1月2日2000年 黙示録1章 「我はアルファなりオメガなり」
序.新しい年となり、今日からはこの黙示録を通して御言葉を学んでいきたいと思います。黙示録は決して理解しやすい書物ではありません。しかし、だからといってパスしてしまってはいけない。なぜ、この諸は大切なのか、そんなことも交えながら、今日は黙示録の最初の章、いわば序文に当たるところを学ぼうと思います。
1.近づきつつある終わり
(1)黙示文学について さて、日本語のタイトルの「黙示録」というのは「黙示」を記録したもの、という意味です。ではその「黙示」とは一体何なのか。黙示とは、一言で言うと、神様が特別な方法、例えば幻を用いて示して下さった特別なメッセージ、ということです。でも黙示ということの意味を考えるときに、背景として知っておくべき事として、黙示文学というものがあります。まず、その説明をしておきたいと思います。聖書にまだあまりなじんでいない方には分かり難いかもしれませんが、少し忍耐しながらお聞き下さい。 この黙示文学というのは、ユダヤ教の歴史の中で紀元前2世紀から紀元一世紀にかけて流行した文学のスタイルです。そのスタイルはキリスト教会にも受け継がれ、多分現代の私たちが信仰書といわれる書物、例えば三浦綾子の小説などを読むように、初期のクリスチャン達はその黙示文学の一部を、受け入れていったようです。このヨハネの黙示録はその黙示文学に近いスタイルで書かれているので、初代のクリスチャン達にとっては親しみのある書き方だったと思われます。この黙示文学の起源は、おそらく旧約聖書のダニエル書やエゼキエル書などがモデルになって始まったものではないかと思います。ダニエル書の中にも幻のような不思議なことが描かれています。紀元前一、二世紀のユダヤ人たちは、色々な大切なメッセージをそのようなスタイルを真似て、同時代の人々に書き送りました。ヨハネの黙示録は、その黙示文学と全く同じと言うより、その前身である預言書に近いものですが、黙示文学との共通点も多いので、こんな事をお話ししているわけです。黙示文学の特徴を知らないでこの書を読みますと、何がなんだか分からない、ということになってしまうかもしれません。 この黙示文学、そしてヨハネの黙示録もそうですが、その特徴がいくつかあります。まず幻のような不思議な情景があがかれていること。次に様々な象徴、つまりシンボルが使われていること。三つ目に、世の終わりということが重要なテーマのひとつであること、などです。こういった特徴について説明しながらヨハネの黙示録の解き明かしとしていきたいと思っています。
(2)世の終わり まず今上げました三つの特徴の内、最後の「世の終わり」ということに触れたいと思います。キリスト教の教えの中で、「終末」、すなわち「世の終わり」というのは大変重要なものです。それは、イエスキリストご自身が「私はまた来る」と何度も弟子たちに教えられたからです。このことを再臨といいます。初代のクリスチャン達はこの再臨がもうすぐやってくると信じていました。この黙示録でも、1章の1節に「すぐ起こるはずの事」と書かれているのはそのことです。でも実際には、まだ世の終わりは、この2000年のいまでもまだ来ていないのですが、しかし、キリストは必ずまた来ると堅く約束されたので、それがいつであるかは分からないとしても少なくともその時が近づいている、3節の最後に書かれていることは今でも間違ってはいません。そして、この「世のおわり」はクリスチャンにとってはその救いの完成の時でもありますので、私たちにとっても大変関わりのあることです。大変重要な事なのですが、キリスト教の歴史を振り返りますと、ある時はこのことが過度に強調されてすこし脱線してしまったり、逆に過小評価されて無視されたりしたことがよくありました。熱狂的、あるいは狂信的に「世の終わり」が強調されるのは、社会が不安定なとき、特に世紀末のようなときです。(この西暦2000年が20世紀の最後の年か、21世紀の最初の年か、意見の分かれるところです。)去年までは社会全体でも世の終わりということが流行することがよくありました。でも2000年になって、新しい時代が始まったと多くの人が思うようになると、このことは忘れ去られてしまうかもしれません。しかし、私たちはイエスさまの約束されたことですから、それがいつになっても良いように、いつでも、特に社会全体がそのことを忘れてしまうような時にこそ、このことをしっかりと学んでおくことが大切です。 その日がいつかは分かりません。しかし、キリストが再び来られた時に、キリストの僕として忠実に生きているものは幸いだと聖書は教えています。その意味でも、今年、この黙示録を学んでいくことは大変意義があると思います。3節。
2.七つの教会への恵み
(1)手紙としての黙示録 さて、ヨハネの黙示録には他の黙示文学とは違う部分もあります。その一つが、この書物は手紙でもあるということです。手紙と言っても、私たちが普通書く手紙とは随分違います。新約聖書のなかには、多くの手紙が含まれていますが、それらは教会の指導者たちが各地の教会に大切なメッセージを伝えるために書かれたもので、それがその教会だけでなく他の教会にも廻されて読まれていきました。この黙示録もそれと同じように、ヨハネから7つの教会に宛てて書かれたものです。その手紙としての序文が4節から始まっています。宛先の七つの教会は11節にそのリストがでています。これらの教会は、当時「小アジア」と呼ばれていた地方、現在のトルコの西部地域にある七つの町にあったものです。ところで、この七つの教会とうことですが、最初にお話ししたように、黙示録の中では様々なシンボルが使われています。七という数字もその一つと考えられています。この黙示録の中には50回以上7という数がでてきます。その多くか何かの象徴的な意味で使われています。もともと旧約聖書の中で「7」というのは、よく完全を示す意味で使われることがありました。ですからこの7つの教会というのも、単に一つの地域の7つの教会であるよりも、当時の各地の教会の代表として上げられていると考えるのが良いと思います。そして、それは時代を超えて、全時代の全世界の教会の代表でもあります。この手紙は私たちをも含め、全ての教会、全てのクリスチャン、そして全ての人に向けて書かれた手紙であるということです。
(2)手紙の目的 いったい何のためにこの手紙が書かれたのでしょう。もちろん、この書の内容は世の終わりについて読者に知らせるものです。でもわざわざこのことをテーマにして書いたのは理由があるわけです。それはこの時代の教会が困難の中にあったということです。苦しみの中にいるクリスチャン達を励まし勇気を与えるためにこの手紙が書かれました。5節に、「恵みと平安があなたがたにあるように」と書かれているのは、単なる形式的な挨拶ではなくて、この書物の書かれた目的がそこに込められているのです。困難の中にある人たちが、キリストからの恵みと平安を受け取ることができるように。ですから、この手紙は現代の私たちにも励ましと希望を与えてくれる神からの手紙だと思います。 当時の教会の困難の第一は迫害でした。9節を見ますと、この書を書いたヨハネという人もこの時、キリストを述べ伝えているために迫害を受け、地中海にあるパトモス島という島に流されて、牢屋ではありませんが不自由な状態にありました。(このヨハネというのが誰なのかについては色々な学説があります。といいますのは、新約聖書の中には何人かヨハネという名前を持った人物がおりましたし、1世紀のクリスチャンの中にもヨハネという指導者が聖書にでてこない人のなかに板ことが分かっているからです。伝統的にはこの書を書いたヨハネは十二弟子のひとりのヨハネだと言われています。決定的な証拠はこの黙示録自体にはでてこないので、結論はでないのですが、私としてはおそらく十二弟子のヨハネだったと思っています。というのは、ヨハネの福音書の最後で、弟子のヨハネについて、彼がキリストが再び来られるときまで生きながらえるかどうか、ということをキリストが語っている記事がでています。それはヨハネが再臨まで死なないという意味ではないと説明が付け加えられているのですが、イエス様がそのことを言われたときに、何の意味もなく言われたというよりも、いつの日にか、このヨハネに御自分が再び来られる時の情景をお見せになるつもりがあったのではないかと思うのです。閑話休題) 大変厳しい迫害、時には命を失うこともあった、そんな時代のクリスチャンにとってやがてキリストが再び来られて、救いを完成して下さるというのは、大きな希望であり、彼らの支えでもありました。でもこれは迫害下のクリスチャンだけのことではないと思います。苦しみや悩みの中にいる人にとっても励ましを与えることです。今、私たちは政治的な迫害は受けていません。もちろん、現在でもこの世界には迫害を受けているクリスチャン達が多くいることを忘れては行けません。彼らのために祈り事は私たちの責任でもあります。では、日本やアメリカにいるクリスチャンにとって迫害は直接に関係することではないのでしょうか。中には信仰を持った故に家族や友人から受け入れてもらえない経験をする人もいるかもしれません。でもそのような小規模の迫害さえも無いこともあります。しかし、そんな、いわば「平和」な時にも迫害は無関係ではないと思います。悪魔は、そんな平和な時代のクリスチャンには違った形で信仰を弱らせようとします。例えば、いまのアメリカにキリスト教を否定する法律はありません。ところが、平等であるために全ての宗教を等しく扱う必要がある。だからクリスチャンが自分の信仰を主張しようとするとそれに対する無言の圧力が加えられることがあります。たとえば公立の学校ではキリスト教信仰を顕すことが禁じられている州もあります。またそういう風潮の中で、クリスチャン自身も福音を伝えることに遠慮を感じることもでてくる。これは、言うなれば、ソフトな迫害なのかもしれません。また、逆に何も反対がないために危機感を失い、福音を伝える使命が二の次のされてしまう事もあります。(お鍋に水をはり、その中にカエルを入れて弱火にかける話を聞いたことがあります。水がだんだん暖かくなるとカエルはいい気持ちになる。[お風呂に入りたいですね。]ところがやがてお湯が熱くなり、いつの間にかカエルは茹でガエルになってしまう。私たちもぬるま湯に慣れてしまい、いつのまにか茹でガエルにならないように気をつけなければならない。)迫害を受けているクリスチャンのために祈り、また聖書の中の迫害に関する教えを学ぶ、そのようにして迫害を自分の事として考える必要があるのではないでしょうか。
どんな迫害や困難の中にあってもなお希望を失わない、そのカギはキリストにあります。
3.そこにおられるキリスト
(1)神としてのキリスト 13節からにキリストの姿が描かれています。「人の子」というのは福音書の中でキリストが御自分の事をさして言った言い方です。でも14〜16節のキリストの姿を実際に思い描くと少し恐ろしい気がします。でも、ここに書かれているのは幻であり、またシンボル的な表現を使っています。たとえば、13節の服装は祭司の着る物と思われます。キリストは真の大祭司であることがヘブル書に書かれています。また光り輝くような白い衣は、変貌山の上でキリストの姿が変わったという福音書の記事を思い起こさせます。16節の口から剣がでているというのは、ちょっと不気味ですが、これはイザヤ書の中の主の僕についても同じような表現が使われ、おそらくこの剣というのは神の言葉の事を象徴していると考えられます。全部のシンボルについて説明すると長くなるので省きますが、ここにでてくるキリストは、人間になられたお方だけれども、本当は神である、その姿を描いているのです。そのようなお方の前にでることは恐ろしい事でもあります。ところがこの幻を体験しているヨハネにキリストは「恐れるな」と言われます。なぜでしょうか。また、この「恐れるな」はイザヤ書に何度もでてくる言葉を思い出させます。恐れるような状況の中にいる人に対して、また自分の罪の故に神の前に恐れずにはでられない人間に対して、キリストは「恐れるな」と言われる。どうしてでしょうか。
(2)アルファでありオメガであるキリスト 今日の説教の題の「アルファ」と「オメガ」というのは、ギリシャ語のアルファベットの最初と最後の文字です。(週報の表紙に書かれている記号が、このアルファとオメガです。前任者の伊藤先生のころの週報から引き継いだ物です。もっとも以前は手書きで、その方が格好良かったのですが。)8節では神様が「アルファでありオメガである」と書かれていて、17節ではキリストが「最初であり最後である」と言われているのは、同じ事です。黙示録の最後の部分では再びキリストについて「アルファでありオメガである」と書かれています。 ではキリストがアルファであり、オメガであるとはどういうことでしょうか。世界の最初と最後だけ、あるいは2000年前に来られ、再臨の時にもう一度来られるが、その間の時代はおられないということではないと思います。最初と最後だけならキセルです。(キセルは昔の日本で煙草を吸うときに使ったパイプで火を点ける先っぽと口に含む部分だけが金、すなわち金属でできている。そこで、列車に乗るとき最初の一区間と最後の一区間だけ金を使いあとは只で乗ることをキセルと呼ぶようになった。)イエス様は最初と最後だけおられて後は天で眠っておられるのではない。今も私たちの救いのために天で大祭司として取りなしをしてくださり、またキリストの霊である聖霊によって私たちを助けていて下さるのです。アルファとオメガというのは、最初と最後によって代表される全体のことで、キリストは全時代、全世界、そして万物の主であるという意味です。私たちにとってもイエス・キリストは主です。それは日曜日だけの主ではなく、日曜に始まる一週間のすべてにおいて主であるのです。調子の良いときだけではなく、あるいは逆に困ったときだけでもなく、全ての事に置いて、全ての時に、キリストは共にいて下さるのです。そしてそのことを良く示しているのが18節です。
(3)命と死のキリスト キリストは十字架で死なれたが、三日目に復活され、今も生きておられ、天におられる。そして永遠に存在されるお方です。それだけではなく、死とハデスのカギを持っておられる。このハデスと言うのは、1世紀のクリスチャン達が、人間が死んだときに行くところだと考えていたものです。ですから、死んでハデスに行っても、キリストはそこにもおられ、カギ、すなわちそれを支配する権威を持っておられる。命においても死においてもキリストは主なのです。そしてこのことは迫害の中にいる人々には心の支えとなることでした。迫害を受け苦しめられ、最後には殺されるかもしれない。しかし、死んで行ったところにもキリストは主としていて下さるのだから恐れることはない。いや、キリスト自身が様々な困難も悲しみも、そして迫害による死さえも味わって下さったお方です。ですから、どんな状況にあっても共にいて下さり、その人の気持ちを分かって下さるのです。 今までに何度もお話ししたのですが、もう一度、「あしあと」の話を思い出したいと思います。「ある人が砂浜をキリストと共に歩いている夢を見た。振り返ると足跡がいつも二人分あった。それは彼の人生だった。ところが彼が苦難の中で苦しんでいた時には足跡は一つしかなかった。彼は訪ねた。主よ、どうしてあの辛い時に一緒に歩んで下さらなかったのですか。すると主は答えられた。私は一緒にいたのだよ。でもあのときは私はあなたが倒れないように抱きかかえて歩いたのだ。だから足跡は一人分なのだ、と。」 キリスト教の救いは自分の調子が良いときだけの信仰ではない。楽しい時だけ、イエス様は共にいて、辛いときにはどこかに消え、その苦しみが終わったらまた来て下さる、そんなお方ではない。その苦しみを共に味わい、私たちを守り励まして下さる救い主です。世の終わりまでも共にいて下さる。私たちの人生でも、終わりの時まで、いや、その先にもいて下さるお方です。また苦しみのなかにもおられます。そして私たちと神様とを隔てている私たちの心の中の罪さえもご存知で、その中にも来て下さり、その罪を赦して下さるのがイエス様です。
今日はこの後、聖餐式を行います。いつもこの聖餐は洗礼を受けた方に限らせていただいていますので、まだ洗礼を受けておられない方には見学をしておただいてます。でも本当は一日もはやく全員がこの聖餐を受けるようになっていただきたいと願っています。 聖餐のパンとブドウ液はキリストの体と血を顕しています。これをいただくことでキリストが私たちの内に入って下さり、私たちを生かして下さいます。でもそれは、このパンやブドウ液に魔法のような力があって、誰が受けても同じようになるというのではありません。むしろ、キリストを主として心に迎え入れたことを目に見える形で示すことです。ですから、教会に来られる全ての方が、イエス・キリストを救い主として信じ受け入れ、それを自分にも教会にも、また社会にも明らかにする意味での洗礼を受けていただくように祈っています。もし、キリストを受け入れたいと願っている方、あるいは洗礼を希望する方がおられるならばどうぞ牧師にお知らせ下さい。その方のために喜んで祈りたいと思います。