2000年1月21日礼拝説教 「神を信じるとき時に」 ヨシュア記2章
序.このヨシュア記にはいろいろな難しい問題が含まれています。例えば、ここには戦争の事が多く出てきます。いったい神様は戦争を許されているのか。こういった問題は、簡単には答えられないことなので、その時々にお話ししたいと思っています。
 今朝は、そんな難しい時代に生きていた一人の女性の姿に焦点を当てます。彼女の生き方を通して、私たちはどのように生きるべきかを考えます。この女性の名はラハブ。彼女はイスラエル人ではなく、これからイスラエルが戦おうとしているエリコの町に住んでいました。彼女の職業は遊女だと1節に書かれています。当時、働くことのできない貧しい女性が生計を立てるために遊女となることが少なくありませんでした。だからといって旧約聖書でこの職業が良いものとされていたわけでは決してありません。やはり肩身の狭い仕事でした。イスラエルの常識から言えば、まず女性だというだけで社会的には低く見られたものです。そして彼女は異邦人です。神の民と自負していたイスラエル人が見下していた異邦人です。そして、遊女です。どう見ても良い待遇を受けるはずがない。いわば無価値な存在です。ところがそんな彼女にヨシュア記はスポットライトを当てています。いったい、何故でしょうか。そんなことを考えながら、2章を見ていきます。
 最初は、彼女のついた嘘について考えます。次に彼女の告白した信仰を見たいと思います。そして最後にそんな彼女を神様はどのように取り扱われたかを探ります。では1節から順に読んでいきましょう。
1.ラハブの嘘
   ヨシュアはこれから攻めようとしているエリコの町の様子を探るために二人の人をスパイとして送り込みました。もちろん、ばれたら殺されます。エリコの町は戦いを前にして緊張しています。そんなピリピリした雰囲気のなかでよそ者である二人がどうしたら良いか。彼らは遊女の家に入りました。あまり素性を聞かれずに滞在することのできる唯一の場所だからです。しかし、やはり誰かに嗅ぎつけられてしまいました。その情報が町の王様のところに伝えられ、王からの使いがすぐにラハブの所にやってきました。よそ者と思われる二人が捕まえられるのは確実です。そんなとき、ラハブはこの二人を助けようとしました。
 王の使いに対して彼女が言った言葉が4節、5節です。彼女の言葉は明らかに嘘です。しかも、単純な嘘ではありません。スパイらしい人物が自分のところに来たことは本当です。これは、真実を少し混ぜてより相手を騙しやすくしている、たちの悪い嘘です。もちろん、自分の住んでいる町を裏切る行為であることは明らかです。
 嘘をついてはいけない。そんなことは小さな子供でも知っています。モーセの十戒の中でも「偽証するな」と書かれています。でも、この箇所は「嘘をついてはいけない」ということを教えるために書かれたのではないようです。
では、場合によっては嘘は、あるいは罪は、正当化されるのでしょうか。中には簡単にダメとは言えない嘘もあります。相手を思いやって真実を伏せることもあるかもしれません。しかし、ラハブの嘘はエリコの町においては決して赦されるものではありません。
 いろいろな言い訳が考えられます。彼女は、後で彼女自身が語っていますが、まもなくエリコの町はイスラエルによって滅ぼされることを知っていました。そんなときに自分と自分の家族の命を救うためについた嘘です。戦争になったら一番に切り捨てられるかも知れない、そんな弱い立場にある女性が身を守るために嘘をつく。そういう場合だったら許されるのでしょうか。イスラエル人の側から見れば、自分たちに味方してスパイをかくまった彼女の行為は

賞賛されたかもしれません。では、神の民を助けるためなら何をしても良いのか。まさにこれは「聖戦」に通ずる考え方であり、問題です。
 ラハブのとった行為を考える上でヒントになることがあります。それはイスラエルのリーダーであるヨシュアの行動です。実はヨシュアがスパイを送ったというのも、ある意味では相手をだます嘘です。当時でも、そして今でも、戦争の時はスパイを送って情報を得るのは当たり前の事。だったら、これは許される行為なのでしょうか。そうではないようです。ヨシュアのしたことは手放しでOKではありません。少なくとも二つの理由からそう考えられます。
 第一に、1章の内容に矛盾にしています。1章で神様はヨシュアに、強くあれ、恐れるな、と励ましを与えています。神様が共におられるのだから必ずエリコの町に勝つことができる。今日は戦争の是非についてはまだ取り扱いません。でも、少なくともヨシュア記自身が述べている事から考えても、ヨシュアのとった行為はおかしい。スパイを送るなんてこそこそしたことをしなくても良いはずです。第二に、実はこのスパイを送る事は神様の命令ではありませんでした。40年前にモーセがイスラエルをカナンの地の近くまでつれてきたとき、神様は12人のスパイを送るように命じられました。今回はそのような神様の命令はありません。ヨシュアは自分の先輩のモーセに倣ったつもりかもしれませんが、神様の言葉に従ったわけではない。ですから、2章の書き方は、この行為が正しいとは言えないことを示しています。
 聖書を読んだことのない人のなかには、聖書は聖なる書物だから悪いことは書かれていない、と思い込んでいる人が時々います。そんな人が実際に聖書を読んでみるとびっくりします。聖書の中にはどう見ても悪い行為がいくらでも出てくる。それは、そういった行為をしても良い、ということでは決してありません。むしろ、聖書は人間の罪の姿を現実の事として描いているのです。ヨシュアのしたことは神の民の指導者としては、問題がありました。ですから、ヨシュアの行ったスパイを送るという、いわば相手をだます行為が正当化できないのと同じに、ラハブの嘘も決して許されることではないのです。しかし、罪を犯してしまうのが人間の現実です。
 人間は誰も罪を犯します。そして、それを必ず正当化しようとします。いろいろな理由を考えて、それを間違っていないと考えたり、小さいことと見なそうとします。しかし、どんな言い訳をしても、神様の前には罪は罪です。たとえ、正しいと思ってしたことでも、実は罪かもしれません。戦争という特殊な状況の中で、二人の命を助け、自分の一家の命を救うためであっても、嘘は嘘なのです。自分が正しいことをしていると思っても、それで神様に対して正当化できるのでは無いのです。私たちは自分には甘い。都合のよう基準で自分の行いを判断します。ですから、自分では正しいと考えても、実は罪を犯していることが少なくないのです。人間は全て罪を犯している。それが聖書の伝える真実です。
 ですから、自分の行いによっては決して神様の前に行くことはできません。では、どうしたら、救いがあり得るのか。2番目に、信仰ということを考えたいと思います。

2.ラハブの信仰
   ラハブが二人のスパイに語った言葉が9節から13節に出てきます。彼女の言いたかったことは、簡単に言えば、「自分があなた達を助けたのだから、今度はあなた達が私の家族を助けて欲しい」ということです。ですから、12節と13節だけで目的は達せられます。それなのに長々と彼女が語っている。別におしゃべりだからではありません。彼女の言葉をここに含んでいるのは、実はヨシュア記の著者が言いたいことだったからです。それはイスラエルの神様がどんなお方であるか、です。
 ラハブの語った言葉の中にいくつか注目すべき事が含まれています。まず、彼女を含め、カナンの住民は、イスラエルの出エジプトのニュースをどこからか伝え聞いていたことです。それは、神様が奇跡を起こして彼らを救われたこと、そして、その神様に助けられているイスラエルの強さです。細かい事は知らなかったでしょうが、彼女はこの神様がどんな方かを一部でも知っていたのです。第二に、そのニュースを聞いて、人々は恐れている、ということです。戦いの前に心が萎えてしまっては負けです。戦う前から勝負が決まっていることを彼女は知っていました。第三に、そしてこれが一番大切ですが、ラハブはこの神様こそ本当の神だと認めています。こんな状況の中では、カナンの偶像たちは無力であることを彼女は気がついたのです。そして、11節の後半。「あなた方の神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。」 この告白は言うなれば、イスラエルの神に対する信仰告白のようなものです。彼女は、この神様が世界の主権を持っておられることも認めています。9節の最初には「主がこの地をイスラエルに与えている」と言っています。
 ラハブは自分が聞いたわずかな情報から最大限の信仰を告白したのです。おなじニュースを聞いた多くのカナン人がただ恐れただけで、なお神様に逆らおうとしていた、その中で、彼女だけはこの神様を認め、この神の民にすがろうとしたのでう。
 時々、「聖書のことが良く分かってから信じよう」と言う人がいますが、聖書を理解するためには100年かけても足りません。むしろ、今知っていることだけでも、信じるかどうかを判断できる、それが信仰です。その意味ではラハブは少ない知識から正しい信仰に至ったのです。いえ、もしかしたら、彼女の信仰は不十分かも知れません。神様の言葉に従って生きる決意であるとか、いままでの罪を赦してもらうとか、そういったことは出てきません。でも、ただ神様にすがる、それだけで良いのです。ラハブは、彼女の単純な、しかし、命がけの真剣な信仰によって、彼女の、いわば運命を変えたのです。運命というのはあまり聖書的ではありません。神様が全てを治めてておられるのですから、クリスチャンは運命とは言いません。ですから、三つ目のこととして、神様がラハブの信仰に答えてどのように彼女を取り扱ったかを見ていきましょう。

3.ラハブの神
   さて、エリコの町の門は閉ざされ、二人のスパイはこのままではいずれ見つかってしまいます。そこで、ラハブは彼らを城壁の窓から外に出すことにします。15節の最初はヘブル語では動詞で始まっています。ヘブル語というのは面白い言葉で、一つの単語で、動詞とその主語と目的語を含むことができます。ここの「つり降ろした」という単語は、主語が女性単数で目的語は男性複数です。ラハブは一人でこの二人の男を窓からつり降ろした。すごい力ですね。ラハブという女性は聖書の中ではサムソンに次ぐ怪力の持ち主。というのは嘘です。牧師が嘘をついてはいけません。第一、さっき嘘は罪だといったばかりなのに。ラハブを、家族の者が手伝ったはずでしょうが、聖書は必要なことだけしか伝えていません。
 彼女に二人のスパイはこう指示します。いま降りようとしているこの窓に赤い紐を結びつけておきなさい。そして、家族のものはこの家からでないように。そうしたら、この家の中にいる者は殺さないようにしよう、と。ラハブは言われた通りにします。それで、彼女は助かったのでしょうか。この結果は来月のお楽しみ、というのは嘘、おっといけない。ちょっとだけ、先の方を見てみましょう。6章の終わりの方で、二人が約束したとおりにラハブの家族は助けられます。6:23。「宿営の外にとどめておいた」というのは、彼らは異邦人ですからイスラエルの中にいることは最初は許されなかったということです。しかし、後で彼女たちはイスラエルの中に住むようになります。25節。ラハブに関する記事はこれで、ヨシュア記ではおしまいです。旧約聖書にはその後彼女のことはでてきません。イスラエルの人々は、そしてヨシュア記の著者は、もうこれで彼女に対する報いは十分だと思ったのでしょう。しかし、神様はそうではありませんでした。聖書の各書物はある意味では人間の書いたものです。しかし、聖書全体はそれらの人を用いて神様が書かれたのです。ラハブのことは、実は新約聖書に3回でてきます。それを見てみましょう。3回の内の一つだけ開きます。
 マタイによる福音書1章です。5節。ここにラハブのその後のことが書かれています。彼女はサルモンという人と結婚したようです。彼女が生んだのがボアズ。この名を覚えている人、すばらしいですね。そうルツ記でルツを助けた人です。そしてそのボアズとルツの曾孫がダビデ王です。ラハブは、ダビデ王朝の先祖となったのです。それだけではない。その子孫からイエス・キリストが生まれた。ですから、神様はラハブを通して救い主を誕生するようにされたのです。彼女の単純な信仰に対して、神様は彼女が望んでいた以上のことをして下さったのです。
 まだ、あります。あと2回ですが、そのうちの一つはヘブル書です。何章でしょうか。ちゃんと覚えているかテスト、ではありません。11章に「信仰によって」という言葉が繰り返し書かれています。そこには旧約の偉人たちが勢揃いしている、その中にラハブが含まれているのです。ヨシュアではなくラハブが出てくるのです。また、ヤコブ書には神様に義と認められた人物としてアブラハムが出てきますが、その旧約の最大級の人物と並んでラハブの名前が書かれているのです。何という栄誉でしょうか。
 ラハブは異邦人であり、罪人です。その彼女が神様を信じ頼った時に、神様は彼女が期待していなかった大きな恵みを与えて下さったのです。神様は聖書全体を通してラハブの神となって下さった。これが神様の救いです。私たちも同じ救いに与っているのです。私たちは、罪人です、神様から離れて生きてきた異邦人です。信仰も小さなものかもしれません。でも、この神様を信頼し、よりすがった時に、神様は私たちが想像もできないほどの恵みを用意してくださるのです。なんという祝福でしょう。

まとめ.  もう少しだけ付け加えさせて下さい。ヨシュア記に戻ります。そこでは、ラハブは自分と自分の家族を救っていただいた。ところが、それだけでは無いのです。神様はラハブを用いて下さった。二人のスパイを助けたのはもちろんですが、その二人が2章の最後でヨシュアの下に帰って報告しています。24節。この言葉は、実はラハブが言った言葉を繰り返しているです。ヨシュアも神様の命令ではなく、自分の考えで間違ったことをしたのかもしれない。そして、強くあれ、恐れるな、と言われたにも拘わらず、スパイを送るくらい不安だったのかもしれません。そんなヨシュアを神様は見捨てるのではなく、真実を尽くして下さり、もう一度励ましを与えて下さった、ラハブの口を通して。ラハブは神様の恵みの器として用いられたのです。
 神様の恵みは、信じた者に救いが与えられるだけで終わるのではありません。その人の家族に救いの手がさしのべられ、そして、さらに、その人が神様の恵みを伝えるために用いられるのです。私たちの生涯にも、このお方が働きかけておられるのです。この神様を信頼し、従っていこうではありませんか。