「りっぱな信仰」  ― ルカ 7:1−10

イントロ:
「みなさん、信仰をお持ちですか?」 「何言ってんだ。 何らかの信仰があるからここにいるんでしょう。」 もちろん、そうでしょう。 では、少し質問を変えます。 「りっぱな信仰はお持ちでしょうか?」 「……。」  みなさんの心の中にこんな言葉が浮かんだんではないでしょうか? 「りっぱな信仰ってねえ、あんた…・。 うーん、どうやろー。 だいたいがして、りっぱな信仰ってなんやねん。」 どうでしょうか? もちろん、関西弁ではなかったにせよ、何となくみなさんこのような疑問を持たれたのではないでしょうか?

りっぱな信仰って一体何なのか? だいたい、りっぱな信仰なんてものがあるのか? 「信仰は個人の内面の問題だから、りっぱだとかりっぱじゃないなんて測れるものではない」なんておっしゃる方もいるかもしれません。 しかし、今日の聖書箇所の中で、イエスさまは、百人隊長の信仰を見て、「りっぱだ」と誉めています。 ということは、やはり、りっぱな信仰があるということです。 本日は、この聖書箇所、ルカの福音書7章1−10節を通して、りっぱな信仰とはどのようなものなのか、ということについて、共に見ていきたいと思います。

1. 背景事情 (1−3節)
 まずは、この物語の背景事情について、少し触れておきたいと思います。 まず、前後関係ですが、この物語の前の部分で、イエスさまは、たくさんの奇跡を為し、病人をいやし、悪霊を追い出してきました。 また、非常に権威ある教えによって、人々に神の御国を説いて回りました。

 そのようなすばらしい働きに対し、おもしろくなく感じている人達がいました。 律法学者、パリサイ人達など、その当時のユダヤの宗教指導者達です。 彼らは、イエスさまを陥れるため、何かしっぽをつかもうと躍起になります。 やれ罪人と一緒に食事をした、やれ安息日に弟子達が麦の穂を摘んだと言っては、イエスさまを非難しましたが、いつもイエスさまに反論され、黙らさせられてしまいます。

 イエスさまは、そういった宗教指導者達の偽善的行為を指摘しつつ、本当に問題なのは、目に見える行為なのではなく、心の状態なのだということを、山上の垂訓と呼ばれる一連の説教の中で、いくつかのたとえを用いてお話になりました。 にもかかわらず、宗教指導者達のイエスを陥れようとする企みは終わらず、ついには十字架にまで発展していってしまうのです。 今日の物語は、このような流れの中で起きているということを、頭の隅に置いておいてください。

 では1節から順に見ていきたいと思います。 ここに百人隊長というのがでてきます。 百人隊長というのは、ローマの軍隊で文字通り百人の戦士を治める位にある軍人のことで、自分の配下にある戦士を訓練・管理するのが主な仕事でした。 もちろん、軍隊の話ですから、彼の部下に対する権威は絶対的で、戦闘時である・なしに関わらず、彼の下す命令は部下にとって絶対服従でした。

 普通の戦士達に比べ、もちろん裕福ではあったのですが、とはいえ、5節に書かれているように、自分のポケットマネーでユダヤの会堂を建てるというには、かなりのコミットメントが必要だったと思われます。 そういう意味で、この百人隊長はそれ相当のユダヤの神・ヤハウェに対する思い入れがあったのだろうと推測されます。

 また、3節に、この百人隊長は、イエスさまのみもとへ、「ユダヤ人の長老達を送った」とあります。 このことに絡んで、今日の聖書箇所を理解する上で、私達がどうしても押さえておかなければならない事柄があります。 それは、当時の異邦人ローマ人とユダヤ人との関係です。

 ユダヤの律法では、ユダヤ人が異邦人・外国人の仲間に入ったり、訪問したり、一緒に食事をすることは儀式的に汚れることとされていたのです。 ずっと後のイエスの裁判の時、イエスがローマ総督の官邸に連れて行かれた時、ユダヤ人達は、汚れて、過越の食事が食べられなくなることがないように、中に入らなかったとヨハネ18:28には記されています。 よって、ローマの軍人とユダヤの長老達の間には、一般的に言って、親しい関係はなかったと思われます。

 しかし、この百人隊長はユダヤの国民を愛し、会堂を建ててくれたりと施しをしてくれたので、ユダヤ人長老達も、親しい交わりはなかったにせよ、この百人隊長に対し、好感を持っていたものと思われます。
 このように、ユダヤ人、特に先生と呼ばれている宗教指導者達、イエスさまも既にそのひとりとして認識されていたのですが、そのような人は儀式的理由で、外国人と直接的な関係を持つことができない状態にあったので、この百人隊長は、ユダヤ人の長老達に頼んで、病気である自分の重きを置いているしもべのために、イエスさまにいやしのために来てもらおうとしたのです。

2. ユダヤ人長老達の信仰 (4−5節)
 4−5節。 イエスさまのもとに遣わされてきたユダヤ人長老達は、イエスさまに熱心にお願いした、とあります。 ユダヤの先生と呼ばれているイエスさまに向かって、律法で禁じられている外国人のもとへ行き、いやしを行ってくれとお願いするのですから、一生懸命熱心にお願いするべき内容であるのは確かですが、さて、彼らはなぜそんなに熱心にお願いしたのでしょうか? 彼らをそこまで動かしたものは何だったのでしょうか? 5節で、彼らはこの百人隊長のことを述べています。 「この人は、私達の国民を愛し、私達のために会堂を建ててくれた人です。」 また、4節には、「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。」とあります。 彼らを動かしたのは、自分達の物質的利益、すなわち、損得勘定だったのです。 

 彼らの心の中にあったのは、このような感情だったのではないでしょうか? 「先生、あなたそんなすごいいやしの奇跡を行うことができるんだったら、ちょっと一緒に来て、ちょちょっとその僕をいやしてやったらどうですか。 この人はローマの軍人には珍しく、私達に好意的だし、会堂を建てるためにお金まで出してくれる。 どうせ、奇跡を行うなら、このような後々実りの多そうなところにやった方がいいですよ。 それが私達ユダヤ人、みんなの利益になるのですよ。」

 このユダヤ人長老達は一体イエスさまのことをどのように見ていたのでしょうか? 律法にも通じ、メシア・救い主が来ることも予言者の書を通して、良く知っていたにもかかわらず、彼らはイエスさまを、すごい奇跡を行うことはできるけれど、所詮単なる先生の一人としてみていたのです。 彼らの心は、目の前の生活、目の前の利益に捕らわれてしまっていて、そこに現にいらっしゃり、律法や予言書に書かれていることを次々と現実のものとし、おまけに、自分自身でご自分の身分を明かされている神の御子の存在が見えなかったのです。

3. 百人隊長の信仰 (6−10節)
つづけましょう。 6節。 イエスさまは、このユダヤ人長老達の話を聞いて、彼らと一緒にそのしもべをいやすべく、百人隊長の家へと向かいます。 ところが、その家からあまり遠くないところまで来たとき、その百人隊長は今度は自分の友人達を送って、イエスさまに伝言を送ります。 「主よ。わざわざおいでくださいませんように。」 最初、ユダヤ人の長老達を送ったときには、「来てください」と言っているのに、実際来てくださって、家に近づいてきたら、今度は「おいでくださらないように」と反対のことを言っています。 なぜ、この百人隊長は、自分の言葉を変えたのでしょうか? 単に心変わりしただけでしょうか? この問題については、もう一度、後でここに戻ってきて取り扱いたいと思います。

 百人隊長は、その理由らしきことを言っています。 「あなたを私の屋根の下にお入れする資格は私にはありません。 ですから、私の方から伺うことさえ失礼と存じました。」 日本人の大好きな謙遜な態度です。 でも、この謙遜な態度というのには、二種類あると思うんです。 ひとつは、単なる礼儀として、あるいは、相手、あるいは周りの好感を買おうとしてする、言ってみれば見せかけの謙遜と、もう一つは、本当に尊敬と畏れを示すがあまり、必然的にでてしまう本物の謙遜です。  見せかけの謙遜に慣れ親しんでしまっている私達日本人には、この百人隊長が言ったような大げさにも聞こえる謙遜な態度に接したとき、少しうがった見方をしてしまいます。 「本当にこいつ、そう思っとるんかいな。 かっこつけてるだけとちゃうん。」  さて、この百人隊長のこの謙遜は見せかけでしょうか、それとも、本物でしょうか?  

 ここで、もう一度、ローマ軍の百人隊長とユダヤ人教師との関係を思い出してみてください。 社会的なランクでいえば、ローマ軍の百人隊長は、ユダヤ人教師達より、ずっとずっと身分が上です。 教師といっても、それはユダヤ特有の宗教・文化背景の中だけにおいての教師であり、それに属していないローマの軍人にとっては、単なる征服され、治められている国民の一人に過ぎないわけです。 社会的にずっとずっと上の権威ある者が、その支配の下にある者に、最高位の謙遜の言葉と態度をもって接しているのです。 言ってみれば、アメリカの大統領が、子供のサンデースクールで先生をしている私に対して、「私はあなたのような高貴な方に、ホワイトハウスに来ていただくような資格はありません」と言っているようなものなのです。 いくら、ユダヤの国民や宗教に好意を抱いていたといっても、ちょっと見せかけでやるには、大げさすぎます。

 また、注意してみてみると、使いを送るとき、一回目の長老にしても、二回目の友人にしても、複数を送っていることがわかります。 みなさん、誰かに伝言を送るとき、わざわざ二人以上の使いを送るでしょうか? しかも、二回目は「友人達」とあります。 友人ということは自分と同等の者、すなわち百人隊長並の位にいる人達を、二人以上送ったということになります。 これを見せかけの謙遜といえるでしょうか?  本物の謙遜であるのだとしたら、この百人隊長は、イエスさまのことを、ただの奇跡を行うユダヤ人教師の一人として、見てはいなかったことは容易に想像がつきます。

 では、一体、この百人隊長はイエスさまを何者だと考えていたのでしょうか? 7節8節、「ただ、おことばをいただかせてください。 そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士達がいまして、そのひとりに「行け」と言えば行きますし、別の者に「来い」と言えば来ます。 また、しもべに「これをせよ」と言えば、その通りに致します。」  ここで、百人隊長は、権威ということを持ち出してきています。 これによって、この百人隊長は権威とかそういうものに無頓着なのではなく、むしろそれを重視しているということがわかります。 さらに、先程の謙遜な態度の重みが増します。 「自分の権威の下にある者達は、なんでも、自分の意志通り・言葉通りに行います。 だから、どうぞ、おことばをください。 そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」 

 これをもって、この百人隊長は何を言っているのでしょう? しもべの病気がイエスさまの権威の下にあるということを認めているのです。 病気ですよ、病気がイエスさまの権威の下にあると認める、そして、おことばさえいただければ、必ず、必ず、いやされると信じている。 これは、イエスさまを単なる奇跡を行う者なんかではなく、もっともっとこの世で起こること全てにおいて権威をもっている存在、すなわち神であることを認めているのです。

 この言葉に対し、9節、イエスさまは驚いて、群衆に「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがない」といって、賞賛します。 確かに、外国人でありながら、社会的常識や文化の枠に捕らわれず、会ってもみたことのないイエスさまのことを、全てを統べ治められている神であると信じ、最高位の謙遜をもって接するというのは、私達にとっては本当に驚き以外の何物でもありません。 しかし、驚いたのは私達ではなく、神の子イエスさまです。 一言でもって、悪霊を追い出し、病をいやし、死人をよみがえらせることのできるイエスさまが驚いたのです。 もうちょっと、何かあるように感じませんか?

 そのポイントは、さっきのやり残しの問題と絡んでいるのではないかと思われます。 最初、長老達を送って、「来てください」と言っておきながら、イエスさまが自分の家の方に向かっているということがわかると、今度は友人達を送って、「来ないでください」と反対のことを言ったという問題です。 

 この百人隊長は、いろいろとイエスさまの話を聞いていて、恐らく、ユダヤ人の長老達を送る前から、この人は本当の神の子ではないかと薄々感づいていたのではないでしょうか? しかし、本当にこの世の全てを統べ治められている神の子であるかどうか、ユダヤ人の神でしかないのか、確信が持てなかったのかもしれません。 イエスさまは意識的にユダヤ人の間だけで福音を述べ伝えていましたので、あまり、外国人とのつながりについては聞こえてこなかったでしょう。 

 でも、もし、全てを統べ治めておられる全知全能の神であれば、自分達外国人にも救いの手をさしのべてくださるに違いない。 この百人隊長はそういう思いをもって、長老達を送ったのかもしれません。 結果はこの百人隊長の期待通り。 イエスさまが、しもべのいやしのために自分の家の方に向いて歩き出したというニュースを聞いた彼は、イエスさまこそ、この世を創られ、支配しておられる本当の神の子であると確信したに違いありません。 

 その喜びと畏敬の念は、彼をもう一歩先へと進めたのではないでしょうか? 彼は一歩進んでこのように考えたに違いありません。 「そのような神の子がこの地上に来られるとは、何か大変なご計画があるに違いない。 ただでさえ、ご自分がどのような方であるかを、何度も暗に明に示しているにもかかわらず、ユダヤの指導者達はそれに気が付いていないようだ。 それどころか、様々なことを通しては、その働きの邪魔をしようとしている動きがあることも聞いている。 このまま、外国人である自分の屋根の下に身を寄せたとなると、これはユダヤの律法に反するので、また、イエスさまの行われている神の計画に沿った大切な働きを邪魔する良い口実を作ることになってしまう。 それは、なんとしても、避けなければならない。」 これこそが、彼の言葉を変えた本当の理由なのではないでしょうか?

 この百人隊長も、人間として、好奇心もあったはずです。 「神の子であるイエスさまとは、一体どのような方なのだろう。」 「どのように、私に対して接されるのだろう。」 「目の前で、その奇跡を行われる姿を見てみたい。」 誰しもが、そのような誘惑を持ってしまうと思います。 ところが、この百人隊長がその時考えたことは、そのような自分のこと、自分の欲望を満たすことではなく、イエスさま・神様のこと・その大いなるご計画のことだったのです。 「神のご計画に沿って動いているイエスさまのはたらきを邪魔するわけにはいかない。」

 百人隊長の信仰は、ただ、イエスさまのことを、「全知全能の神に遣わされた神の子である」と認めただけではなく、その後ろに流れる神の壮大な計画に気づき、尊敬と畏敬の念から、自分の行動をもって、その計画を邪魔する可能性のあることを避けようとしたのです。 言い換えれば、彼は、自分のできる範囲で、神様の壮大な計画に積極的に参加しようとしたのです。 しかも、自分自身の欲望を後回しにして…。 ここで注意していただきたいのは、彼は決してそのことを義務感や責任感からやったのではない、ということです。 しなくてはならないからやったのではないし、するべきだからやったのでもない。 彼を動かしたのは、そのような偉大な神に対する敬いと畏れ、さらに言えば、神に対する愛の気持ちだったのです。 その一人子を世に送り、その姿を自分達の目に見える形にして顕わしてくださったという神の愛への感謝の気持ち、そして、その神様の壮大な計画に自分も何らかの形で参加したいという前向きな気持ちが彼をして、イエスさまさえも驚く行動へと走らせたのです。

 私達の信仰はどのような信仰でしょうか? ただ、全知全能の神が存在するということを信じているというだけの信仰でしょうか? それとも、その神様と自分は個人的な関係にあり、神様は私に愛と恵みを注いでくださっているんだという事を信じる受け身の信仰でしょうか? それとも、この百人隊長のように、全知全能の神を認め、自分に愛を注いでくださる方であることを信じるところに留まらず、私達の平凡にも見える毎日の裏に、神様の大いなるご計画・イエスキリストに始まった救いと神の御国、その両方を一歩一歩着実に完成へと導いているそのご計画の存在を見いだし、その邪魔になることを避け、より助けになることを求めることによって、自分の行動を通して、自分もその大いなるご計画に参加しようとする積極的な態度を伴った信仰でしょうか?

 どんちゃん騒ぎの宴会に誘われたときに、「ああ、楽しそうだ。 私の罪は全て、イエスさまの血によって許されている」と言って、流されてしまうのでしょうか? それとも、神様のご計画に参加すべく、毅然とした態度を示すのでしょうか?

 祈祷会のある日、疲れて帰ってきて、みたい楽しそうなテレビ番組もある中で、「まあ、祈祷会はいいや、毎日祈ってるし…」と言って、テレビ番組を選んでしまうのか、それとも、苦しみの中にある兄弟・姉妹とその苦しみを共有し、祈り会うことを選び、出かけていくのか?

 イエスさまを知らないで、ただ滅びに向かっている友達に対して、「まあ、私はもう救われているんだし、あの人はあの人の勝手で、好きなようにすればいいや…。 変なこと言って、関係崩れるのも嫌だし…。 神様が望めば、そのうち救われるでしょ。」と言って、その人の救いに直接関与することを諦めてしまうのか、それとも、それでも敢えて、1言でも2言でも福音を伝えるのか。

 苦しみの中にあり、助けを必要としている人を横目で見ながら、「でも、どうしても明日のこの準備しなくちゃいけないから…」とか、「明日の試験の準備をしなくちゃいけないから…」と言って、無視してしまうのか、それとも、その魂の救い、解放のために、自分のできることを敢えてしようとするのか。

 難しいことです。 大変なことです。 ですから、責任感や義務感ではできないのです。 神様への感謝・愛から出てないとできないのです。 そういった周りに起こる事柄の裏に流れる、神様の壮大なご計画を見、そして、積極的に参加していこうというビジョンがない限り、できないのです。

 りっぱな信仰とは、ただ神様の存在を信じるだけでなく、また、その神様が自分を個人的に愛してくださっていることを信じるところに留まらず、その神様の壮大な計画、救いの完成と神の御国の完成へと導く壮大な計画に、自分も何らかの形で積極的に参加していくこと、これこそがりっぱな信仰と言われるものなのです。

 イエスさまは、神様を信じ、その壮大なご計画を認めて、積極的にそれに参加しようとした百人隊長の信仰を見て、おっしゃいました。 「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」 みなさんは、りっぱな信仰をお持ちでしょうか?