1月23日2000年
コロサイ人への手紙講解「キリスト者の霊的祝福」シリーズ
第4回 キリスト者の霊的戦い
テキスト: コロサイ1章24節−2章3節
<序論>
中上さんの送別会では、ハッチさんが一生懸命にラーメンを作ってくださり、大変
美味しいときを過ごしました。このラーメンといえば思い出すのがラーメン二郎でご
ざいます。ラーメン二郎は私が日本で行っていた大学の近くにあった小さなラーメン
屋なんですが、カウンターしかなくて、いつも行列が出来ていました。順番が来る
と、まず大か小かを言う。その後で、トッピングの注文をするのですが、そのやり方
が決まっていて、「大・W・やさい・辛目・にんにく」とか、「小・W・からから・
たまご」とかいっていました。ちなみに、Wというのはチャーシューを二倍にという
ことなんです。ところが、そのラーメン屋には特別のメニューがありまして、初めの
大か小かをいうときに、「麺増し」というと、大のラーメンの上に更に小の麺を加え
るというのが出てくる訳です。そうしますともう大変、カウンターが傾いてますか
ら、スープがこぼれそうになるのをすすりながら、これでもかこれでもかとなくなら
ない麺をひたすらに食べる訳です。何でそこまでそんなラーメンにこだわるのか。当
時の僕は、この麺増しを残さずに全部食べられる、ということが自慢の一つでした
し、何よりも、そこに使命感を感じていました。10時半にあくそのラーメン屋に、
1時間目が終わったらすぐに駆けつけ、シャッターが開くと同時に入るので、
「シャッター二郎」というんですが、ぜひそのラーメンを食べたい。何がなんでもそ
うさせてもらいたいという、強い使命感に基づく動機付けがそこにはなされていたわ
けです。たとえその麺増しを食べることがどれだけ困難なことであっても、そこには
喜びがありました。カウンターに到達するまでに、30分以上並ぶことも珍しくあり
ませんでした。しかし、それも喜びでした。あのラーメンを今日も食べたいという一
心で、そのためには全ての苦労が喜びに変えられた訳です。
このように、私たちは、本当に愛していることのためには、本当に求めていること
のためには、苦労はいといません。どんな困難も乗り越えて、その目標を達成しよう
とする訳です。同様に、はい聖書を見てみましょう。コロサイ人への手紙1章24
節。パウロはここで、「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びと
しています。」と言っています。パウロは、ここで、1章の23節のおわりで、「こ
の福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパ
ウロはそれに仕える者となったのです。」と述べたあとで、その使命に邁進するとき
に経験する霊的戦いについて述べています。その霊的戦いが喜びであるとパウロは言
う訳です。今朝は、神様がキリスト者に与えてくださる祝福の一つとしての霊的戦い
について教えられていきたいと導かれています。霊的戦いがなぜキリスト者にとって
喜びなのでしょうか。パウロはここで、その三つの理由について明かにしています。
<本論>
1. 霊的戦いには神が召してくださったから。(1:24−28)
2. 霊的戦いのための力は内に住むキリストによって与えられるものであるから。
(1:29)
3. 霊的戦いの目標は、人々がキリストを知るようになるためであるから。(2:1−
3)
1.神の召命 (God’s Calling)(1: 24-28)
まず第一番目の理由は、霊的戦いは、神が私たち呼ばれて、与えてくださった奉仕
に取り組んでいくときに直面していくものであるからです。神様が呼んでくださっ
た。自分のような罪人を罪の奴隷から解放し、神の子としてくださっただけでなく、
神の僕として、その尊い仕事をするように呼んでくださった。自分を救ってくださっ
た方の与えてくださった仕事を、何としてでも成し遂げさせていただきたい。そのよ
うな強い召命感によって、戦いの中に言いようのない喜びが溢れてくるのです。
「しょうめい」といってもライトのことじゃないですよ。神の使命に召してくださっ
たということです。
24節 の後半から見てみましょう。パウロはこう言っています。「そして、キリス
トのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たして
いるのです。キリストのからだとは、教会のことです。」25節「私は、あなたがたの
ために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。」
この後28節までを見ると、パウロの神からゆだねられた努めは、まことの神を知ら
ない、神々を拝んでいた異邦人と呼ばれていたユダヤ人以外の人々にイエス・キリス
トの福音を伝えるということでした。パウロはその自分に神が特別に与えて下さった
奉仕を通して、この人類に神の救いと祝福をもたらすために十字架にかかって苦し
み、死なれたイエス・キリストのからだを自分の身を持って現しているといっている
訳です。言い換えれば、異邦人にキリストを知らしめるために、自らを犠牲にするこ
とも喜んでいるといっているのです。キリストの体である教会は、キリストの十字架
の苦しみを分かち合うときにはじめて本当の意味で教会となるのです。パウロが、こ
の教会に仕えるといったときには、教会の指導者として、誰よりもこのキリストの十
字架の苦しみを受けることもいとわないということを意味している訳です。それが、
28節で、「それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。」
といっている意味なのです。
実は、この点が、キリスト教と他の宗教との大きな違いの一つなのです。私たちの
主イエス・キリストは自分のためではなく、他人のために十字架で死なれました。し
かもただの他人ではなく、自分に逆らう罪人のためにしなれたのです。ですから、そ
のキリストにしたがう私たちキリスト者は、他者のために犠牲を払うように召されて
いるのです。しかし、多くの宗教団体において、信者がその宗教的指導者のため犠牲
を払うのに対して、キリストの体なる教会では、牧師が信徒のために犠牲を払うので
す。それは信徒から何かを受けるためでは決してありません。牧師や教会の指導者が
教会に仕えるのは、教会が本当の意味でキリストの体となっていくためなのです。教
会がの世界の救いのためにいけにえとなるようになるためなのです。この世の宗教
は、自分たちの宗教団体の発展や成長を求めます。ですから、多くの宗教指導者が信
者から多くを奪い、自らの利益のために宗教を利用しています。しかし、キリストの
体なる教会の指導者は、自ら進んで十字架にかかるように召されているのです。パウ
ロは、そこに喜びがあるといっているのです。
千代崎先生は日本ホーリネス教団の牧師ですが、その前身の日本ホーリネス教会系
の教会は第二次世界大戦中にキリストの再臨を信じる信仰のゆえに大掛かりな弾圧を
受けました。多くの牧師が捉えられ、教会は解散を命じられました。その捉えられた
牧師の一人の子どもであった日本ホーリネス教団の村上宣道先生は、小学校の作文
に、「自分の父親のように牢屋にいれられるような立派な牧師になりたい。」と書い
て先生を驚かせたのは有名な話しです。
かといって、仕事のために家庭を犠牲にしていいというのではありません。私たち
はあるアメリカ人の牧師と一緒に住んでいるのですが、この奥さんが週末から東海岸
の方に言って留守の昨晩、彼らの二人の男の子のうち上のお子さんが調子が悪く、彼
はその子どものために日曜日に家にいる決断をしました。彼は教会の信徒の方々に手
紙を書いて、仕事を与え、助けを願ったのです。子供達のために、彼は自分のしたい
仕事を犠牲にして、教会の人たちもその犠牲を共に負ってくださった訳です。ですか
ら、彼らを見ていていつも思うのですが、この子供達は、クリスチャンの親の愛を決
して疑うことがないだろうと、そして、そこにキリストの姿を見るのだろうと思うの
です。
パウロにとっても、福音のゆえに迫害を受けることは喜びでした。彼自身牢獄から
この手紙を書いたと言われています。それは、キリストがそのように召してくださっ
たからなのです。私たちも本当の意味でキリストの体となるように召されています。
それは、私たちがキリストのゆえに苦しみを受けるときにはじめて実現するものなの
です。
2. 神の力 (God’s Power) (1:29)
29節を見てみましょう。パウロは、「このために、私もまた、自分のうちに力強く
働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」と述べています。ここ
に、霊的戦いが喜びである2番目の理由が書かれています。霊的戦いは、政治的な力
や、経済的な力や、組織的な力によっては為し得ません。それは霊的な力によっては
じめて戦える戦いです。しかし、誤解してはいけないのが、霊的な力というのは単な
る精神力ではないのです。確かに霊的な力も精神力も私たち人間の内にある力です。
しかし、霊的な力はキリストの力なのです。それは、私の力ではない。私が本来持っ
ている力ではない。私の修行や、訓練で得られた力ではない。そうではなくて、弱い
私たちの内にキリストがご自身の働きをなすがために私たちを強くしてくださる力な
のです。
私たちは罪人であって、生まれながらの人間は神を喜ばすことは出来ません。神の
ためとか言いながら、結局自分のために奉仕をしてしまうのが私たち人間の惨めな姿
です。ですから、神の働きをなすためには、まず十字架につけられなければならな
い。もし、私たちみずからがキリストともに十字架につけられるならば、それは私た
ちがもはや自らの力に頼らないことを意味します。さもなければ、私たちは自らの力
にどうしても頼ってしまうのです。いい換えれば、霊的な力とは神のきよさに基づく
力なのです。そして、その力はこの世に属しません。
私たちの働きが神の働きかどうかは、それがキリスト教の働きかどうかによって決
まるものではありません。キリスト教の名によってなされる働きでも、この十字架に
つけられたきよい力によってなされないならば、たとえそれがどれだけ大きなプロ
ジェクトや人間的に見て優れた教会形成であるようでも、それは単なる教会ごっこに
すぎません。しかし、たとえ世俗の仕事でも、それが神に召された仕事であり、神の
きよい力によって成されるならば、それは神の働きであり、その中に人々は十字架に
つけられたキリストを見るのです。本当のキリストの体を見るのです。
大学を卒業して銀行に入りまして、最初にがっかりしたのは仕事が退屈なことでし
た。毎日毎日小切手や手形を機械で処理したり、送金をしたり、書類の整理をしたり
といった事務的な仕事が続きました。私は基本的に出来上がったシステムに順応する
のが苦手でして、特にルーティンの仕事をしてると気が変になりそうになるんです。
ですから、銀行の事務なんか最も向かない。同じ時に商業高校から入ってきた18歳の
女の子の方が私よりもずっと仕事が出来たりして、気がつくと、私が仕事をすると仕
事が増えるという迷惑な存在になっていました。そこは、僕が大学で割と一生懸命勉
強した経営学もマーケティングも関係のない世界でした。ただ機械のようになってマ
ニュアルの言うとおりに忠実に仕事をこなすことだけが求められている。何よりも頭
を使う必要がない。ところがそんな時に、有名なイギリスの説教家マーティン・ロイ
ドジョンズの説教を本にした、『働くことの意味』という本を読んだんですね。する
と、そこには、たとえ毎日毎日ただ部屋の掃除をするような仕事であっても、神の栄
光を現すことが出来ると書いていたんですね。当時私は、早く銀行の仕事を覚えて、
ばりばり仕事をして業績を上げることでキリストを証ししたいという、人間的な野心
に燃えていたんですが、その時に私が学ばなければならなかったのは、そのような退
屈な仕事の中にでさえも神の召命があるということだったんですね。
トリニティ神学校のコールマン博士は、早朝のスモールグループで、あるとき私た
ちに神の国はどのようにしてもたらされるかという質問をしました。僕は伝道によっ
てもたらされるといいました。すると、コールマン博士は、確かに伝道によって人々
が救われ神の国はもたらされる。しかし、本当の意味で神の国をもたらすのは
Holiness、きよさであると言われたのを今でもはっきりと覚えています。
牧師になっても、教会を大きくしたいというのはただの人間的な野心でしかないか
もしれません。パウロはそのような野心によって動かされていたのではなく、神のき
よい力によって動かされていたのです。それは、私たちが十字架の前に砕かれ、膝間
づく時にはじめて与えられるものです。その時、私たちの霊的戦いは喜びとなり、勝
利へと導かれていくのです。キリストが十字架の上で勝利を取られた。その勝利のゆ
えに、私たちの戦いも勝利を約束されているのです。
3.神の民 (God’s People)(2:1-3)
とういうわけで、霊的戦いは、神の召命によって与えられ、神の力によってたたか
う戦いですが、それには明確な目標があります。それは新しく神の民に加えられた
人々のキリストにある成長です。コロサイ人への手紙2章を見てみましょう。
「あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たち
のためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。それは、この
人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信
に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。このキリストのう
ちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」
パウロの霊的な戦いは、まだ信仰を持って間もないコロサイの教会の人々やそこか
ら11マイルはなれたラオデキヤの教会の人々、そしてまだパウロが知らない多くの新
しいクリスチャンたちがパウロの戦いを知ることによって、イエス・キリストご自身
を知るようになることであると述べています。
新改訳では、心に励ましを受け、愛によって結び合わされとありますが、むしろ、
結び合わされることによって心に励ましを受けと訳すのが正しいと思います。そし
て、この結び合わされるというのは二つの点において成されます。
1) 愛しあうこと
2) 知識による確信
の2点です。その結果として、全ての知恵と知識の宝であるイエス・キリストご自身
を知るようになるといっています。
言い換えれば、パウロが信仰の戦い、イエス・キリストに従うことによって様々な
苦闘をしているのを見て、信仰を持って間もないクリスチャンが、パウロをそこまで
動かすキリストの愛と真理をみせられ、ますますキリストを求めていくということを
パウロは願っているのです。そして、それがクリスチャンの共同体を強め、この戦い
の多いキリスト者としての生活を戦い抜くために必要な励ましがそこから与えられる
のです。
そのよい例が祈祷会です。互いに信仰の戦いを戦う中で、他の人の戦いを知ってそ
の重荷を共に負い、祈り合っていくときに、生ける主の働きをそこに知るのです。そ
して、互いに愛し合うことにおいて結び合わされ、私たちの信じているみことばや、
神様ご自身がどのようなお方であるのかということを経験的に知って、確信を深める
ことにおいて成長させられるのです。
しかし、その究極の目的は、イエス・キリストご自身を知るようになるということ
なのです。教会の目的は、単なる宗教クラブ活動ではありません。また、単なる宗教
コミュニティーや宗教団体の形成でもない。ただのプロジェクトでもありません。教
会はキリストの体ですから、そのかしらなるキリストを知ることこそがその中心なの
です。その目的のために私たちは互いに結び合わされているのです。そのためには、
愛と知識が必要です。教会が愛だけを求めると、ただの仲良しクラブになります。し
かし、教会がただ知識だけを求めると、そこはキリスト教の文化センターか聖書の講
義所のようになってしまうでしょう。この愛と知識によって結び合わされ、励ましを
受けるときに、私たちは日々の戦いを戦うことが出来、そのことを通してはじめて、
十字架に死んでよみがえって今も生きておられるイエス・キリストを知るようになる
のです。
パウロは、自分の知らない信仰を持って間もないキリスト者たちが、そのようにキ
リストを知るようになってもらいたいと願っていました。そのゴールのゆえに、パウ
ロは自分の戦いの中に喜びを見出していたのです。
私がまだ信仰を持って間もない頃、よく親父に殴られました。出て行けとか言われ
て家の前に座っていたようなときもありました。しかし、そういう戦いの中で、ある
朝聖書を読んでいたら、使徒の働きに、使徒たちが捉えられて、鞭打たれた後、「使
徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議
会から出て行った。」とかかれてあるのを読んで、私は非常に励まされました。イエ
スさまも、迫害を受けたら喜びなさい、とおっしゃっています。 2000年前の使徒た
ちの戦いが、まだいがぐり坊主だった三好明久少年の信仰を励ましたのです。
昔、僕がアメリカにやってきてまだ間もない頃、このグレンビュー教会で、洗礼を
受けたいという若い女性がいました。でも、彼女は洗礼を受けるのを日本の両親から
反対されていました。ところが、私が洗礼を受けるときに殴られた話しをよくしてい
たら、当時この教会で奉仕をしていたトリニティの学生だった三浦恵子さんが、僕の
話しその女性にしたそうです。そして、それによって彼女は励ましを受けたという話
しを後で聞きました。詳しいことは知りませんが、その方が洗礼を受けた当日も日本
から辞めさせてくれという電話がありましたが、本人の意思は堅く、その方は洗礼を
受けられたそうです。
みなさん、私たちの信仰の戦いは、他の人を励ますのです。そして、他の教会を建
て上げるのです。私たちには直接なにも帰ってこないかもしれない。しかし、その方
が幸いです。ですから、イエスさまがどんなに素晴らしいことをしてくださったか、
苦しみや戦いの中で、どのような恵みを受けているか、たとえみなさんの目には小さ
く写るようなことであっても、みなさんの経験の一つ一つが尊い信仰の証しとして
人々の信仰を励ますのです。主はみなさんの戦いを信仰の証しとして用いられるので
す。ですから、私たちの戦いは喜びとなるのです。
<結論>
キリスト者に神様が与えてくださる祝福は、信仰の戦いです。その戦いは、私たち
の喜びなのです。なぜなら、私たちはその戦いによって、わたしちたちの主イエス・
キリストの苦しみを共にになうように召されているからです。2番目に、その戦い
は、私たちの内に住んでくださるイエス・キリストの力によって戦う戦いであり、そ
こには勝利が約束されているからです。3番目には、その戦いによって、他のクリス
チャンが励ましを受け、神の奥義であり、全ての知恵と知識の宝であるキリストをよ
り知るようになるからです。
クリスチャンは一人一人が教会の一部であり、キリストの体であるとされていま
す。しかし、そのことの本当の意味は、私たちがキリストの体として十字架につけら
れるということです。クリスチャンでない人々は、十字架につけられたクリスチャン
を通して、十字架につけられた主イエス・キリストを知るのです。パウロは、罪人の
かしらとして、その先頭に立っていました。一人でも多くの人に福音を伝えるため
に、パウロは戦ったのです。
今みなさんが戦っている戦いは何でしょうか。みなさんはその戦いを主の召された
戦いとして戦っているでしょうか。主がそこに召されたという確信があるでしょう
か。まずそのことを祈るべきです。主が召された戦いであるならば、主はあなたに力
を与え、勝利を約束してくださるのです。そして、あなたの戦いは決して無駄に終わ
ることがない。必ず他のクリスチャンを励まし、成長させ、教会を建て上げていくの
に用いられるのです。共にこの戦いを今週も戦って参りましょう。