2002年1月13日『キリストの香りを放ちたい』第2コリント2:14〜17
私たちはどのような香りなのであろうか。またどのような香りを周囲に放っているであろうか。本日の箇所を通して、私たちキリスト者は、どのような者なのか。主の証人としてどのような使命が与えられているのかを共に学びたい。
@かぐわしい香りの源
その昔、勝利の凱旋式の時、副官は栄えある勝利にあずかる者として、騎馬で隊長のそば近くにはべり、その軍車にともなったことがある。ローマ人たちにおいては「凱旋式」は公の、おごそかな栄誉であった。華やかな行列が組まれ、市中を行軍した。その行軍に先立ち、花道が香り豊かな花撒きで彩られた。
その花道の香りと共に、凱旋したのである。
パウロはその光景と重ね合わせて私たちはどのような者とならせて頂いたのかをコリント教会の兄姉に対して明言している。15節「私たちは〜キリストのかおりなのです」。原語の文頭に「キリストのかおり」が置かれている。なんのかおりなのか。他でもない<キリストのかおり>であると。
パウロは、コリントの教会を愛していた。2:4では、「あふれるばかりの愛を知っていただきたい」と書いている。ユダヤ主義者たちにかき乱され、様々な教えに振り回されていた教会。堅く信仰に立て、という強い調子で書かれた第1の手紙の大般の誤解が解け、もう一度訪問をしたいと願っていた。勿論まだ痛みが教会から拭い去られたわけではなかった。2:5以下のある違反者の処罰に関する痛みであった。キリストの証人として成長を願っていた。
その成長のための源をパウロは明確にしている。<キリストのかおり>の、
「の」という言葉にはいくつかの意味がある。第1は、<キリストを基とするかおり>であるということ。私たちの香りの発生源は、キリストにあるのである。つまり、キリストが芳しいかおりであるので、私たちはその香りを放つことができるのである。主が私たちの救い主である。罪の悪臭から切り離し、罪の奴隷から解放してくださった勝利者なのである。そして、勝利の凱旋の行軍に加えられた勝利者としてくださったのである。ローマ人への手紙8:33〜39「神に選ばれた人々を〜、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。〜」とある。キリストの勝利にあずかるのである。もう何も恐れなくてよい、サタンの攻撃を受けても不安を抱くことはないのである。神が私たちの後ろ立てであり、主イエス・キリストがとりなしていてくださり、聖霊なる神が私たちをよきに導いてくださるのである。
Aキリストの香りのかぐわしさ
<キリストのかおり>の「の」の第2は、<キリストを知っている素晴らしい香りである>ということである。このかおりは、ギリシャ語で<アロマ>という言葉が用いられている。これは、高貴な香り、つまり最高級で貴重である、と言う意味である。香りを表現すると、<やさしい><強い><自然な><むっとするような>という言葉が浮かぶ。あなたの香りはどのようなものか。私たちキリスト者の香りは、<神の前にかぐわしい>香りである。キリストを知っていることの素晴らしさの香りである。
またその香りは、どういう人の中にいてもかぐわしい香りであると、パウロは言う。それは、15節〜16節の言葉である。「〜救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも」かぐわしい香りである。それも「ある人たちにとっては、から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです」と。香りを嗅いで教会に導かれ、キリストを知って異臭を放つ罪の人生から、永遠のいのちをいただくものとなる人。また一方では、香りを嗅いでも拒否して滅びへと歩む人もいる。パウロの中に一つのイメージがあった。それは、凱旋式行軍の際、捕虜として連れて来られた人にその後の待遇に二通りの人があった。一つは、捕らわれても命が助かり奉仕者として用いられるケース。またもう一つは囚人の名の通り死を迎えるケース。
そのイメージと重ねてこの<救われる人々><滅びる人々>と表現している。
私たちは、これらを自分の日々の証しの中で経験している。しかしどのような人々の中にあっても、<神の前にかぐわしい>かおりを放つ者でありたい。誰が見ていようと、誰が何と言おうと、キリスト者として証ししたい。神の国その義とを第一としたい。聖日礼拝、祈り会をささげること。十戒をはじめとする聖書の教えに従って歩む者でありたい。人々は私たちのその香りを嗅いで教会に来ようと思うのである。
Bかぐわしい香りの使命
私たちの証し、そして立場が、それぞれの道しるべ的な重大なものであるなら、この務めにふさわしいと思う人は誰もいないであろう。16節のことばを口語訳では、「誰がこの任に耐えることができようか」と訳している。しかしパウロは、その務めにふさわしい人を紹介するのでなく、どのような歩みをすることが大切か、その歩みをするよう召されている私たちがそれをするのだと、奨めている。
まず第1に、神のことばに混ぜ物をして売るようなことをしない、こと。当時香辛料や油など純粋度が売り物の食品があった。混ぜ物がない物はやはり高価であった。しかし儲かりさえすれば何を売ってもかまわないという商売人もいたのである。外見は変わらないまがい物があった。不純物を入れて本物の値段と変わらない価格で売っていたのである。聖書から割引せず、水で薄めもせず、ましてや他の偽物とすり替えたりせずに、福音を語らねばならない。証しせねばならない。
第2に、大切なことは、誠実に愛をもって語ることである。17節「真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです」と。私たちは聖書を神のことばとして忠実に語らねばならない。たとえそれが相手にとってきつい御言葉であっても、誠実と愛をもって語る時それは<恵みのことば>となって相手の心に深く浸透してゆくのである。さばく思いを神のささげ、真心をもって接し、語る者でありたい。
最後に、D.Mロイドジョンズの言葉を紹介したい。(著書『山上の説教』の「幸福の使信への序文」中より)
<世は教会の中にはいって来ており、教会は世的になってしまっている。境界線は以前ほどはっきりとはしていない。この区別がはっきりとしていた時代があった。その時代は、いつの場合も、教会の歴史における偉大な時期の一つとなっている。しかし私たちは、絶えずもち出されるあの議論を知っている。私たちは、教会を外部の人にも魅力的にするべきであり、できるだけ外部の人と似たようにすべきであるという考え方に接してきた。第一次世界大戦のときのことであるが、評判のよい軍隊付き牧師たちは、自分の兵隊と親しく付き合っていた。ともにたばこをすったり、ともにいろいろなことをしたりしていた。それは兵隊たちを励ますためであった。彼らはその結果として、戦争が終われば、退役した兵隊たちが群れをなして教会に来るであろうと考えていた。ところがそうはならなかった。かつて一度もそうなったことはない。教会は絶対的に世と相違しているときに、世をひき付ける。ここに福音のすばらしさがある。初めのうち、世は教会を憎むかもしれない。しかし、世が教会のメッセージに耳を傾けさせられるのは、そのときなのである。これが信仰復興の起こる道である。このことは、個人としての私たちにも事実でなければならない。自分はたまたまキリスト者ではあるが、できるだけ非キリスト者と同じようでありたいということが、私たちの希望であってはならない。むしろ、少しでも、また、できるだけ、キリスト者でない人々と違っていたいと切望すべきである。私たちがせつに願うことは、キリストに似ることでなければならない。キリストに似れば似るほど、望ましいことである。>