2002年1月20日『私を変える3つの祈り』エペソ3:14〜21
パウロがエペソを中心にしたアジア地域の人々に書き送った<エペソ人への手紙>の3章から、本日は、私たちを使徒として造りかえ整える、3つの祈りを学びたい。
この箇所を、バーグマンという聖書学者は次のように解説している。「この箇所は、パウロが手紙を書き続けているうちに、いつの間にか祈りになってしまったのではないか」と。またミットンという人は、「新約聖書の宝石のひとつ」と評している。ここを読むと、パウロの、伝道者として、また使徒として、どうありたいか、またどうあらねばならないかという心の願いが伝わってくる。
パウロの心からの祈りである。パウロだけでなく、誰でもがこの祈りを自分の祈りとしたいと願うのではなかろうか。キリスト者として、この祈りのように整えられたい、日々このような信仰生活を送りたい、と願う。まさしく宝石のような大事な祈りである。ここから『私を変える3つの祈り』を順に見てゆきたい。
@「内なる人を強くしてくださいますように」(14〜16節)
私蛭沼はこの1月2日で48歳となった。もう徐々に若い者から壮年の者となった。自分は若いつもりでも、体がついてゆかない。日本からメールで「見かけだけは若い蛭沼先生」と書いて寄こした大津教会の信徒さんがいた。自分ではもう若いとは言えないと分かっていても、そう言われるとなんだかしゃくに障る。この手紙を書いた頃のパウロは、65歳くらいであったろうと言われている。当時としては高齢の域に達していたであろう。多くの困難を経験し、牢獄に入れられた経験をこう綴っている。第コリント11:23〜27「〜
労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。〜39のむちを受けたことが5度、〜」。多くの苦難を晩年になって受けたパウロ。外側は衰えを隠せないパウロであった。しかし、パウロは、こう確信していた。同じく第コリント4:16〜18「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。〜」と。キリスト者は外側、つまり生まれ持った体は衰えていっても、私たちの内なる人、つまりキリストによって新生させられた霊なる自分は、主によって毎日毎日新しくされ元気を頂いて歩み続けることができる、と信じていたのである。それはどうしてなのか。エペソに戻って見てみましょう。
16節「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって〜」とある。私たちの内なる人は、父なる神が御霊によって私たちを強めてくださるからである。つまり神がスポンサーということである。何という恵みであろう。天地創造の、また全知全能の父なる神様が後ろについていてくださるのである。「豊かさ」、それは「豊かな恵み」(1:7)、「栄光に富んだもの」(1:8)、「すぐれて豊かな御恵み」(2:7)、「測りがたい富」(3:7)である。
大きな力をもって私たちを育て、養い、強くしてくださるのである。そしてその目標は、と言うと、それはキリストへと強められる、という目標である。
16節の「内なる人」は単数形であることから、キリストに似た者となって行くという意味が原文には含まれている。私たちが強められるのは、単に私たちが元気になってゆくというより、むしろ主と同じ姿に変えられてゆくことである。
A「キリストが心のうちに住んでいてくださいますように」(17節)
こう祈るからといって、受け取り人の信者たちの心にいまだにキリストがおられない、という意味ではない。信者になっているからには、むろん既にキリストが御霊において宿っておられる。ヨハネ14:23節で、主ご自身が証言しておられる。「〜わたしはその人のところに来て、その人とともに住みます」と。信仰を持っているならば、キリストは既に私たちの内におられるのである。では、「住んでいてくださいますように」とは、どういう意味の祈りなのであろうか。「住む」という言葉は、「居を定める」「定住する」を意味する言葉である。単なる一時滞在という意味ではない。腰を下ろして定住する、ということである。つまり、御霊においてキリストは既に信者の心に宿っておられるであるが、キリストが本当に心に定住し、心の王座に着いてくださることを、パウロは祈っているのである。キリストがキリスト者の心の間借り人のようではなく、ほんとうの住人になること、いや、家長になってくださるように、と祈るのである。私たちがキリストを心の王座に迎え、全面的に心の家を日々明け渡すことができるようにと、心から願うことなのである。
B「キリストの愛を知ることができますように」(18〜19節)
この祈りは、あまり説明を必要としないのではなかろうか。私たちキリスト者は、キリストの愛の深さを知れば知るほど、キリストの愛に応えたい、と思うのである。キリストの愛の広さを知れば知るほど、私は憐れまれている、私は罪人であるが赦されていると感じ、感謝が溢れてくるのである。そしてもっともっと主の愛の思いでもって生きていきたいと願い、主の愛で人を愛せるようにと願うのである。これはまさに、御霊の働きである。
最後に、18節のキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さとは何でしょう。
「キリストの愛の幅広さ」は「愛は寛容であり、愛は親切です」。
「キリストの愛の長さ」は「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません」。
「キリストの愛の高さ」はそれは神からの愛。
「キリストの愛の深さ」は「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」。このキリストの愛を益々知ることができるよう、私たちの心が敏感であるよう、祈りたい。
聖徒としてこの3つの祈りをささげ、日々変えられ、整えられてゆきたい。そう願いつつ主の前にへりくだり歩みたい。