2002年1月1日新年礼拝『祝福の人生−主のおしえを喜びとする』詩篇1:1〜6
エジプトで奴隷状態に置かれたイスラエルの人々は、神はいったい、何をしておられるのだろうと思ったに違いない。私たちも時々、そのように感じる。失望や孤独や不安を感じるのである。私たちは先のことを考えて、自分や愛する人たちの将来がどうなるのだろうと心配する。また一方で、この年どういう祝福を神は用意してくださるか、とも考え、主にお従いしてゆこうと決心する。
ここにはそういう心配を処理する道と、祝福の人生を歩む秘訣が示されている。
幸いで、祝福に満ちた歩みは、そう次のような人にある、と聖書はズバリ宣言する。2節「まことに、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」その人であると。その人は何を喜ぶのか。家内安全?無病息災?商売繁盛か?そうではない。主のおしえを喜ぶのである。神が与える教えをである。全ての人生の道しるべであり、羅針盤である聖書のことばをとおして、教えられる教えである。聖書の言葉が与えられていることを心から喜ぶのである。そしてそれを毎日毎晩口ずさみ、主が教えてくださろうとすることを思いめぐらすのである。この<口ずさむ>ということは、おいしい食事を味わうように、よく味わうということである。神は御自身のことばに忠実な主なる神であられる故に、その神のみこころを行うことを願い求める者が失敗することはあり得ないという確信と喜びが、幸いな、祝福の人生の秘訣である。「喜びとする」とは積極的に神のことばを学び行う態度である。
そのような者に神はつぎの3つを与えられるのである。
@神は私たちに<安定を与えられる>。1〜4節。
世の中は非常に変わりやすい。人々は私たちを失望させ、慣れ親しんできた場所は変わり、行動の基準は変化する。ある意味で、「悪者のはかりごと」「罪人の道」「あざける者の座」はこの世に溢れている。
「悪者」−意図的に神の命令に背き、不安定で落ち着かない者。
「罪人」−的を外れた生き方をしている者。
「あざける者」−誇りと高ぶりに左右されて、正しいことや聖なることをばかにする者、のことである。
「はかりごと・道・座」という表現によって、悪の巧みさ・魅力・力強さが現されている。「歩む・立つ・座に着く」という表現は、悪に引き込まれてゆく様が具体的に順序立てて現されている。そのような者の歩みは、「もみがら」のようだと言う。麦の脱穀作業は四方から風が吹く小高い丘の上で行われる。そして殻は風で吹き飛ばされる。どこへ飛んでゆくのか分からない、行く先もない例えである。悪者は、神の前におけるさばきと滅びにさらされる。しかし、私たちは揺るぎないみことばを信頼し喜びとする者である。私たちは、しっかりと地に根を張った「水路のそばに植わった木」なのである。私たちはあらゆる不安定な事柄にもはやかき乱される必要はない。
A神は私たちに<実を結ばせる>。3節。
雨のあまり降らない乾燥地帯では、植物は川のほとりだけで繁茂する。私たちは、自分は敵意を持った人々の中で、また私のことなど関心もないという人の中で暮らしていると感じているかも知れない。家族は私の信仰を支持していないし、同僚も自分をからかう。しかし、私たちが神に拠り頼んでいるなら、私たちは困難な場所でさえ成長し、栄えることができるのである。
B神は<私たちを導き、守られる>。6節。
正しい者は主の導きと配慮の中に守られる。なぜなら私たちの全ての思いと歩みをご存じであるからである。私たちのことを思って神は全てのわざを行われるのである。
主のみことばを喜び、みことばを通してなされる主のわざを喜んで受け入れ、みことばに教えられる者でありたい。聖書を何よりもまず読み、祈り、思いめぐらし、みことばを待ち望んで歩みたい。