1月16日2000年 「あなたはどこにいるのか」 黙示録2〜3章
序.私達は、困った事があった時、その問題がなくなることを求めがちですが、聖書はそれとは違う解決の方法を示すことが良くあります。例えば、あるお嫁さんは自分のお姑さんとの関係で悩んでいた。もっとあの人が優しくなってくれれば、と願っていた。ところが神様から自分の罪を示され、悔い改めてイエス様を信じた。そして、そのお姑さんに対する考え方が変わってきたのです。お嫁さんは周りの人にそのお姑さんの良いところを誉めるようになった。するとやがて、そのお姑さんの態度が変わってきて、優しくしてくれるようになったのだそうです。相手が変わるのではなく、自分が神様に取り扱われて新しい生き方を始めると、他の人との人間関係も変わって来るのです。神様の解決方法は、まず私自身を見つめ直す所から始められます。
さて、前回から黙示録を学び始めました。この書は、迫害や苦難の中にあった教会に対して書かれたものです。その問題に対してどのように対処すべきかを語る前に、自分たちががどんな状態であるのかを考えさせることから始まります。それが、2章と3章です。そこには7つの教会への言葉が並んでいます。黙示録全体が、7つの教会に宛てて書かれた特別な手紙であることを前回にお話しましたが、その中でも、ここはそれぞれに対する小さな手紙のようになっています。そして、その7つのミニレターはどれも同じような形式で書かれています。その形式にそった形でお話していこうと思います。手紙の始まりは宛先と送り主、すなわちそれぞれの教会とそれに対して語っておられるキリストが書かれています。手紙の本文はまず第一に教会の現状に対するキリストの評価が書かれています。第二に、教会の持っている問題点を指摘しています。そして第三に悔い改めの勧めと励ましが書かれています。その順番にそってお話したいと思います。
ところで、まずちょっと専門的な話なのですが、この7つの手紙をどのように解釈すべきかという事は昔から問題とされてきました。もちろん紀元1世紀に小アジア、すなわち現在のトルコにある7つの教会に対して書かれた手紙であることは間違いないでしょう。しかし、それが聖書の中に含まれるようになって、それらの7つの教会だけではなく、全ての時代の、全ての教会に対するメッセージでもあるわけです。ところがその全時代といった場合に、この7つの教会は歴史における7つの時代を表していると考える解釈があります。最初のエペソは初代の教会の代表であり、2番目のスミルナは2から3世紀の迫害時代の教会といった調子で、最後のラオデキアは現代の教会を示しているという見方です。たしかにそういわれると、当てはまるような気がするのですが、ちょっと問題があります。もしそうだとすると、現代の私達には7つ目の手紙だけが関係していて、他の6つは無関係だから読まなくても良い事になってしまいます。全ての時代のクリスチャンに対して聖書は書かれているのですから、7つの手紙全部が私達と係わってくるべきです。むしろ、この7つの教会はどれも私達の姿なのです。グレンビュー教会も、ある時にはエペソ教会の様であり、ある時はラオデキア教会の様になることもあります。また一人一人もエペソの様な心になることも、スミルナのようになることもあります。ですから、これらの7つの手紙を読んでいくと、ああこれは私の姿だと思うことがあるのです。あなたはどの教会の姿が当てはまるでしょう、それが今日の説教のタイトル、「あなたはどこにいるのか」です。
ちょっと前置きが長くなりました。ではまず、第一のポイントについて見たいと思います。それはイエス様は私達の状況を良く理解して下さっておられるということです。
1.評価して下さるキリスト
もう一度、2章の1節から見てみましょう。まず宛先はエペソの教会の御使いとなっています。これはその御使いを通して教会にメッセージを伝えると言うことでしょう。差出人はキリストです。でもキリストの事を不思議な表現で書いてあります。7つの星を持ち、7つの燭台の間を歩く方と書かれています。これは1章にキリストの姿を描いているのと同じ表現をここで使っているので、中には意味が分かりにくい表現もあります。例えば18節で「その足は光り輝く真鍮のよう」と書かれているのはどんな意味なのか分かっていません。黙示録の中にはそういった意味不明の部分があるのですが、それは無理に意味をこじつけるよりも今のところは分からないままにしておいたほうが良さそうです。でもある表現はその意味が分かっている場合もあります。例えば、この7つの燭台というのは、1章の最後、20節で、7つの教会のことだとはっきり介せるされています。キリストは7つの教会の間をあるいて何をしておられるのでしょか。それは、いわば大きな試練が来る前に一つ一つの燭台の状態をチェックしておられるかの様です。ではエペソの教会はどんな状態だったのでしょうか。
2、3節。イエス様は彼らに、難しい状況を良く忍耐しているね、と誉めていて下さるのです。かれらはどのような状況にあり、何をしているかを良くご存知なのです。私達は悩んでいるときに、まるで神様から見放されているかのように感じる事もあります。でも、イエス様は私達のことを私達以上に良く知っておられ、私達がそのような困難の中で、自分の出来る限りの事をしていることを良く評価していて下さるのです。そして私達の行いを見ておられる。福音書の中でイエス様は、他の人に水を一杯あげた事さえもイエス様は覚えていて下さり、その報いを必ず天国で与えて下さると約束しておられます。神様は一時たりとも私達のことを無視なさったり忘れたりすることは決して無いのです。私達は神様を忘れることがあっても、神様は決して私達を見放したりしないお方です。
また私達は自分に対する評価が必ずしも正しくない事があります。9節で、スミルナの教会に対して、「あなたの苦しみと貧しさを知っている、しかしあなたは実際には富んでいる」と語っています。スミルナの教会は迫害の中で、物質的には大変貧しい状態だったようです。そのような時に人間は「あれがない、これもない」と無いことに目がいきがちです。でも神様からの恵みは時には目に見えないものもあります。彼らは物質的には貧しく見えていも、霊的には神様からの恵みに富んでいたのです。反対に最後にあるラオデキアの教会は自分たちは富んでいると誇っていましたが、神様の目からはその心の状態はひどい霊的な貧しさにあったようです。クリスチャンは自分の状態や自分のしていることを過小評価か、逆に過大評価することが良くあります。聖書を通してイエス様の評価をいただくことが必要です。
7つの教会への手紙はそれぞれの教会を誉めている部分と叱っている部分があります。ある教会は半分誉められ、でも半分しっかりと叱られています。ある教会は叱られる内容は全くなく、誉められてばかりです。かと思うと他の教会の中には叱られてばかりの教会もあります。私達はどれでしょう。というとすぐに自分は叱られるほうかなと思うクセのある人もいるかも知れません。たしかに叱られる事の多い時もあるかもしれません。でもいつもそうなのではありません。良くやっているね、と言われることも決して少なく無いのです。何よりも、このように手紙を書いて語りかけていること自体が、神様の教会に対する愛の現れでもあるからです。だから、もし叱られる事があっても、神様は私達を否定しているのではなく、そこから立ち直らせるためにおっしゃっておられることを忘れてはいけないと思います。
2.問題を示されるキリスト
さて、今度はその「お叱り」の部分に目を向けましょう。7つの教会が面していた状況は大変難しいものでした。外からは厳しい迫害がありました。ユダヤ教徒の一部からの迫害と、ローマ帝国、特に何人かの皇帝は自分を神として拝むことを強要しようとし、そのために迫害が起こりました。それだけではなく、内側からの問題もありました。異端と呼ばれる、間違った教えを伝えるグループがすでに教会の歴史の初めからあったようです。6節に出てくる「ニコライ派」というのもその一つです。具体的にこのグループがどんなものであったかは分かりません。しかし、明らかに神様が憎まれるような事、聖書にはっきりと禁止されていることを、いろいろな理由を付けて正当化するグループもあったようです。例えば、偶像礼拝、あるいは不品行です。でも、これらの内と外からの攻撃が本当の問題ではありません。
エペソの教会はそのような間違った教えに対して断固として反対しました。正しいことを言っているような顔をしている者達の偽りを見抜いてそれを指摘しました。ところが、そうしている内に彼らは大切な事を忘れてしまったのです。お互いの間違いを探し会い、違っている物を排除するあまり、彼らはお互いに対する愛をおろそかにしてしまった。それが4節です。もちろん間違った教えを放って置いて良いのではありません。でも、例え間違った教えを伝えている人であっても、その人が間違いに気付き救われることを祈ることも忘れてはなりません。特に、教会の中で敵を作ってはならないのです。イエス様は弟子たちに「愛し合いなさい」と教えられました。なぜなら愛し合うことにより、教会にキリストがおられることを周りの人たちが分かるようになるからです。ですから愛を失ったとき、教会は世の光としての働きをも失ってしまうことになります。
「兄弟愛」については今日のテーマではないのでこれ以上は触れません。でも、大切なことは、目に見える問題が本当の問題なのではないということです。例え迫害も異端も無くても、良い状況であっても、隠れた所に真の問題が潜んでいることがあります。エペソの教会にとっては、それが愛の欠如だったのです。
ところで、今日はエペソの教会のことだけを扱う訳ではありません。一回に一つの教会ですと3章が終わるのが4月ころになっていつになっても黙示録が終わりになりません。今回は半分で終わりではなく、最後まで行きたいと思っています。かといってこのペースで行きますと今日の説教が終わるのが一体何時になるか分かりません。そこでいきなり7番目の教会、ラオデキアの教会に目を向けたいと思います。間にある他の5つについては各自家に帰ってからお読み下さい。そのなかにあなたへの励ましと戒めが必ず含まれていますから。
では3章の14節から。15、16節は誤解されるかもしれない所です。生ぬるいのはいけない。では過激な信仰がいいのでしょうか。また熱いか冷たいか、というので信仰は熱心か、さもなければ冷え切った信仰が良いのだろうか。それは明らかに違うと思います。黙示録の中には良く分からない表現やシンボルといいたものがたくさん出てきます。でも中には研究が進むにつれて意味が分かってきたものもあります。ラオデキアの両隣の町にはそれぞれ素晴らしい泉がありました。片方は冷たい水が湧き出る泉で、それを飲むと体がリフレッシュするような気がします。もう一方の町では温泉が湧き出て、その熱い水(お湯)はある種の病気に効く温泉だったようです。ところがラオデキアには泉がない。そこで水道を引いてきて飲み水としていたようです。ところがそ水道を通ってくる間に水は生ぬるくなり、もとの水のおいしさを知っているものにとっては吐き出したいほどになっていた。丁度それと同じで、ラオデキアの教会は命を与える冷たい水でも、病気を治す熱い温泉でもなく、生ぬるい、命のない水のようになっていたのです。こういったことは考古学の研究により明らかになってきたことです。他にも、ラオデキアの町は金融業、毛織物、また目薬で有名で、大変豊かな町であったようです。その町の人たちはそれを誇り、そして教会も同じように自分たちを誇っていました。しかし、神様の目には問題だらけであり、何よりもその高慢が一番の問題でした。その高くなった鼻をへし折るかのように語っているのが15から18節です。何も問題はない、と彼らが誇っている所にこそ問題があり、それを直すことが出来るのは自分たちの持っているものではなく、イエス様からの金と衣と目薬が必要だということなのです。このラオデキアの教会の姿は、特に日本やアメリカに当てはまることが多いような気がします。物質的には豊かになった、何でも自分の力で解決できる。そう思っているが実際は高慢という罪に目がふさがれて、自分の姿が分からなくなっている。そして、そのような世の中の考え方にクリスチャンも影響されているのが現状かもしれません。神様の御言葉の光によって照らしていただく必要があるのです。
3.招いておられるキリスト
さてこのラオデキアの教会は誉められるところが一つも無く、叱られてばかりです。でも、そのような教会に主はすばらしい言葉をかけて下さいました。19節。「私は愛する者をしかったり、懲らしめたりする。」叱られるのは、愛されてないからではなく、愛されている証拠である。しかられるのはあまりありがたく無いですが、でもそんな姿の者をイエス様は愛して下さっておられるのです。そして、キリストが叱っている本当の理由は、悔い改めて欲しいからです。悔い改めとは、間違った方向に向いてしまっているのを、正しい方向、神様の方へと向きを変えることです。エペソの教会は愛を失っていました。その彼らに対しては、初めの愛に立ち帰ることが奨められています。あの放蕩息子に父親が帰ってくることを願い待ち続けたように、神様も私達が帰ってくることを心から願っておられる。それは私達を愛しておられるからです。それが悔い改めの勧めなのです。 クリスチャンは困難の中にいるとき、悩んでいるときに、聖書を通して罪を示されることがあります。それよりも問題を解決して欲しいと思うのですが、なぜか神様は私達に悔い改めを迫られます。そんなとき、「あの人だって悪いじゃないか」とか「あのことが原因なのに」と思うのですが、神様は他の誰よりもあなたの事をあいしておられるからこそ、あなたに正しい場所に戻ってきて欲しいのです。なぜなら悔い改めた時にこそ最も神様の恵みが与えられるからです。目に見える問題が表面的に解決されるのではなく、もっと深いところで取り扱われて、私達自身が変えられていくことを神様は願っておられるのです。
この悔い改めを奨める主の愛は、違った形で描かれているのが20節です。イエス様は私達の心の戸をノックしておられる。無理矢理に押し入ってこられるのではなく、私達が心を開いて主を迎え入れるのを忍耐強く待っておられるのです。御言葉を通して、あるいは他の人の口を通して神様は私達に語って下さり、主を心の内に迎えるように招いて下さるのです。そしてキリストを主として受け入れた時に、主は共に食事をして下さる、したしい友となって下さり、また家族となって下さる。ですから私達は叱られているのではありません。本当は、招かれているのです。悔い改めるのには確かに痛みがあるかもしれません。受け入れるのには勇気が必要かも知れません。しかし、主は愛しているからこそ、また愛したいからこそ、私達を悔い改めに導かれるのです。
そして、悔い改めただけではありません。励まして下さいます。7つのミニレターは勝利を得る者への約束で終わっています。この勝利は人間的な意味での勝利ではありません。他者と戦い、相手を引きずりおろし倒して、自分の勝利をつかむ、そのような勝利ではなく、迫害や困難の中で主の言葉を守り、信仰を貫き通すことの勝利です。しかもそれは私達の力によるのではありません。フィラデルフィアの教会に対して、3章8節でこう言っています。 私達の力は小さなものかも知れない。しかし、主が門を開いて助けていて下さる。だから、勝利を目指して歩みなさい、という励ましです。崖から突き落として自分で這い上がって来い、という冷たい言葉でもなく、勝利できなかったらどうなるかという脅しでもありません。愛に根ざした励まし、それが困難のなかにある人に与えられている言葉です。
勝利を得る者に与えられるのは何でしょうか。それは天国における賞品です。私達の直面する問題の中には、解決が与えられるものも、そうでないものもあります。また神様はこの世においても恵みを豊かに下さいます。でもどんなことも、天国において与えていただくものに比べたらとるに足らないほどに小さなものです。21節では、キリストの座に一緒に座ると書かれています。何という素晴らしい栄誉でしょうか。恥ずかしい姿でありながらそれが分からずに自分を誇っていたラオデキアの教会のクリスチャンたちに、その恥をぬぐい去って下さり、これ以上はないという栄誉を約束して下さるのです。ほかの6つの教会に与えられた約束も家に帰ってから見て下さい。中には意味が分からないものもあるかもしれませんが、でもどれも大切な約束です。
まとめ.手紙の最後の言葉は22節です。「耳のあるもの」というのは福音書の中でも使われている言葉です。それは耳があるか無いか、聞こえるかどうか、ということではなく、誰であっても、耳を傾けなさいと言うことです。何に耳を向ければ良いのでしょうか。それは周りの状況ではありません。私達を欺いて間違った方へと向けさせるサタンの声でもありません。神の御霊の言われることにです。ある人は自分の罪を示され、悔い改めを迫られているかも知れません。また、悲しみや悩みの中に落ち込んでいる人には勝利への励ましを通して忍耐を教えているかもしれません。誰でも、その言葉に対して心の戸を開くならば、キリストご自身が入ってきて下さり、間違いを正し、傷を癒し、命を与えて下さるのです。そのイエス様の声に耳を向けようではありませんか。