界は時には大変な状況のように見えるかもしれない、でも世界を創造されたお方が、いまでもコントロールしておられる。だからクリスチャンはどんな時でも平安でいることができるのです。ただ、時々そのことを忘れてしまう。ですから週の初めの日に、いわば1週間の代表として、教会で礼拝を捧げ、創造主なる神様を仰ぐのです。そしてこの方がこの週も私の全ての歩みを導いておられることを確認して、1週間を始める。その時、日曜の朝だけではなく、実は7日間、いつでも神様に目を向けることが出来るのです。天上では、昼も夜も絶え間なく礼拝が捧げられているのです。

2.啓示者なる主
 二つ目に、この礼拝を受けておられるお方は、難しい言葉で啓示者であるということです。それは、神様は私達に御心を知らせて下さるということです。創世記の中で神様がソドムとゴモラを滅ぼされるときに、そのことをアブラハムに隠しておいてはいけないといって告げられる場面が出てきます。本当に大事な事は、神様は私達に教えて下さるのです。それは神様が私達を大切に思って下さっておられることの表れです。教会での日曜の礼拝でも聖書が語られます。それを通してこの週、一人一人に必要な御言葉を神様は示して下さる。それだけでなく、日々神様の前に出て聖書を開くときに、神様は私達の魂に必要な心の糧を与えて下さり、その日に私達がどのように生きるべきかという指針を示して下さる。また色々な問題に対する答えを示して下さる。どんな状況に生きていても、神様は私達に無関心なのではなく、いつも目を向けておられると言うことなのです。
 もちろん、不必要な事は語られません。黙示録の中でも10章あたりに、このことについては秘密だよ、とわざわざ断っている事も出てきます。しかし、私達が知るべき大切なことは余すところ無く語って下さる。ですから、世の終わりについても、それがいつかは知るべきでない、知ることで混乱が生じるだけだから。でも何が起きるのかはかなり詳しいことまで教えて下さっているのです。それは、その時がきたときに、クリスチャンが慌てふためくことが無いためでしょう。
 この啓示者なる主が5章の前半にでてくることです。1節に出てくる巻物というのは、おそらく世の終わりに起こるべき事が書かれているものでしょう。しかし、それには神様の封印が押されていて、誰も開けることができない。せっかく天にまで行って、これからの事を教えてもらえると期待したのに、それを知ることが出来ないのかとヨハネは「激しく泣いた」と4節にあります。その時に24人の長老の一人が語ったのが5節。ここで「ユダ族の獅子」とか「ダビデの根」というのはメシアを表す旧約聖書の表現です。イエス・キリストがその巻物を開くことができる権威を持っておられる。それは単に世の終わりの出来事が書かれている巻物に関してだけではないと思います。実は聖書全体についても、そこに書かれている神からの啓示を解くカギはキリストに在るのです。言い方を変えると、聖書を通して私達が知るべき第一の事はキリストなのです。ですからキリストとその救いを無視して、好奇心や自分の利益のために聖書を読んでも、真理を知ることはできない。しかし、聖書を通してキリストに出会うならば、最も大切なメッセージをしっかりと受け止める事ができたのです。そして、このキリストは勝利を得たお方です。
 私達がどんなに難しい問題を抱えていても、勝利者である主が、御言葉を通して私達に語って下さるときに、どんな問題も問題ではなくなる。私達も問題に対して勝利をいただくことが出来るのです。

3.救い主なる主
 最後に、そのキリストは救い主であるということを見ていきましょう。
 6節。また目の話が出てきますが、これは一つの文学的表現として考えた方が良いでしょう。大切なのは、黙示録の中でキリストはたびたび、子羊と表現されていることです。しかも、「ほふられたと見える子羊」です。子羊自体が聖書の中では神様に犠牲として捧げられる、つまりそれがほふられるということですが、そのような存在として扱われています。イエス・キリストが神の子羊として私達の罪を背負って十字架で、いわば、ほふられて下さった。それがヨハネの福音書の中にも出てきます。そして、イエス様は十字架の苦しみが終わり、死から復活されて天にお帰りになった今でも、その時の傷をそのままにしておられる。それが「ほふられたと見える」ということの意味です。イエス様は私達の救いのために受けた傷を、隠すべき事ではなく誇りとして下さり、いまでもそのままでいて下さるのです。  私の額には手術の後がまだ残っています。随分うすくなりましたが。これは3歳半位の時に交通事故に遭って、頭を怪我したときの傷です。母は私がその傷のためにいやな思いをしてはいけないと思って最初は帽子をかぶらせたり、髪の毛で隠そうとしたようです。でも、後から、事故のときのことを聞きました。私の為に多くの教会のクリスチャンが祈って下さり、奇跡的に命が助かったのです。それが分かったとき、この傷は、私にとって隠すべき恥ずかしいものではなく、神様が命を救って下さった証として、私の誇りとなりました。イエス様は私達のために受けた傷を、喜びとし誇りとして下さっておられるのです。そのような救い主に私達は礼拝を捧げるのです。
 ちょっと余談ですが、三位一体の神様ですから、父なる神様、子なる神キリスト、そして聖霊なる神様、それぞれに礼拝が捧げられると、なんとなくバランスが取れているような気がするのですが、ここでは神様とキリストに対する礼拝、そして賛美の言葉だけが書かれています。それは別に聖霊をないがしろにしているのではなく、むしろ、罪人である私達が聖なる神様に礼拝を捧げる事が出来るように、つまり、私達の行っているこの礼拝が神様に受け入れて頂けるように、そのために助けて下さるのが聖霊なのです。ですから、聖書の中では聖霊だけに対する礼拝というのは出てきません。でも、三つのお方は一つの存在でも在るので、決して聖霊を無視しているのではありません。むしろ、聖霊は私達が神とキリストに礼拝を捧げる時に共にいて助けて下さる助け主です。
 5章の後半にはキリストに対する賛美の言葉が出てきます。12節ではキリストこそ「力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるに相応しい」と書かれています。4章の11節では、神様に対して「栄光と誉れと力を受けるにふさわしい」と書かれている。それと比べるとキリストには倍以上のことが書かれている。これは父なる神よりキリストのほうが偉いというのではありません。神様に逆らって罪を犯し、滅ぼされるのが当然の私達が、その罪を赦していただき、神の子として受け入れていただいた事を考えるならば、キリストにこのような賛美を捧げるのは自然な事なのでしょう。
 そしてこのキリストは私達を神の王国、そして祭司とされたと10節では言っています。真の王は神様です。でも神様はこの地上を私達に委ねて正しく治めるようにされました。初代のクリスチャンたちが生きていたのはローマ帝国です。皇帝が王であり、時には自分が神だと言うこともありました。しかし、神様は本当はクリスチャンに地上を治めるようにされているのです。でもそれはローマ皇帝のように暴力と恐怖によって治めるのでは在りません。愛による支配です。ですから、クリスチャンは祭司でもあります。祭司の勤めは取りなしの祈りを捧げることと、神の教えを宣べ伝えることです。周りの人々のために、たとえ迫害する人であっても、その人たちの救いのために祈る。また忍耐をもって神の救いを宣ね伝えていく。それが私達のつとめなのです。目に見える社会では迫害されていたクリスチャンたちですが、神様は栄光ある務めを彼らに委ねられたのです。そして、私達にもです。罪を赦していただいた者として、愛と赦しをもって他者に接し、また迫害する者のために祈りを捧げる。それが、この礼拝からスタートするのです。この週もそのような働きに召された者として歩もうではありませんか。どんな問題があっても導いておられる神に目を向け、御言葉を通して必要なメッセージをいただき、そして救われた者として周りの人の救いの為に祈り証しするものとなりましょう。