2001年1月7日 ヨシュア記1章 「祝福への前進」 1月7日


序.今日から皆さんと一緒にヨシュア記を学んでいこうと思っています。去年の夏に民数記を学びました。民数記の次は申命記ですが、これは時間的には短い期間を扱っていますので、ヨシュア記は民数記のほぼ続きにあたります。
あまり、旧約聖書になれていない方のために、ヨシュア記はどのような時のことを扱っているかを簡単に説明しておきます。
 エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルの民を救うために、神様はモーセを遣わしました。いろいろな奇跡と最後かつ最大のしるしである過越という出来事によって、イスラエルはエジプトから救い出されました。そしてまずシナイ山で神の民となる契約を結んだ。ここまでが出エジプト記に書かれています。その後の目的地はカナンの地、現在のパレスチナです。ここはイスラエルの先祖であるアブラハムに神様が約束され、アブラハムの子孫にこの地を与えると言われたところです。カナンの地に向かって出発したイスラエルですが、何度も神様に逆らい、とうとう40年間荒野をさまようことになりました。ようやく、放浪の時が終り、カナンの地の直前まで来た。そこまでが民数記に出てきます。しかし、そこで指導者であったモーセが死んでしまいます。新しい指導者として立てられたのがヨシュアです。このヨシュアを中心に、イスラエルの民がカナンの地を手に入れていくのがヨシュア記です。
 ヨシュア記の中にはいろいろと難しい問題が含まれています。特に戦争の問題です。どんな戦争でも正当化されるべきではありません。では、ヨシュア記の中の戦争をどのように捉えて行くべきか。そういった事は、これから徐々にお話ししていく事にして、今日はまず、このヨシュア記が今の私たちにとってどのような意味があるのか、を考え
たいと思います。出エジプトの出来事は、罪からの救いを指し示すものと考えられています。救われたものの生き方のある側面を示したのが民数記ですが、ヨシュア記も違った面でクリスチャンの生き方を象徴しています。それは約束の地を戦い取って行く、ということです。救いは、ある意味で、すでに与えられたものです。しかし、同時に救いの祝福は生涯の中で一つずつ受け取って行くものなのです。そして最終的な祝福、あるいは、ヘブル書で学びましたが、最終的な安息というものは天国において与えられます。それまでの間、地上での生涯で私たちがどのように祝福をいただいて生きるかを、ヨシュア記は示しています。すなわち、祝福に向かって前進することです。
 今朝は、その前進の始まりである1章から三つのことを学びます。第一に、神の命令と約束ということ。第二に、神による勇気。そして最後に、神の言葉によって生きる、という順番で見ていきます。

1.神の命令と約束
   さて、偉大な指導者であったモーセが死んだとき、人々は嘆き悲しみ、30日の間喪に服しました。その期間が終わったとき、神様がヨシュアを通してイスラエルに言ったのが2節からです。2、3節。神様の命じたことは、まず立ち上がりなさい、ということです。前進するために立ち上がる必要があります。誰でも、前に進めない時があります。疲れたり、悲しみや苦しみで心が一杯の時に、前進せよというのは酷です。しかし、いつまでも一つ所に留
まってはいけない。止まっていると、信仰は段々と衰え、成長できないからです。そこで、十分な喪の期間が済んだ時に神様は命令された訳です。第二の命令は、ヨルダン川を越えて進むことです。そこには問題もあります。しかし、神様の約束を信じて前に進むときに道が開かれるのです。
 前進する目的は何かと言いますと、それは約束の地であるカナンを手に入れるためです。それは神様が与えてくださるものです。与えるという動詞がここに2度出てきます。2節では、「与えようとしている」。現在進行していることであり、これからの未来のことです。ところが、3節では「与えている」。これはすでに与えたという過去のことであり、完了形です。これは矛盾ではなく、神様の目から見ればすでに与えたのですが、人間の側からすれば、それは与えられていくものなのです。
 この「すでに与えた」と「これから与えられていく」という二つのことはいつも覚えておく必要があります。私たちは、すぐにどちらか一方に偏ってしまうことがありますが、大変危険です。「すでに与えられた」という事にだけ目を留めていますと、もうすでに与えられたのだから、何もしなくて良い。救いが遠い過去のことになり、今の生活になんにも影響がなくなってしまう。反対に、「これから」にだけ目を向けますと、なんでもこれから自分で手に入れる、自力による救いになりがちです。ですから、すでに恵みが与えられた事を確信し、同時にこれから与えられる恵みを受け取るように前進するのです。
 ところで、具体的には何が私たちに与えられるのでしょうか。救いの祝福というのは実に盛りだくさんです。そこには多くのことが含まれています。過去の罪が赦されただけでなく、今犯してしまった罪にも悔い改めにより許しが与えられていきます。新しい命がすでに与えられ、その命によって成長していきます。神の子としての身分がすでに与えられ、父なる神との交わりを日々味わうようになります。キリストの霊である聖霊が与えられ、キリストの姿へと変えられて行きます。平安、喜び、感謝といった祝福の実を数えていけば、数限りなくあります。こういった恵みを神様はすでに与え、約束され、そして与え続けてくださるのです。
 どのように受け取るかは、3節に書かれています。足の裏で踏む所、と書かれています。足の甲で踏むのはちょっと難しい。そんなことを言っているのではありません。一歩ずつ踏みしめていくとき、その場所が与えられていく。ですから、面倒だから一足飛びに全部を一度にいただく、というのではありません。そのときにはそのときの祝福が備えられているのです。そこを一歩ずつ前進していくというのは、それ自体素晴らしい恵みの体験では無いでしょうか。

2.神による勇気
   さて、祝福へと前進していくことは素晴らしい恵みなのですが、困難が無いのではありません。ヨシュア記のイスラエルは、これからヨルダン川を越えなければなりません。向こう岸には敵対する民族がいます。また、指導者であるヨシュアにとっては、モーセでさえ苦労したこの民を連れていかなければならない。そこには恐れがあり不安があったでしょう。そんな彼に神様の次の言葉がかけられました。5,6節。
 神様はヨシュアに「強くあれ、雄々しくあれ」と命令しました。でも、これはちょっと変な命令です。不安を覚えるのは自然にそうなってしまいます。恐れがあるのにそれをかくして強がるのはカラ元気です。聖書の中に何回も「恐れるな」という言葉がでてきます。それは、「恐れなくても大丈夫だよ」という励ましの言葉でもあります。神様は不安や恐れをもっている人に勇気を持ちなさいと声をかけているのです。
 信仰によって生きていくのは勇気のいることです。見えないことを信じて進んでいくのは真の強さがなければできません。クリスチャンの勇気はどこからくるのか。自分に対する自信ではありません。そうではなく、例え自分は無力であると知っていても、全能の神様が共にいてくださる。そこにどんなときでも揺るがない勇気が生まれるのです。
 神様が共にいてくださることはそれ自体が救いです。私たちの側は神様を忘れることがあっても、神様は「決して見放さず、見捨てない」のです。ところが、その神様が共におられることが嬉しくない事があります。それは罪があるときです。そのとき人間は周りの事よりも神様自身を恐れます。しかし、そんな罪人でも神様は見捨てず、罪の赦しを御子を通して与えてくださるのです。ですから、どんなときでも恐れる必要はないのです。

3.神の言葉によって生きる
   勇気をもって前進するためには、神様がともにいてくださることが不可欠です。ではどうしたら神様の共におられることが分かるのでしょう。間違った道を進んだり、神様が望んでも命じてもいないことをしてはいないでしょうか。それを知ることができるのは御言葉を通してです。神様の言葉に従うことによってです。7、8節。
 神様は「強く雄々しくあれ」と言った後で、何と言ったでしょう。戦いなさいとは言いませんでした。クリスチャンの強さは戦いのためではありません。御言葉を実行することです。まだ聖書のできていなかったヨシュアの時代にはモーセを通して与えられた律法が神様の御言葉でした。それを守り行い、右にも左にも逸れないなら、祝福があると言っています。神様のおっしゃる通りにしてれば間違いがない、ということなのですが、それだけではありません。
 神様はヨシュアに、御言葉を口から離さず、いつも口ずさみなさい、と命じました。聖書は大切です。だからいつも肌身離さず持ち歩く、でも決して読まない、というのではいけません。聖書は読むものです。御言葉は聞くものです。グレンビュー教会では毎月、御言葉を歌にして覚えています。覚えた御言葉を、ふと気がついた時に口ずさんでいたら素晴らしいですね。でも何故、いつも御言葉を読むことが大切なのでしょう。それは、御言葉によって私たちは神様から語りかけていただくからです。しかも、そのときに、御言葉に親しむ態度があるなら、神様の恵みの言葉が豊かに入ってきます。いやいや読んでいると、早く今日のノルマを読み終えて、それから何をしようかな、と考えながら読んでしまい、神様からの語りかけは聞こえません。ですから、普段から御言葉への姿勢が問われるのです。
 神様から語りかけられ、また神様に応答していくとき、私たちは神様との豊かな交わりを経験できます。これこそがクリスチャンが神の子として成長するためのカギなのです。御言葉は私たちが前進するときの道しるべであると同時に力を与えてくれる糧でもあるのです。

まとめ. この新しい年もグレンビュー教会が、そして私たち一人一人が前進し成長することを神様は願っておられます。それは命令であり約束です。しかも、神様ご自身が共にいて助けていてくださいます。私たちのなすべき事は、その神様の声に聞き従うことではないでしょうか。教会の今年の御言葉は「我と我が家は主に仕えん」です。そうすることの恵みを今年一年を通して味わい知らせていただきましょう。