2002年1月6日『自分が照らし出される時』ルカ22:54-62

 <あなたの素晴らしい人生の一場面を照らしてさしあげます>と言われたら、
あなたはどの場面を望むであろう。また反対に、<照らし出して欲しくない場面>はどの場面であろう。どの場面でも今はいいと言えることは、幸いである。私たちは主に救って頂いた者である。今信仰によって生かされている者である。キリスト者として、信仰そして主の弟子として、本日は<弱さを知る信仰>を「ペテロが主を否む」箇所と第1ペテロの手紙の証言をもとに学びたい。

@ 照明1:ペテロの様々な弱さ
 15年ほど前に、壮年の姉妹の言葉に深く考えさせられたことがあった。それは次のようなものであった。「信仰生活で大事にしなければならないことは、自分の弱さにいかに気づかされ続けることである」という言葉であった。特にこの姉妹は、人が皆帰った後の聖日の夕方、掃除やゴミ捨てを黙々とされ、それを決して人にひけらかさない人であった。そういう人の言葉であっただけに、私にとって大きなチャレンジであった。
 新約聖書の中で、ペテロほど、いわゆる<弱さに気づかされた人>はいないのではなかろうか。「主を否む」という、別の並行箇所のマルコによる福音書
14:72にはこう書かれている。
<〜するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。>
それに思い当たったときの「それ」というのは、勿論直前のイエスの言葉であるのだが、外に出て、激しく泣いたペテロの脳裏には、おそらく突っ伏して身を震わせながら、悔いと共に以前の失敗や弱さが走馬燈のように一つずつ浮かんできたのではないか、と思うのです。
・ 主御自身が十字架と復活の預言を示し始められたとき、わざわざイエスを引き寄せいさめてしまい「下がれ。サタン」と言われてしまった時のこと。
(マタイ16:21~22)
・ それから一週間も経たない内に、変貌山での「三つの幕屋を造ります」と余計で差し出がましいことを言ってしまった時のこと。(マタイ17:1~3)
・ イエスが弟子たちの足を洗われた時、自分の順番に「洗わないでください」
と謙遜したものの、「洗わなければわたしとは何の関係もない」と言われ、あわてて「足だけでなく、手も頭も洗ってください」と、とんちんかんなことを言ってしまった時のこと。(ヨハネ13:8~9)
よくよく言葉で失敗するペテロである。
A照明2:ペテロの大きな失敗
極めつけは、この「主を否む」場面である。普通であると、もうこれだけ叩かれたのだから、もう良い場面を紹介してあげようというところである。しかし聖書は、容赦なく、それもすべての福音書に紹介してしまうのである。とことんまでペテロの姿を照らし出します。「主を否む」という、ある意味で、あってはならないことの中に、ペテロを置くのである。
 何故こうまでしてペテロの人生を照らし出すのか。彼の弱さや失敗を照らし出すのであろうか。ペテロの信仰が消え失せたのであろうか。いやむしろ、この照明から、信仰とは何か、信仰生活とは何かをペテロに、そして私たちに知らせるのである。信仰は自分ができるからするのではない。自分のやる気や熱心さでもない。ただ主にすがるのみの単純な信仰に立ち続けることである。そう主は示されるのである。ペテロ自身、第1ペテロ2:1〜2で次のように証言している。
「〜ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いをえるためです。」
ペテロの経験がしっかりと裏打ちされています。
 私は青年時代、牧師からペテロというあだ名を一時、頂戴していた。それは、熱い思いを持つ反面、おっちょこちょいで、先走りやすかったためであった。神学校時代の1994年4月26日のことであった。神学校対抗ソフトボール大会の練習の際、神学生であることも顧みず、格好良さだけを求めて滑り込みタッチアウトの場面。格好良さどころか、左足膝の靱帯損傷の大けが。石膏固めの松葉杖状態となった。奉仕どころではなく、何もできずに落ち込んでいった。自分の弱さに泣いた数週間であった。しかし、この経験を通して、自分の弱さや罪が改めて照らし出された。自分というもの、自分の信仰の在り方を問われ、主に取り扱われた貴重な時であった。私たちは、神の前に自分が照らし出されることの幸いを知りたいものである。それが自分のキリスト者としての、皆益に変えられ、恵みとなることを経験し続けたいものである。

B照明3:主御自身のみが照らし出される。
 そんなペテロを主はどのように見られたのであろうか。22:61を見てみよう。<主が振り向いてペテロを見つめられた>という表現は、ここだけにしかない、観察力あふれるルカらしい表現である。このイエスのまなざしは、叱責のまなざしではなく、慈愛溢れるまなざしである。第1ペテロ2:3〜4で
ペテロは言う。
<〜あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。> 主は慈愛溢れるお方であると、ペテロは確信している言葉である。
では、ペテロは、何時、何処で、どういう形で悔い改め、再献身を決意したのであろうか。すべての福音書は、揃って口をつむんでいるように見える。四福音書共に「主を否んだ」ペテロのその理由も訳も述べていない。異口同音に
何を紹介しているか。それは<主イエス・キリストの十字架と復活の事実>である。ただそれを忠実に述べているのみである。涙がガバガバに乾いたペテロの前に、まさしく主の十字架にかかった姿が映し出されたのである。最初はおぼろげであったが、徐々にくっきりと照らし出されたのである。ただ主の姿だけが。ペテロは、主の十字架の前に自分の罪を認め、悔い改め、主御自身のあわれみと慈しみを見たのである。もう一度主に献身を誓ったのである。神は、主イエスの十字架と復活の事実を提示することで充分であると、考えられたのである。
 私たちは、この主の取り扱いを大切にしたい。自分の信仰生活の中での弱さを知った上で私たちを愛し、慈しんでくださる主に改めて献身してゆきたい。