2001年元旦礼拝説教 「主に仕える」
ヨシュア記24:14,15
序. 去年、といっても先月のことですが、二つの事を思いめぐらしていました。一つは、ヘブル書の次にどこから御言葉を取り次ぐか。もう一つは、来るべき年、つまり今年の御言葉の事です。新しい年、神様はどのような言葉を通してグレンビュー教会を導こうとしておられるか、神様に問いつつ考えておりました。ヘブル書の次の説教箇所としてはヨシュア記にするように導かれたのですが、そのとき、頭に浮かんだのが先程読んだ15節の最後の言葉です。ご存じの方もおられると思いますが、我が家の入り口にこの御言葉が書かれたプレートが掛けられています。前の英語部の主任牧師であったパスター・デイクがくださったもので、もちろん英語で書かれています。文語訳では、「我と我が家とは共にエホバに仕えん」。今日説教の後で歌う聖歌584番では、曲に合わせて歌いやすいようにしたようで順番が変わっていますが、「我が家と我は主に仕えん」。そのときからこの賛美が心にとどまるようになりました。
主に仕える。それは大事な事であり、なすべきことですが、いやでもしなくてはならない、というのではなく、主に仕えることの恵みを味わう、そのような一年であったら幸いです。今朝は、「主に仕える」という事をヨシュア記のこの言葉を通して共に学びたいと思います。
1. 主に仕えることが救い
このヨシュア記というのは出エジプトに始まるイスラエル民族の救いの出来事の、いわば完結編です。エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルを神様がモーセを遣わして救い出します。最初、モーセがパロのところに行って交渉するのですが、そのとき、エジプトから出ていく理由としてモーセが告げたのが、初めは「神様を礼拝するため」でしたが、やがてモーセはこう言うようになります。「主はこう仰せられます、私の民を行かせて、彼らを私に仕えさせよ」。つまり、イスラエルの救いは単に奴隷からの解放ではなく、パロに仕えることから主に仕えるようになることでもあります。
神様の力によって彼らはエジプトを出ました。そして、途中40年間の放浪もありましたが、ようやく約束の地カナンの入り口まで来た。モーセはそこで死に、ヨシュアが新しい指導者となってイスラエルをカナンの地に導き、戦いの末にその地をおおむね手に入れた。そのヨシュア記の、そして出エジプトという救いの出来事の結論に当たるのがこの24章です。そこに書かれているのが、この、「我と我が家は主に仕える」という言葉です。ですから、イスラエルの救いは神様に仕えることと深く結びついている訳です。
これは、別に旧約のことだけではありません。新約の救いも「主に仕える」こと抜きには片手落ちなのです。イエス様がこんな事を話されたことがあります。汚れた霊が人から出ていったのですが、休み場所が無いので元の所に帰ってきました。するとその家はきれいに掃除されているので、仲間の汚れた霊を七つもつれてきて住み着いてしまいます。するとその人の状態は前よりももっと悪くなってしまう、というのです。キリストによって罪が赦され心をきれいにしていただいても、そのままだといけない。その心にイエス様に住んでいただき、家の主人になっていただかなくてはなりません。さもないと、自分を主人とし、自分の欲望のいうままに生きる、結局罪の奴隷に戻ってしまうのです。
救いというのは罪の奴隷の状態から救われるのが前半とするなら、神様を主として生きるようになるのが後半です。この二つはどちらが欠けてもいけません。ですから、主に仕える生き方というのは実は間違った主人から離れ正しい主人に仕えるという意味で、救いなのです。
2. 主に仕えることは自ら決めること
さて、救いということを、罪の奴隷から主に仕える者に変えられることとお話しました。人によっては、「何だ、罪の奴隷から神の奴隷になることか」と思うかも知れません。そうではありません。奴隷というのは自分の意志に反して仕えなければならず、自分の力では逃げ出すことができない状態です。主に仕えることは自分の意志で従うことを選ぶのです。
ヨシュアが「我と我が家は主に仕える」と言ったとき、それは「例え他の人が神に逆らい離れても、自分はこの神に仕える」という決心、すなわち彼の意志を表明したことです。誰かがしたから自分もまねをするとか、しなければならない義務感や責任感で仕えるのは、本当は仕えていないのです。仕えるためには、それが恵みであることを御言葉によって教えられることが前提です。キリストの十字架の愛を感じて感動することも必要かも知れません。しかし、仕えるかを決めるのは自分です。自分から神様に仕えることを選び、神の命令を実行することを決意するのです。実行することにおいては、自分の力で達成できないこともあるかもしれません。でも、まずそうすることを自分から願い出なければ仕えることはできないのです。なぜなら神様は人間を強制的に、奴隷やロボットとして使うことを望んではいないからです。
先程から「主に仕える」ということをずっと語っているのですが、具体的に何をすることかはあまり触れていません。それは人によって様々でしょう。奉仕することもその一つです。証しもそうかもしれません。御言葉を聞くことも仕えること。例え、目に見える行動に現れなくても、神様の言葉に従う用意ができているなら、それも仕えることに含まれるでしょう。内容よりも姿勢が問われます。なぜなら、主に仕える気持ちが無くても、人間は今あげたようなことをすることができるからです。でも、心から仕えようとしないと、いろいろな問題が生まれます。ただ、人間は弱い者ですから、最初は神様に仕えたい気持ちで何かを始めても、いつの間にか義務感や責任感を感じたり自分の満足を求めたりすることもあり得ます。そんなとき、自分はだめだと気落ちする必要はありません。気がついたときに、もう一度神様の前に出て従う決意をすればよいのではないでしょうか。
3.主に仕えることは共にすること
「他の人がどうでも、自分は神に仕える」ということと「共に仕える」というのは矛盾するように思えますが、そうではありません。「自分は仕える」という決心は個人の問題です。しかし、仕えること自体は一人ではなく共同体が行うことです。ところが、自分だけがしている、と思うときに人間は孤独に陥ったり、他者を批判の目で見てしまいます。でも、教会の頭であるお方に仕えることは体の部分が力を合わせて行う事です。ちょっと右手を挙げて見てください。動かしたのは手の筋肉だけでしょうか? 手を支えるために肩を使い、胴体の筋肉も無意識に使っています。心臓が血液を手の筋肉に送り、その筋肉を働かすために肺が酸素を取り入れ、栄養は...? 医学の知識が乏しいので詳しいことは分かりませんが。でも、体の一部分の働きは、体全体の働きでもあるのです。表面に現れる動きは違って見えても、必ず共に働いているのです。見えないところで助け、支えている誰かがいるのです。主に仕えるとき、私たちは決して孤独ではありません。主に仕えることは共に仕える仲間が与えられる恵みでもあるのです。
ところで、「我と我が家は」と聞きますと、ああ、クリスチャンホームのことかな、と思うかも知れません。独身の人やまだ家族の中で自分だけがクリスチャンだという人は関係ないのか、というと、そうではありません。もちろん、クリスチャンホームを形成することは大変重要なことですから、家族に福音を伝えること、またこれから結婚する人はクリスチャンと、あるいは相手がクリスチャンになってから結婚することは大切です。でも、「我と我が家」といった時、それは人間的な家族だけではないと思います。共に主に仕えるという点では、神の家族であり、キリストの体である、教会のことも含んでいるのではないでしょうか。今年、この教会が、神の家族として、キリストの体として、共に主に仕えていけたら幸いです。
まとめ. 「主に仕えよう」という話をしますと、たくさん奉仕をし、いろいろな活動をするのかな、と心配されるかもしれません。大丈夫です。できないことを無理してすることが仕えることではありません。体には休息も必要だと言うことは、頭である主ご自身が私たちよりもよくご存じです。また、栄養をいただくために、御言葉の前で静まることも仕えることです。ただ、主のおっしゃることはなんでもします、という僕の姿勢を忘れないようにしましょう。従って行くという決断をしましょう。「我が家と我は主に仕えん」。この新しい年、このような思いで、主の前に共に進み出ようではありませんか。